その2
翌週、東京では加奈子と塩谷の結婚前祝いの宴が開かれていた。会場は、充の父親が経営する居酒屋“さけみつる”だった。
メンバーはイマジカの社員たち、そして翔太と、本人のたっての願いで紗由が同席しており、20人ほどになっていた。
宴もたけなわ、6時を過ぎると、参加者は畳の部屋の中を思い思いに移動し、数人ずつのグループを作って話に花を咲かせていた。
「なあ、高橋…あ、えーと、高橋じゃないな、今は…」塩谷が玲香を前に考え込む。
「いいわよ、高橋で。どうしたの?」
「気のせいかもしれないんだけどさ、さっきから翔太が恨めしそうな目つきで俺を見つめるっていうか…」
「仕方ないでしょう。“俺の愛しの加奈ちゃん”と結婚するんだもの」
「何だよ、それ。翔太には、あんなに可愛い紗由ちゃんがいるだろうが」
塩谷が面白くなさそうに言うと、紗由が翔太の手を引っ張り、走り寄って来た。
「これ、さゆのおいわいだよ!」リボンがかかったナプキン包みを差し出す紗由。
「紗由ちゃーん、ありがとうねえ」塩谷が途端にご機嫌な顔になる。
「あのね、さゆが、つくったの」
「うーん、何かなあ」リボンを解いて中を見る塩谷。「カップケーキ?」
「たべてぇ」首を傾けてお願いする紗由。
「可愛いなあ、もお……にんじんケーキかなあ。はーい、いただきまーす」
薄いオレンジ色をしたカップケーキの3分の1程度の大きさを頬張った塩谷は、ケーキを口に入れた途端、「がはっ」という声を出して咳き込むと、口を押さえてうずくまった。
「塩ちゃん! どうしたの? 大丈夫!?」
「び、びづ……」涙目で玲香を見上げる塩谷。
「は、はい! これ、これ飲んで」
玲香が慌てて傍らのテーブルにあった水を渡すと、塩谷はごくごくと水をがぶ飲みし、涙目で紗由を見つめた。
「紗由ちゃん…これ、何が入ってるの?」玲香が紗由に尋ねる。
「はるぽん、からいものだいすきだって、れいかちゃんがいったから、さゆね、こねこねするとき、からいこな、いーっぱいいれたの」
可愛い笑顔で説明する紗由に、塩谷はまだ気管支が苦しいのを堪えつつ、礼を言った。
「あ、あでぃがどうね…紗由ぢゃん」
「どういたしましてえ!」首を傾ける得意のポーズで挨拶する紗由。
「よかったなあ、紗由ちゃん。はるぽん、涙流して喜んでるで」
心なしか上機嫌な様子の翔太の肩をつかみ、塩谷が涙目で言う。
「いばのおでは、みだいのおばえだ…」
「今の俺は、未来のおまえだ…ね?」
「玲ちゃん、そないなとこ、通訳せんとええから」
「かなこおねえさんにも、あげてくる!」
残りのカップケーキを塩谷の手から取り上げると、紗由が駆け出そうとする。
「紗由ちゃん! 玲香ちゃんが預かりますね。ほら、賢ちゃんが呼んでるわよ」
そういいながら紗由の注意を微妙に逸らすと、ケーキを奪い返す玲香。
「いってきまーす」
紗由が手を振りながら、軽やかに走り去る。その後を追う翔太。
「…ざんぎゅう、だがあぢ」
「…ふう。ごめんなさいね。私のせいだわ。塩ちゃんが辛いもの好きだって、どこかで話したのね」
溜め息をつく玲香の肩を、加奈子がポンポンと叩いた。
「どうしたの、玲ちゃん。…春樹ったら、顔が真っ赤よ。飲みすぎなんじゃないの」
「違うのよ、加奈ちゃん。紗由ちゃんがお祝いに作ったカップケーキ、激辛だったようなの。ごめんなさいね…」テーブルに置いたケーキに視線を落とす玲香。
「ふうん…そんなに辛いのかしら」
「やべどげ…」
ケーキに手を伸ばそうとする加奈子の腕を塩谷が掴む。
「…わかったわ…向こうで休んでたら?」
加奈子が使っていない続き間に積まれた座布団を見ると、塩谷は頷いてふらふらと歩いて行った。
「ついててあげなさいよ、加奈ちゃん」
「いーの、いーの。…ほら、気配り屋さんの進子ちゃんが、もう気づいてる」
玲香が続き間のほうを見ると、高橋が塩谷のもとへ行き、心配そうに塩谷の顔を覗き込んでいた。
「進子ちゃんは、本当によく気がつくわよねえ。あんなにいつも周囲を見てたら、疲れちゃわないのかしら」
「ADよりSPのほうが向いてるかもね」
二人は、顔を見合わせ、うふふと笑った。
「そうそう、玲ちゃん、さっきね…」声を下げ、辺りを気にしながら玲香の耳に口を近づける加奈子。「妙なこと、聞いたのよ。ここの息子さんの充くんから」
「充くんから?」
玲香は首を動かさずに、目だけで充の姿を追った。紗由や翔太と一緒に、賢児から注がれたジュースを飲んでいる。
「青蘭で悪者がスパイをしているって言うのよ。紗由姫を狙ってるって」
「スパイ?」玲香が怪訝そうな顔をする。
