開宴
「あの病院では子供を産まねぇ方がいい」
この町でかつてよく耳にした噂だ。
姉小路総合病院。
町の中心からやや北東にずれた所に位置する小高い丘の上に建っている、古めいた病院の名前である。その歴史は古く、戦前から丘の上を占有し空襲で焼けることもなく今までこの寂れた町唯一の病院として皆に親しまれてきた。
しかし、そんな由緒正しい病院だが、一つだけ不気味な噂があった。赤子を産もうとその病院に入院すると、死産するという噂である。いつからそのような噂が流れ始めたのかは定かではないが、終戦直後は町で知らぬ者はいないほどであった。このため、町の妊婦達の多くは家庭分娩や隣町の病院まで足を延ばしていた。しかし、ここ最近ではそんな噂も影を潜め、町民は安心してお産のために姉小路総合病院に入院していた。
*
姉小路総合病院の一階にある古びた喫茶店「パーラーアオヤマ」の隅にある窓際の席に座っている下塚智子は溜息をついていた。せっかくの土曜日だが窓の外は雨が降っていた。注文したアメリカンコーヒーは既に冷めており、その油の浮いたどす黒い液体に反射する智子の顔はひどく苛ついているようだった。
智子の周りの席には何人かの入院患者が腰を下ろしていた。そのいずれもが若い女性であり、下腹部が半球状に膨らんでいた。皆、思い思いに過ごしているがどこか嬉しそうであり、中には愛おしそうに己の膨らんだ腹を撫でる者もいた。
そんな様子を見て智子の苛立ちはさらに強くなっていった。
最近どうも妊婦が多い。特にこの喫茶店は妊婦にも優しいノンカフェイン飲料を前に押し出してアピールしており、そのおかげか客に妊婦が多い。それはいい。自分には関係ないし、おめでたいことだろう。しかし、妊婦どもの幸せそうな雰囲気が気に食わないのだ。
智子は席を立ち伝票を持ってレジに向かった。こんな腑抜けた空気の場所なんかさっさと立ち去りたかった。これ以上、彼女達と自分を比較して惨めな気持ちになりたくなかった。喫茶店を出た智子は足早に階段まで行くと、二階まで登り廊下に出た。廊下を真っ直ぐに歩き、ナースステーションの前を足早に通過した。受付にいた若い看護師が軽く会釈をしたが智子が挨拶を返すことはなかった。そのまま廊下の突き当りまで来ると、とある病室の前で立ち止まった。その病室の入り口には白い無機質なプレートがかけられており、上半分には二〇七と記載され下半分には手書きで「下塚敏夫様」と書かれていた。
ふぅっと一息ついてから智子はその病室の引き戸を横に開けて中に入った。中は八畳ほどの個室で窓側に一つのベッドがあった。そのベッドに入院服を着た少年が一人、横になっていた。その顔に被された透明なマスクから伸びた太いチューブがベッド脇の人工呼吸器につながっており、腕には点滴の細いチューブが白いテープで固定されていた。両目を瞑り口を少し開け寝ているようだ。ピッという医療機器から発せられる音だけが病室に響いていた。
「敏夫」
ベッドに近づいた智子が寝ている少年に声をかけた。反応は無い。
敏夫は智子の一人息子だ。敏夫以外に子供はおらず生むつもりもなかった。最愛の息子だった。敏夫が小学校に入学した時は入学式でぼろぼろと泣いて喜び、運動会では早朝から手作りの弁当を用意しかけっこを走る敏夫を熱心に応援した。智子は敏夫に溺愛していた。
そんな愛する我が子が入院したのは去年の秋だった。学校から帰った敏夫がリビングで急に苦しみ出したと思えば、血走った両目をぎょろりとひん剥いて口の端から白いべたついた泡を豪快に垂れ流して倒れた。急いで救急車を呼んで病院に搬送してもらい、救急外来で心肺蘇生が施された。その後、智子は医者から敏夫の病名を聞いた。長ったらしく小難しい病名で、とても覚えきれないものだった。年老いた看護師が「犬還り」と言っているのを偶然耳にした。それが息子の病気の俗称だった。
智子は敏夫の病室である二〇七号室に寝泊まりしていた。病院に簡易ベッドを用意してもらいその分料金を払った。少しでも長く息子の傍にいてあげたかったのだ。幸い夫は単身赴任中で、家の事をしなくても誰からも文句は言われなかった。