「彼が言うには、隣の組に、妊婦の保育士さんの代理というか、臨時職員で来た保育士の男性が悪者なんですって。紗由ちゃんのことを、いろんな子に聞いてるって。
最初はロリコンかしらとも思ったんだけど、もしかして…大隅さんがらみで何か動いているのかしらって、気になってしまって」
「そうね。用心に越したことはないわ。ありがとう。伯母様にお伝えしておくわ」
「うん。…実は春樹もね、最近、会社の周りで不審者に会ったって言うの。その外見的な特徴が、保育士の人と一致してるのも引っ掛かるのよ」
「どんな感じの人なの?」
「ちょっとずんぐりむっくりで、メガネかけてて、その外見に不似合いな青いバングルをしていたらしいの。充くんも、服の中に青い腕輪があったって言ってたわ。あれは秘密組織の通信機械なんですって」
「うん…気にはなるわね…」
「加奈ちゃあん。旦那ほったらかしにしちゃ、ダメじゃなあい」隣の部屋から高橋が加奈子に声を掛けた。
「はい、はい。…じゃあね、玲ちゃん。なんだったら、直接充くんに聞いてみて」
「うん、わかったわ。ありがとう」
「んもう。辛いもの好きなんでしょう?」
「がなこぉ…」
まだ喉から辛さが消えきらない塩谷の傍らに座ると、加奈子はまるで子どもにするように、塩谷の頭をなで、幸せそうに微笑んだ。
玲香は、加奈子から聞いたことを賢児に伝えようとしたのだが、当の賢児は塩谷の上司の営業部長や、医務室勤務医の西川女史と、何やら難しげな話をしているようで、声を掛けるのもためらわれたので、とりあえず充本人に事を確かめようと、翔太と紗由のいた場所へ目をやった。しかし、充の姿はない。玲香は翔太のところへ行き、充の行方を尋ねた。
「ああ、充やったら、今、おめしかえや」
「おめしかえ?」不思議そうに首をかしげる玲香。
「うん。充はな、忍者になるのが夢なんや。せやから、大地くんからもろた服、譲ってやったんや」
「大地くんから…?」ますますわけがわからないという様子の玲香。
「そや。大地くんの服は、元々俺のもんなんや」
「翔太…ごめん、ぜんぜん、言っていることがわからないわ」
「ああ、ごめん。あんな、弥生ちゃんは、俺んこと、こそっと見て、俺の服作ってたんや。
大地んちとは、仕事で付き合いが出来てから、大地くんとまりりんちゃんの服、時々作ってあげてたらしいわ。まりりんちゃんのほうは、服の着方も教えてて、せやから、おしゃれの先生なんや」
「なるほどねえ…」
「んでな。弥生ちゃんは、俺が板前の格好したり、庭つくる人の格好したりするの見て、ユニフォーム作ったりたいな、思うたんやて。そうやって作ったものを、こっそり大地に着せてたんや。
弥生ちゃんと大地くんの秘密や。大地くんは、そうやって出来てきた服を、物置にこっそり隠しておったん」
「大地くんは、何でそんなことをしたの?」
「優しいやつなん。弥生ちゃんがな、自分には、今は会えないけど同じ年の孫がいるて、何かのときに話したらしいんや。
そしたら、先生がその子に会えるまで、僕が代わりをやってもいいよって言うたんやて。それで弥生ちゃんは、俺のために作った服を大地くんに着てもろてたんや」
「…そうだったの」どう答えていいのかわからず、目線が泳ぐ玲香。
「んでな、弥生ちゃんが俺と会えたから、今まで弥生ちゃんが作った服、送ってくれたんや」
「そんなことまで…」
玲香は、いろんな意味で胸が詰まる気がして、ゆっくりとうつむいた。
こっそりと清流の様子をうかがいながら、愛しい孫の服を作っていたのであろう弥生。
娘である自分の結婚式のドレスも、同様にこっそりと作り上げ、一縷の望みを託して弦子に送った弥生。
そんなふうに、肉親ときちんと向かい合えない状況にいた弥生の心を、きっと救ってくれたのであろう大地の優しさ。
しかも大地は、自分が身代わりをしていた、その証を、翔太に譲り渡してくれたのだ。
まだ6歳の大地の、しかも普段はお調子者で何も考えていないように見える大地の、そういった優しさのありがたさと、自分が物事の本質は何も見えていなかったのではないかという恥ずかしさ、いろいろなものがぐちゃぐちゃになっていた。
「玲ちゃん、泣かんでええ」
「翔太…」
「あんな、それで充は忍者になりたいんやて。でな、弥生ちゃんが作ってくれたもんの中に、忍者もあるんや。せやから、それは充にくれたった。もう俺には小さいしな。でも、大地くんからもろたもんやし、筋として挨拶せなあかんやろ。これから大地くんちに行ってご挨拶や」ニッコリ笑う翔太。
そこに、個室の開き戸を開ける音がした。
「ただいまさんじょう、にんじゃでござる!!」
一同が声のほうを振り向くと、そこには忍者姿のコスチュームに着替えた充の姿があった。
「かわいー!」「おおっ」と部屋の方々から声が上がる。
だが充はそれらの声のほうを振り返るでもなく、一目散に翔太のもとにやってきて、方膝を立てて座った。
「ししょう! ただいま、さんじょうでござる。これから、さゆひめの、けーごにあたるでござるます」
「ご苦労さん。でもな、大きい声で言うと、悪者に気づかれるから、注意せなあかんで」
「ははーっ!」さらに大きい声で言う充。そして玲香のほうを向いて尋ねる。「れいかどの。おっぱいと、あかちゃんは、ぶじでござるか?」
「…ええ、まあ」苦笑いする玲香。
「よかったでござる。ししょうのだいじなおっぱいをまもるのも、せっしゃのおやくめでござる」
「おっぱいはいいから、紗由ちゃんのことをよろしくね」玲香の顔は心なしか引きつり気味だ。
「もちろんでござる」
敬礼をする充に、それは忍者のポーズではないと教えるべきかどうか、玲香が悩んでいたときに、部屋の入り口から、さらなる客人たちが登場した。
「こんばんは、みなさま」真里菜が入り口付近で辺りを見回す。
「おじゃまします、こんばんは」奏子が頭を下げる。
部屋にいた一同の目が、再び入り口に向かった。
「かわいい…」会場がざわつく。
「さゆちゃんを、おむかえにきました」真里菜がきっぱりとした口調で言う。
「まりりん! かなこちゃんもだ!」
嬉しそうに叫びながら、駆け寄る紗由。
「おお。まりりんちゃん、かなこちゃん、ごくろうさん」
翔太も入り口のほうへ近づくと、真里菜たちの後ろから疾人が現れた。
「皆さん、お騒がせして申し訳ありません。すぐに失礼しますので…」
「疾人くん!」賢児が立ち上がり、入り口に近づく。
「ああ、賢児くん。紗由ちゃんと翔太くん、久我さんちにお届けするよ。今夜あそこはお祭り状態だ」苦笑しながら賢児に話しかける瑞樹。
「お世話かけるけど、よろしく頼むね」
「ああ。さっき瑞樹くんから電話があったけど、夕紀菜ちゃんがテンション上がってるみたいだよ。こういうイベント、母子そろって好きみたいだしね」
夕紀菜の母親、久我和歌菜は、お嬢様育ちながら子ども好きで保母の資格も持っており、実は保が最初の選挙活動をしていたときに、その支援者の子どもたちの面倒を見ていたりもしたのだ。
「よろしくお願いしたします」玲香が急ぎ気味に瑞樹に歩み寄りながら頭を下げる。
「ああ、玲香さん、そんなにお急ぎにならずに。どうですか、体調は」
「おかげさまで順調です。ありがとうございます」
微笑む玲香に疾人がこっそりと囁く。
「今、皆の一番の楽しみですからね。真里菜ちゃんなんて、あなたのお母様の指導を受けながら、赤ちゃんの洋服をデザインしてるそうですよ」
「まあ、うれしい!」思わず微笑む玲香。
そこへ、加奈子の所属する総務部から参加者の女子社員2人が、おそるおそる疾人に声をかけてきた。
「あの…カウンセラーの四辻疾人先生ですよね?」
「ええ、そうですが…」
「わあ、やっぱりそうだ!…あの、私たち先生のファンで、今日も新刊を買ってからここに来たんです」
「それは、ありがとうございます。本当に嬉しい限りですねえ」
ニッコリと微笑む疾人を見て、さらにテンションが上がる女子社員たち。
「あの、あの、えーと、サインしていただいてもいいですか?」答えを聞く前に、一人が本を差し出し、もう一人がボールペンを差し出す。
テレビに出ている人気カウンセラーということもあり、こういう場面はよくあることなのか、手馴れた様子でサインを済ますと、彼女らと握手する疾人。
「へえ…。イケメン人気カウンセラーは違うねえ」
「保先生には、とても及ばないよ」
「そんなことないよ。親父は、すぐに政治談議始めちゃったりして、効率悪いんだ」
「まあ、それは職種の違いだよ。サインしながら政治談議はできても、カウンセリングはできない。それほどの腕はないからね」
「おじさま。よういができました。まいりましょう」真里菜が疾人のジャケットの裾を引っ張る。
「ああ、真里菜ちゃん。うん、行こうね。じゃあ、賢児くん、玲香さん、またね」疾人が参加者のほうを見回しながら挨拶をする。「皆さん、お騒がせして申し訳ありませんでした。失礼いたします」
「賢ちゃん、玲香ちゃん、いってきまーす」
紗由が二人に手を振ると、ほかの子どもたちも元気に手を振り、疾人は子どもたちを先導しながら部屋を後にした。
「…ねえ、あの色白の綺麗な女の子、四辻先生のお嬢さんよね、きっと。雛人形みたいな顔がそっくりだったもの」
「そうよね、そう思う。可愛いかったわねえ。何か、超ラッキーじゃない?」
「ねえねえ、もう一人の女の子、この子じゃない? ほら、今月号の『Misaki』」女子社員の一人がバッグの中から雑誌を取り出して広げる。