「敏夫」
もう一度智子は横になっている息子に声をかけた。もちろん反応は返ってこない。しかし、こうして一日に何度か話しかけないと敏夫が死んでしまうのではないかと不安で仕方がなかった。
智子は窓の外を見た。窓からは病院の中庭が見えた。一階の廊下の途中に中庭に出入りするための小さなガラス扉があり、そこからしか入ることはできなかった。草木が生い茂りそこまで手入れが行き届いていないので人気も無い中庭だったが、智子は一人になりたい時はよく中庭に足を運んだ。最初の方こそ病室では敏夫に見られて一人ではないと自分に言い聞かせて中庭に向かっていたが、今では不思議と落ち着く場所となっていた。
壁にかかっている時計を見ると、時刻は午後四時半をまわっていた。智子はここで息子と過ごすようになってから早く寝るようになった。八時には簡易ベッドで横になっていた。今日も後は夕食を軽くとって見舞い客用のシャワー室でシャワーを浴びてこの部屋で敏夫と過ごして眠るだけだった。しかし、不思議と今日は食欲が沸かなかったのでシャワーを浴びてさっさと寝てしまおうと思った。
シャワーを浴びて寝間着に着替えた智子は病室の簡易ベッドに腰を下ろして敏夫を見た。定期的に検診で看護師や医者が様子を見に来るが、基本的に敏夫の傍にいるのは智子だけだった。そんな境遇の息子が堪らなく不憫だった。ふっと眠気を感じて智子は簡易ベッドに横になった。目を瞑るとその眠気は一気に強くなり、あっという間に智子を眠りへと誘った。
*
気付いた時、智子は暗い廊下に一人で立っていた。電灯はついておらず非常灯の緑色の光が廊下をうっすらと照らしていた。どうにも見覚えのある廊下だった。すると、窓の外から歌が聞こえてきた。坊主の読経のようなリズムもくそもない歌だった。不思議なことに智子はその歌に魅かれ、歌っている張本人を見てみたいと思った。窓の外を見ると見知った中庭だった。そこは敏夫の入院している姉小路総合病院の二階廊下だった。
階段を降りて廊下を進み、途中にある中庭に続くガラス扉を開けた。相変わらず手入れ不十分の中庭が広がっていた。中庭の隅、背の高い木が何本か生えている場所にちょっとしたスペースがあった。そのスペースには草は生えておらず黒い地面がむき出しになっていた。そこに白い着物を着たぼさぼさの白髪の背の低い人間が一人、中庭の中心を背にして病院の壁を向いて立っていた。あの人間が歌を歌っていると、智子は直感した。その白髪の人間にゆっくりと歩いて近づいた。ぶつぶつと歌っている歌の内容はよくわからなかった。脳が理解するのを拒んでいるようであった。
「あの」
意を決して声をかけた。歌がピタリと止んだ。歌っていた白髪がゆっくりとこちらに振り返った。それは白髪に覆われたしわくちゃの老婆であった。眼窩は少し窪み、前歯が少ししか生えていない気味の悪い老いた醜女だった。
「ひっ」
老婆のあまりの醜さに思わず小さな悲鳴を上げて後ずさってしまう。すると老婆は智子をじっと見ると口を開いてぼそっと
「ぼこが起きぬか」
と言った。
言っていることの意味がわからず智子が困っていると、老婆はさらに続けて口を開いた。
「げにまっこと難儀よのう」
老婆の言葉を聞いて真っ先に智子の脳裏に浮かんだのは我が子の事だった。もしかしたら目の前の薄気味悪い老婆は敏夫について言っているのではないかと思った。そのことを確認しようと老婆に訊こうとした時だ。
「どれ、わしがぼこを起こしてやろう」
老婆の発言に智子はかっと目を見開いた。目の前の老婆は今とんでもないことを言ったのだ。その言葉は今や智子にとって一本の光の糸筋であった。藁にも縋る思いの智子は、敏夫を助けるためなら何だってするつもりだった。どんな高額な治療でも、オカルト的な胡散臭いカルト宗教でもなんでも試してみるつもりだった。智子は老婆の話に食いついてしまった。
「ど、どうすれば、どうすれば敏夫を助けることができるんですか!?」
「交換ぞ」
老婆は先ほどと同じような調子でぼそりと言った。興奮して声を荒げる智子と対照的であった。
「な、何とですかっ」
「おぬしはここで歌を歌えばええ」
予想外の条件に智子は戸惑ってしまった。
「どういうことですか? 歌って、何を歌えばいいんですか?」
「歌はおのずと口から漏れる」
老婆が続けた。
「丑の刻ぅ、この場にてぇ、孕んだおなごをよぉく思うてぇ、歌うのじゃ」
「真夜中にここで……孕んだ女を、思う?」
「そうじゃそうじゃ。よぉく思うのじゃ」
老婆の両目が少し細まった。
「おなごの臭いの染みた湯文字なんぞあるとなおよいのぉ」
智子は湯文字という言葉に聞き覚えは無かったが、肌着か何かだと思った。老婆の提示する条件は気味の悪い儀式めいた行為であったが、智子はただならぬものを感じた。老婆の言うとおりここで歌を歌えば敏夫が助かるのではという予感がした。
「ただし」
老婆がぎょろりと眼を見開いた。その目はうっすらと白濁し智子に焦点が合っていないように思えた。
「ただし、決して誰にも見られてはいかんぞえ」
「見られたらどうなるんですか」
「恐ろしいことになるのぅ」
首を伸ばすように智子に顔を近づけて老婆が言った。
「ぼこは地獄に落ちるぞ」
智子の心臓がびくんと脈打った。強い恐怖を感じた。敏夫が地獄に落ちるだなんて理解ができなかった。
*
はっと意識が戻るとそこは敏夫の病室だった。朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。簡易ベッドの上で智子は呆然となった。夢だった。あれは夢だった。しかし、ただの夢だと吐き捨てることはできなかった。夢の中の老婆の言っていたことを智子ははっきりと覚えていた。しかし、あんな荒唐無稽な話を信じるのに理性がブレーキをかけていた。夢の中では老婆の言葉に信憑性を感じていたが、目が覚めて冷静になった今は疑問を感じていた。それでも老婆の言っていた儀式に魅力を感じている自分に智子は気付いていた。どうすべきか整理をつけられず、気分転換がてら朝食をとりに智子はふらふらと病室を出て行った。
姉小路総合病院の一階にはデイルームがあり、入院患者とその親族が自由に出入りすることができた。また、似たような症状で入院している患者同士や小さい子供をつれた母親同士が交流する場でもあった。一階の購買で買ったサンドウィッチの入ったビニール袋を片手に、智子はデイルームの中に入ると誰も座っていない二人掛けの小さなテーブルの席に腰を下ろした。ぼうっとしながら食べた具の少ないサンドウィッチは味がしなかった。
「あのぉ」
背後から声をかけられた。振り向くと、そこには若い女が一人立っていた。うっすらと化粧をしており口元には目立たないが痣があった。デザインの凝った寝間着を着たその女の下腹部は膨れており、彼女が妊婦だということが容易に判断できた。智子の腹の底でどろりとしたものが蠢いた。
「それ、ラブリーハートのピコラちゃんですよね」
女がテーブルの上を指差した。そこには智子の携帯電話が置かれており、その携帯電話には猫のストラップがつけられていた。その猫は魔法少女ラブリーハートという智子が昔好きだったアニメに出てくる主人公の女の子を導くキャラクターで、名をピコラといった。女はそのストラップを指していたのだ。
「そのストラップ、すっごいレアなやつですよね? かわいいなぁ」
人懐こい笑顔で女は智子に話しかけてきた。なんだこいつはと智子は思った。訝しげな智子の様子に気が付いたのか、女が慌てて頭を下げた。
「あ、ごめんなさい、いきなり話しかけちゃって。私、真奈美といいます。上沢真奈美」
真奈美はそう言って自己紹介するや否やここいいですかと智子に訊き、返事を待たずに智子の向かいの席に座った。
「私、ラブリーハートすごく好きで、今でもたまに見るんです」
「そうですか」
「あ、去年の映画も見に行って、すごく面白かったんですよ。見に行かれました? あの、」
「……下塚です」
「下塚さんっ、私、ラブリーハートが好きな人が周りにいなくて、すみません、それで声かけちゃいました」