「あー、この子ね。どこかで見たような気がしたのよ。“プリマリ”のモデルの子だったんだ」
「あそこの社長の孫らしいじゃない」
「らしいわね。紗由ちゃんの可愛さにもびっくりだったけど、世の中にはいるのねえ、可愛いセレブさんたちが」
女子社員の噂話に何気なく耳を傾けていた賢児が玲香に言う。
「…まりりんも、何気に有名人だな」
「そうですね。瑞樹さんのところ、今月号の各女性誌で『他の年代に学ぶオシャレ』というクロスオーバー特集をやってますからね。彼女たちが買う『Misaki』だけじゃなくて、いろんな年齢層がまりりんちゃんのモデル姿を目にしてるでしょうね」
「へえ、そうなんだ…」
「夕紀菜さんが言ってました。しかも、その特集、まりりんちゃんが“みんな、ほかのとしのひとから、おしゃれをおそわったらいいとおもうの”って言ったのがきっかけらしいです。
まりりんちゃんは、自分のおばあちゃまや、マダム花津からオシャレを学んでいるし、ママのオシャレも参考にしている。子どもっぽいおしゃればかりが子どもに受けるわけでもないし、もしかしたら逆も真なりってことですよね」
「うーん。まりりんは真面目に実業家の素質ありかもな」
「まりりんちゃんが社長さんになったら、イマジカもたくさん業務提携していただきましょう」
玲香がうふふと笑うと、賢児も会場の社員を見渡しながら、楽しそうに微笑んだ。
* * *
その後、子どもたちが集合した久我家は、上へ下への大騒ぎとなっていた。
何しろ、当家の大地、真里菜だけでなく、龍、紗由、翼、奏子、翔太、充の6名が、よそのお家へのお泊りということで、かなりテンションが上がっていたのだ。
中でも、両親と離れて初めてのお泊りになる奏子と充は、違った方向で舞い上がっていた。奏子に関しては、まだ響子としては不安があったのか、無理そうだったらすぐに迎えにいくと夕紀菜に連絡が入っていた。
「今のところ、大丈夫そうよ。食事も終わって、これからお風呂」
「お世話かけるわね」
「いいえ。お互い様よ。うちだって、最初にお宅に泊めていただいたときは、だいぶ面倒かけたしね」
「ありがとう。…周子さんちの二人は、そういう心配なさそうねえ。翔太くんも。…充くんはどうなの?」
「はしゃぎまくりよ。でね、けっこう、うちの母になついてるの」
「ぴしゃりと言ってくれる人、好きみたいよ。真里菜ちゃんの言うこともよくきくって、奏子が言ってたし」
「何となくわかるわ」ふふっと笑う夕紀菜。「とりあえず、何かあったらすぐに連絡するから、そんなに心配しないで」
「ええ、ありがとう。よろしくお願いします」
響子からの電話をそう言って切ったものの、お風呂へ誘導するにも一苦労な夕紀菜だった。
「ほら、みんな。女の子はこっち。真里菜、紗由ちゃん、奏子ちゃん。一緒に奥のお風呂に入りましょうね」
「男の子たちは、こっちだぞ。2階のお風呂だ」瑞樹が言う。
「せっしゃは、わかなどのと、はいるでござる!」
「わ、私?…」目をぱちくりさせる和歌菜。
「こらこら、充くん。和歌菜どのは、お風呂に入るとしても、女の子の担当ですからね。男の子とは入れません」夕紀菜が充に言う。
「…わりびきけんもあります。これで、わかなどのと、はいるでござる…」
ポケットから家の居酒屋の割引券を差し出し、悲しそうな顔で夕紀菜を見上げる充。
「ええと…」夕紀菜が答えに窮する。
「…そうねえ。瑞樹さんだけで5人の男の子は大変でしょうから、充くんと大地は、私が部屋のバスルームで面倒見るわ」
「すみません、お義母さん」瑞樹が恐縮する。
「じゃあ、今夜は大広間で皆一緒に寝ましょう。お風呂は30分程度で切り上げて、現地集合ということで。お布団を敷いておいてもらってちょうだい」
「わあ。ひろいでござるなあ」和歌菜のバスルームをきょろきょろと見回す充。
「翔太くんたちが入っているお風呂ほど広くはないんだけど…でも、いい匂いのお風呂にしてあげるわね」
和歌菜は、真里菜もご愛用のバラの花びらを取り出し、浴槽に撒いた。
「うひょー。女の子みたいだあ」大地がバシャバシャと風呂に入る。
「こら、大地。お湯がかかっちゃうでしょう」
「いいにおいでござるぅ」嬉しそうに笑う充。
「いい匂いだと、リラックスできるでしょう。お風呂でのーんびりすると、いっぱい遊んだ疲れも取れるわよ。今日はぐっすり眠れるわね」
「いいなあ…」
「何が?」大地が充に尋ねる。
「…うちには、おばあちゃまが、いないでござる」寂しそうにうつむく充。
「いらっしゃらないの?」
「パパのおばあちゃまも、ママのおばあちゃまも、おほしさまになったであります」
「まあ…それはお寂しいわね。じゃあ、私が代わりのおばあちゃまになるわ、充くん。これからも、たくさん遊びに来て、大地や真里菜と遊んでちょうだい」
「かわりの…でござるか?」充の顔が明るくなる。
「ええ。充くんがよければ」
「充、そうすればあ? 本物がいなかったら、代わりの人、探せばいいんだよ。遠慮するなって」
「そうよ。…大地、いいこと言うわね」大地の頭を撫でる和歌菜。
「は、はい! ありがとうでござるます!」
充が嬉しそうに、お湯をぱしゃぱしゃと跳ねさせると、大地も嬉しそうに笑った。
* * *
2階の大広間には、子どもたち8人分の布団と、両脇に寝る夕紀菜と和歌菜の布団が敷かれていた。
お風呂から上がった子どもたちが、パジャマに着替えて、広間になだれ込む。
「ひろくて、わからんでござるー!」ハイテンションで布団の上を駆け回る充。
「こら、充。おとなしゅうせえ。よそのおうちなんやで。ええ子にしとき!」翔太がまるで保護者のように追いかけまわす。
「翔太くん、師匠というより、普通にお兄ちゃんだなあ」頭を拭きながら現れた瑞樹が、夕紀菜に話しかける。
「そうねえ。充くんも一人っ子だから、兄弟気分なのかもね」
「あらあら、もう、お布団がくしゃくしゃだわ…」眉間にしわを寄せつつも、口元が微笑んでいる和歌菜。
「ママーっ!」
真里菜が夕紀菜のところへ走ってきて抱きつく。
「だっこー」
「んもう。甘えん坊さんねえ」
顔をくしゃくしゃにしながら、笑い合う夕紀菜と真里菜。
その様子を遠くから見ていた奏子が、しばらくすると、しょんぼりと下を向き、目に涙を浮かべ始めた。
「かなこも、ママのところ、いく…」奏子の目から、涙がぽろぽろと落ちる。
「奏子。泣かないで」翼が奏子の左手をぎゅっと握りしめる。「ほら。手をつないでれば大丈夫だよ。寝るときも、ずっとつないでるから、大丈夫だよ」
「おにいちゃま…」それでも奏子の涙は止まらない。「でも、でも、ママにあいたい…」
「ママと約束しただろ。泣かないって。奏子ももう、大きくなったんだから、お泊りもできるようにならないとね」優しく諭すように言う翼。
「奏子ちゃん。じゃあ、こっちの手は僕とつないでようね」
龍が言うと、奏子は翼と龍を交互に見つめて、うなづいた。
その様子に気づいた真里菜は、「あっ」と叫ぶと慌てて夕紀菜の元を離れ、奏子のところへ走っていく。そして、奏子の傍にいた紗由は、自分のパジャマの袖を伸ばし、奏子の涙を拭こうとして四苦八苦していた。
「ねえ、龍くんは奏子ちゃんが好きなの?」
男女間の感情の動きには敏感な和歌菜が、興味深げに見つめる。
「そうなのよ、ママ。でもあそこは、疾人さんがちょーっとばかり、ピリピリしてるみたいなの」
「まあ。いいお話じゃないの。奏子ちゃんがダメなら、真里菜が代わりたいぐらいだわ」
「それは無理ね。ほら」
夕紀菜に言われて和歌菜が子どもたちのほうに視線を戻すと、真里菜は奏子がつないでないほうの翼の手を握りながら、奏子に「だいじょうぶ? かなこちゃん、だいじょうぶ?」と聞いていた。
「あら。真里菜は翼くんが好きなの? あら、そうなの?」和歌菜が目をぱちくりさせる。
そしてしばらくすると、紗由が空いている龍の手を握り、もう片方を翔太とつないだ。それを見ていた充は、翔太の空いている手につかまり、反対側では真里菜が大地を呼んで手をつなぎ、8人が一列に手をつないでいる状態になった。
「あの子たち、花いちもんめでもするつもりなの?」怪訝そうに見つめる和歌菜。
「まるくなるー!」
一列になったのも束の間、大地が真里菜の手を引っ張って、充を目掛けて走り出し、大地の手が充の手をつかむと、8人はあっという間に円になった。
「かごめかごめかしら…?」
すると今度は、ぐるぐると回り出し、気がつくと8人は布団の上で、きゃっきゃとはしゃいでいた。皆が中心に向かって歩いたり、外側に広がったりするので、輪は、大きくなったり小さくなったりを繰り返している。
「マイムマイムとか…?」
「楽しそうだなあ」瑞樹も目を細める。
「昔はあなたたちも、あんなふうだったわね」
「そうねえ…瑞樹と私と、梨緒菜と俊。涼一さんに賢児くん、哲也さん。それと疾人さん。たまーに、天馬さんと風馬さんもいたわよねえ」
大人3人は、しばし思い出に浸る。
「わかなどのー!」充が和歌菜を呼ぶ。
「はいはい。今行きますよ」
呼ばれた和歌菜の後に続き、夕紀菜と瑞樹も子どもたちに加わった。
* * *
“ああ、ちょっと飲みすぎたな、夕べは…電報堂のやつら、容赦ないからなあ。今どきあんなに接待を要求するのは、あいつらぐらいのもんだ、まったく…”