真奈美は嬉しそうに智子と会話をした。智子は真奈美の発言に対し一言返事を返す程度だったので正確には真奈美が一方的に話しかけていたのだが、それでも楽しそうにあれこれ話していた。真奈美は結婚してすぐに妊娠した後に旦那の仕事の都合でこの町に引っ越して来たとのことだった。知り居合もいない町のこの病院に一昨日から入院して心細かったところに、趣味の合いそうな歳もそこまで離れていない人間を見かけたので思わず声をかけてしまったとのことだ。
智子は苛立ちを覚えていた。真奈美が実に幸せそうだったからだ。真奈美は何も悪いことをしていないのは理解していた。しかし、どうしても彼女と自分を比べてしまうのだ。これから我が子が生まれてくるという幸せの絶頂といってもいい彼女と、意識不明に陥った一人息子と共に病室で寝泊まりする自分とでは、同じ病院にいながら天と地ほどの隔たりがあるように感じられた。
「あっ、そろそろ病室に戻らなきゃ。検査があるんです」
一通り話して満足したのかすっきりとした表情で時計を見た真奈美が言った。
「下塚さん、ありがとうございました。あの、私三一二号室なので、よければまたお話ししましょうっ」
席を立った真奈美がぺこりと智子に頭を下げた。そしてぺたぺたとスリッパの音をたててデイルームの出入口へと向かっていった。その時、真奈美の履いている寝間着のズボンのポケットから何かがぽとりと落ちた。真奈美は気が付かずにデイルームを出るとエレベータ―ホールの方へ歩いて行ってしまった。
智子が面倒くさそうにその落し物を拾おうと席を立って近づいた。しゃがんで拾おうと真奈美が落としていった物をよく見ると、それは小さく畳まれたハンカチだった。どくりと智子の脳内で血流が加速した。夢の中で老婆が言っていたことを思い出す。震えた手でハンカチを拾うとじっとりと湿っていた。真奈美はこのハンカチで何度か手を拭いたのだろう。少しだが、彼女の匂いが染みているかもしれないと智子は思った。
チューブにつながれベッドに横になっている敏夫の光景が智子の脳裏によぎった。鼓動が早くなりじっとりと汗をかいた。智子はハンカチを上着のポケットにしまうと足早にデイルームを出て行った。
*
その晩の午前一時半過ぎ、智子は病室を出た。深夜の院内は物音一つしなかった。見回り中の夜勤の看護師と鉢合わせしないよう用心しながら、智子は一階廊下の途中にあるガラス扉まで来た。唯一の中庭の出入口が施錠されていないか心配したが鍵はかかっていなかった。昼間では心落ち着く場所だったが、深夜の中庭は驚くほど不気味だった。草木の陰に人影が立っているような錯覚を覚えた。時折拭いた風に揺らされて木の枝ががさがさと音を立てた。その音にびくつきながら、智子は一歩一歩夢の中で老婆が立っていた場所に近づいた。そして老婆のように中庭の中心に背を向け病院の壁の方を向いて立った。後は歌を歌うだけだ。老婆はおのずと口から漏れると言っていたが、ここまで来て歌えなかったらと智子は不安になった。
「キュアラブリー、プリティーハート……」
智子が震えた声でつぶやく。それは魔法少女ラブリーハートが変身する際に唱える呪文だった。智子はそのアニメが大好きだった。こんな状況でなければ真奈美ともじっくり話していただろう。アニメの中でラブリーハートが言っていた、変身の呪文は自然と口から出てくるのだと。
真奈美が落としていったハンカチを握りながら智子は目をぎゅっとつむり、彼女の顔を脳裏に思い起こした。デイルームで会話した時の彼女の明るい表情。口元の痣の上に白い歯を覗かせてにこやかに笑う顔。嬉しそうに膨れた腹を掌で擦る様子。智子の腹の底に黒い感情がふつりと浮き出た時だ。
「うめやうめや かわいいぼこを はようめや
うめやうめや ずんどうぼこを はようめや
うめやうめや つぶれたぼこを はようめや
うめやうめや とろけたぼこを はようめや
うまれたぼこを つかんでしめりゃ つぎのぼこをはよはらめ」
抑揚の無い単調なメロディが智子の口から出てきた。途中で詰まることもなく最後まで歌いあげた。歌詞の意味はあまりよく分からなかったが、何か嫌なものだと感じた。ゆっくりと目を開く。中庭は闇に包まれていた。外灯も無く電気のついている病室もない。院内に続くガラス扉の隣にある消火栓ランプだけが赤く光っていた。しばしの間、智子は放心した。確かに老婆の言っていた通り自然と歌うことができた。しかし、不気味な歌を唱えたこの口が自分の物ではないように思えた。智子はふらふらとした足取りで敏夫のいる二〇七号室に戻ると簡易ベッドに横になった。