不機嫌な顔をしながらダイニングに行こうとした久我家の当主、直哉だったが、そのドアを開こうとした瞬間、右手をつかまれ、反射的にその手を振りのけた。
「いたた……」
ふと横を見ると、真里菜と同じぐらいの歳の男の子が、すぐ脇にうずくまっていた。
「き、君、大丈夫かい?」
慌てて手を差し出す直哉を払いのけながら、充は言った。
「くせものめ! せいばいでござる!!」
充が直哉に飛びかかろうとしたとき、和歌菜が後ろから抱きかかえた。
「充くん。この人は曲者ではありませんから、大丈夫ですよ」
「でもっ。でもっ。かってにはいってくるのは、あやしいひとでござる!」
「この人は、大地と真里菜のおじいちゃまなの。お仕事が忙しくてね、夕べ、充くんたちが起きている時間には帰ってこられなかったの。驚かせちゃったけど、曲者じゃないの。わかってね」優しく微笑む和歌菜。
「…わかなどのがいうなら、そうでござる。すまぬでござった」直哉に深々と頭を下げると、充はダイニングへ走って行った。
「夕べね、大地と真里菜のお友達がうちにお泊りしてたの。よかったら、あなたも朝食ご一緒なさって」
「あ、ああ…」
戸惑いながらも和歌菜や充と一緒にダイニングに入った直哉は、娘夫婦と大勢の子どもたちが楽しそうにしている風景を目の当たりにして、思わず目を細めた。
「何だか、昔を思い出すなあ…。涼一くんやら、疾人くんやら、みんなでうちのプールに来てたなあ」
久我家は、和歌菜の父親が水泳オリンピックの強化選手だったこともあり、私邸のプールとしては、都内でも有数の施設を誇っており、教え子だった直哉をはじめとした有名選手たちも練習に使っていたりした。
加えて当時、行き来のあった家同士、そのプールで子どもたちが定期的に交流をはかりながら水泳を教わることは、一種の行事にもなっていた。
「ええ…そうでしたわね。あなたの後を追って、子どもたちは必死に泳いで。おかげで、皆泳ぎが得意ですわ。夕紀菜は、大地と真里菜に教えてますけど、教え方が上手。あなたの血ですわね…」
「大地はだいぶ泳げるようになったのか? いや、気にはなってたんだ。あいつは素質があるよ。スイミングは、もっと上級の先生に着かせたらいい」
「…大地は、おじいちゃまに教えてほしいって言ってたわ。あなたが教えてさしあげて」
「おじいちゃま!」
直哉のところへ、大地と真里菜が駆け寄ってくる。
大地のほうが先に直哉に抱きついたので、彼を抱き上げる直哉。
「おにいちゃま、ずるーい」頬をぷーっとふくらませる真里菜。
「わかったよ。真里菜もだな」直哉は、大地を降ろすと真里菜を抱き上げる。「お友達がいっぱいで楽しかったか?」
「うん。みんなでいっしょにねたんだよ。おばあちゃまと、ママと、みんなだよ」
「そうか。それは楽しそうだなあ。…ええと、あの、元気のいい男の子は、真里菜のお友達か?」
直哉の視線をたどって真里菜が答える。
「みつるくん?」
「そういう名前なのかな」
「すももぐみの子だよ」
「仲良しなんだな」
「…まりりんのこと、あねごってよぶの。だから、いっつもキックするの」
「真里菜…女の子なんだから、そんなことしちゃ駄目だろ」やれやれという顔で言う直哉。
「だって、みつるくんはね、さゆちゃんのこと、“ひめ”っていって、かなこちゃんのこと、“マドモアゼル”っていうのに、まりりんのことは“あねご”なんだよ!」
「そうか…それは、ちょっと何だなあ」くすりと笑う直哉。「でも、たぶん一番の実力者は“あねご”だぞ」
「ふうん」
「きっと、みつるくんは真里菜の力を認めてるんだな」
「わかった。じゃあ、こぶんにしてみる」
「いや、そういう問題じゃなくて…」
自分の腕から降りて元気にテーブルに走っていく真里菜を見つめながら、直哉は小さく溜め息をついた。
* * *
「まるで、台風一過という感じだわね…」和歌菜が気が抜けたように紅茶をすする。
「お疲れ様でした、お義母さん」
「確かにちょっと疲れたけど、楽しかったわ。たまにはいいわね、こういうのも」瑞樹に微笑む和歌菜。
「充くんと、ずいぶん仲良しだったじゃない」
「暴れん坊さんだけど、大地で慣れてるわ。…それにあの子、イマジネーション豊かで、面白いのよ」
「イマジネーションて?」夕紀菜が尋ねる。
「寝る前にね、秘密の話というのをしてくれたの。紗由ちゃんがお姫様で、それを狙う悪者たちがいて、翔太くんは、お姫様を守る戦士なんですって。充くんは、翔太くんの弟子の忍者なの」
「ふうん…」一瞬、“命”の話が頭に浮かんだ夕紀菜は、言葉に詰まった。
「面白そうですね」
「幼稚園には悪者が潜んでいるらしいわ。龍にいさまは王子様で、女王様からもらった秘密の宝石で敵を倒すんですって」
「へえ。ちょっとしたファンタジーですねえ」落ち着いた口調で聞くものの、瑞樹の目は笑っていない。
「でしょう? でもね、敵は蘇ってきて、玲香さんのお腹の赤ちゃんが、やがて敵を倒すらしいわ。でね、保先生は出てこないのかしらと思って聞いてみたの。そうしたらね、保先生は力を持ってるけど出さない大王なんですって」
嬉しそうな和歌菜を見ながら、瑞樹が静かに微笑んだ。
「すごいなあ。ぴったりですねえ、その役柄」
「そうなのよ。何だか聞いていて、ちょっとワクワクしてしまったわ」嬉しそうな和歌菜。
「充くんは、ライトノベル作家にでもなれそうだなあ。お義母さん。久英社の将来的な飯の種になるかもしれないです。よーく、話を聞いておいてください」
「もう、瑞樹さんたら…。充くんはね、女王様にお話を夢で教えてもらってるのよ。そんな子どもの夢までお仕事にするつもりなの? どんどん、あの人に似てくるのねえ…」嬉しさ半分、和歌菜が複雑な表情になる。
「すみません。僕の目標はお義父さんですから」
一瞬沈黙が流れたところに、噂の直哉がリビングに入ってきて瑞樹を見つめた。
「…ああ、ここだったか。ちょっと羽田まで行ってくるよ。松山先生の見送りだ。いい写真集にしてもらわないといけないからな。ダメ押しだ」
「僕もご一緒します」
「いい、いい。今回は私一人で行くよ。“わざわざ”私一人でな。…ただ、急な指示変更の電話をするかもしれない。せっかくの休みにすまんが、特別な予定がなければ、待機してもらえるかな」
「ええ、もちろんです」
「あなた。今日もお帰りは遅くていらっしゃるの?」
「いや、見送りだけだから、昼ごろには戻るよ」
「じゃあ…夜は4人で充くんのお父様のお店に行きましょうよ」和歌菜が充からもらった割引券を直哉に差し出す。
「“さけみつる”?…懐かしい名前だなあ。あの子、あそこの子だったのか」
「このお店、ご存知なの?」
「ああ。昔、けっこう使ってたよ。…久我家に入る前のことだ。ちょうど腕を痛めて水泳をやめた頃だったな。浅草でマスコミ希望者が集まって、現役の人たちの話を聞いてたんだ。飲み会兼勉強会ってところかな」
「まあ。それだったら、なおさらですわ。今晩はこのお店でお食事しましょう。私も、居酒屋っていうところに行ってみたいし…それに、皆に大事なお話があるの」
「大事な話?」夕紀菜が反応する。
「ええ、そうよ。久我家にとって、とても大切な話」
「ママ、それって…」
「あら。そろそろ仕度しないと。事務所のほうでランチミーティングがあるの。瑞樹さん、お店の予約お願いね。では後ほど」
背筋を伸ばし、その場を去っていく和歌菜を、残された3人は、それぞれの思いで見つめていた。
* * *
「ねえ、瑞樹。ママってば、まさか、パパと離婚するとか言い出すつもりかしら…」
不安そうに見上げる夕紀菜に、瑞樹が微笑む。
「いや。だったら、まずはお義父さんと二人で話し合うだろう」
「でも…例の“趣味の悪い”女のことが発覚して以来、ずーっとぎくしゃくしてたのに、今朝のママ、何かが吹っ切れたように明るい顔で…」
「考え過ぎだよ。可愛い子供たちに囲まれて一晩過ごしたら、誰だって気持ちが晴れるだろ。それに充くんに、あんなになつかれたら嬉しいさ」
「うん…それなら、いいんだけど…あのね、それと、充くんの話というのも気になるの。大地や真里菜にも何か関係してくるのかしら」
「確かに僕も気になった。特に“夢で女王様が教えてくれる”というくだり。充くんは、本人に自覚があるかどうかはわからないが、能力者の可能性が高いな」
「でも、この前、伊勢に行った時には充くんはいなかったんでしょう? その辺のことも、全然わからないっていうか、何をどう判断していいのか、私にはわからないのよ…」
不安げに言う夕紀菜に、瑞樹は微笑んだ。
「何から何まで知ろうとする必要もないさ。知ったところで、結局のところ、なるようにしか、ならない。“命”的な力に関して言うなら、華織伯母様の指示に従うのが一番いい。力のない人間には動きようがないさ」
「…瑞樹には力、あるじゃない」
「僕の力は、大切な人間に危機が及んだ時に、瞬間的にしか発動しない。ストーリーとして未来を受け取れるわけじゃないから、事前に何かを判断できる材料にはならないよ」
「そうねえ…大地と真里菜の場合はどうなのかしら」
「大地は、伊勢から呼び出しがかからなかったわけだから、機関が気に留めるような能力は見受けられなかったということだろう。