智子は暗い廊下に立っていた。しばらくして自分が夢の中にいるということに気付いた。相変わらず窓の外から読経に似た抑揚の無い歌が聞こえた。この歌は自分が歌ったものではないのかと智子は思った。一階に降りてガラス扉から外の様子を伺うと、中庭の隅のスペースに老婆が背を向けて立っているのが見えた。中庭に入った智子が近寄ると老婆は歌を止めてゆっくりと振り返った。
「歌ったのぉ、確かに確かに歌ったのぉ」
両目を細めてしゃがれた声で老婆が言った。
「だがまだ一人じゃて」
「それはどういう……」
「足りん」
老婆がぴしゃりと言った。
「あと十二のぼこじゃ」
二、三本しかない黄色い歯を老婆が剥き出しにした。
「あと十二、呪うんじゃ」
*
朝、敏夫のベッド際の窓を開けると外では霧雨が降っていた。昨日の夢を思い出す。まだ一人と老婆は言っていた。一体何のことなのだろうか。いや、そこではない。最後にあの老婆はあと十二、呪えと言った。呪えとは何を意味するのか。智子の背中を冷たい汗が流れた。
智子は病室の隅にある小さい机の上に目を向けた。そこにはハンカチが置かれてあった。智子は無性に真奈美のことが気になり始めた。今すぐに彼女の病室に行けば何かわかるかもしれないと思った。昨日の別れ際に自分の病室は三一二号室だと真奈美は言っていた。智子は小走りで病室を出た。
廊下を進み階段を上り彼女の病室のある三階へたどり着いた。踊り場から廊下に入ると何やら騒々しい。誰かが叫んでいるようだった。廊下を進み三一二号室に近づくとその騒ぎはどんどん大きくなっていった。どうやら真奈美の部屋の方からのようだった。真奈美の病室の入り口は締め切られており中を見ることはできなかった。しかし、中から切羽詰まった男の声と何人かの女の声が聞こえて来た。そして、その声に混ざって時折耳障りな若い女の金切り声が聞こえて来た。聞き覚えのある声だった。脳裏に真奈美の顔が浮かんだ。この叫び声は彼女のものではなかろうか。罵るような助けを請うような、聞く者を不安に駆る叫び声だった。
その時、病室の引き戸がガラリと開いて看護師が一人小走りで出て来た。その姿にぎょっとして智子は息を飲んだ。その看護師は胸から腰にかけて血がべっとりと付着していたのだ。小走りでナースステーションに駆け込んでいく後ろ姿を見送った後、智子は看護師の出て来た病室の入り口に目を向けた。扉は開いたままで中の様子を見ることができた。
病室の中は地獄だった。
血まみれの看護師が二、三人で何かをベッドの上に抑えつけていた。抑えつけられている何かは暴れながら金切り声を上げて激しく看護師達を罵倒していた。何度も同じような単語を繰り返すような罵倒だった。男の医者が一人、細い銀色の器具を暴れる何かの二本の足の間に差し込んでいた。その二本の足は太ももの部分が黒味がかった血で染まっていた。
入口の方を向いていた看護師の一人が、廊下から病室の中を覗いている智子に気が付いた。その看護師は急いで入り口に駆け寄ると戸を閉めた。その際、ベッドの上の何かを抑えつけていた人数が一人減ってしまったので何かがより激しく動いた。戸が閉められる直前にその何かが入り口の方を向き、廊下の智子と目が合った。それは鼻の孔から粘ついた赤みがかった泡を垂らし、涎を垂らしながら歯茎を剥き出しにし、血走った眼球を飛び出んばかりに見開いた化け物だった。涎を垂らす口元に見覚えのある痣のようなものが見えた。その化け物は、真奈美だった。うっすらと化粧をした上品で可愛らしい昨日の顔とは似ても似つかない、鬼の形相であった。真奈美は智子を見るや否やこれまで以上の声量で甲高い悲鳴をあげた。それと同時に戸がぴしゃりと閉められた。廊下には扉の奥から聞こえてくる真奈美の叫び声が響いていた。
真奈美の赤子が死産したという噂を聞いたのはその日の夕方だった。