真里菜もなあ、紗由ちゃんや奏子ちゃんの影響が大だと思うよ。この手の能力は、周囲に能力者がいないと自然と消えてしまうこともあるようだから、真里菜の場合はたまたま周囲に集中していたということなんだろう」
「うーん。結局、この先どうなるかは、よくわからないってことね」瑞樹を見上げる夕紀菜。
「まあ、そういうことだよ。…でも、充くんの件は、華織伯母様に報告しておくよ。それと、充くん家に予約をして…山科の両親に二人の子守をお願いだな」
「子どもたちのお願いは私のほうからしておくわ」
夕紀菜は笑顔になると、エプロンのポケットからスマホを取り出した。
* * *
「ねえ、ママ。俊おじちゃま、おじちゃまじゃなくなっちゃうの?」
出かける仕度を始めた夕紀菜のブラウスを引っ張りながら、真里菜が尋ねた。
「え? どういうこと?」
「おにいちゃまがいうの。おじちゃまは、おじちゃまをくびになっちゃうんだって」
「何言ってるの、真里菜。おじちゃまは、おじちゃまよ」
「ふうん…ならいい」
「変なこと言わないようにって、おにいちゃまにも言っておきなさい」化粧水を顔にはたきこみながら夕紀菜が言う。
「うん。まりりんも、おじちゃまのままがいい。あきほおばちゃまは、いじわるだし、あたまわるくて、あんまりすきじゃないけど」
「真里菜。そんなこと言うもんじゃありません。…本当のことでも、言っちゃダメなこともあるのよぉ」
真里菜の顔を覗き込みながら、にっこり笑う夕紀菜。
「わかった。おもってるだけで、いわないようにする」
「今夜は、山科のおじいちゃまたちのところで、いい子にしていてね」
「うん。いっつもいいこだけど、もっといいこにする」
真里菜が嬉しそうに笑うと、夕紀菜は真里菜の頭をなでながら、ぎゅっと抱きしめた。
* * *
「まあ。何だか、庶民的なレストランという感じねえ…」
予約していた個室に入るなり、キョロキョロと周囲を見渡す和歌菜に、充の父、花巻がやってきて挨拶する。
「いらっしゃいませ、久我様。昨日は充が大変お世話になりまして、ありがとうございました」先付けを出しながら、頭を下げる花巻。
「いいえ、そんな。充くんのおかげで、楽しいひと時を過ごさせていただきましたわ」微笑む和歌菜。
「奥様に大変よくしていただいたと、充がそれはもう喜んでおりまして、本当にありがとうございます」花巻が深々と頭を下げる。
「また遊びに来てくれるよう、充くんに伝えてくださいね。楽しみにしてますから」
「花巻さん。先代はまだご健在でいらっしゃいますか?」直哉が問いかける。
「ええ。今日は得意先を回ってから店に参りますので、あと30分くらいでこちらに」
「そうですか。実は私、若い頃、こちらで大分お世話になったんですよ。お会いできたら、嬉しいなあ」
「そうでいらっしゃいましたか。父が参りましたら、お伺いさせていただきます」
花巻は愛想よく微笑み、注文を取り付けると、その場を後にした。
「じゃあ、先代さんがお見えになるまで、大事な話に入らせてもらうわね」
悠然と微笑む和歌菜の言葉を聞き、3人に一瞬緊張が走る。
「これまでも、何度か考えたことはあったけど、そろそろ解放してあげたほうが本人のためかしらと思って…」和歌菜が直哉を見つめる。
「え?…」
「ママ…それって、もしかして…」
離婚するつもりと踏んだ自分のカンが当たったのかと、恐る恐る確認しようとする夕紀菜。
「戸籍が同じだったらいいってものでもないわ」
その言葉に黙り込んだままの3人。
「そ、それはそうかもしれないけど…で、でもね…」
あたふたと、両親の顔を交互に見比べる夕紀菜を諭すように和歌菜が言う。
「形だけ整えても仕方ない場合もあるのよ。私もこの辺で覚悟を決めようと思うの」
「ママ!」
夕紀菜が叫んだところに、花巻が飲み物を持って入ってきた。
「お飲み物になります。…お料理も、しばらくしましたらお持ちしますので」
生ビールを配り終えた花巻が部屋を出て行くと、夕紀菜は改めて和歌菜に言った。
「ママ!…あんな、趣味の悪い女にまで手を出すパパにお怒りなのは、よーくわかるわ。でもね、もう一度考えてほしいの。離婚なんて、そんな…」
うつむく夕紀菜の顔を、不思議そうに覗き込む和歌菜。
「何の話をしているの?」
「何のって、パパとママの離婚問題に決まってるじゃない!」夕紀菜がむっとした顔になる。
「…そんなこと、一言も言ってないわよ?」今度は和歌菜が眉間にしわを寄せた。「パパなんて、結婚半年で女を作るような人なのよ。これまで私が知っているだけでも十人はくだらないし、そんなことで、いちいち離婚してるほど暇じゃないわ」
「パパ…そんなに浮気してたの!? 最低…!」夕紀菜が直哉を思いっきり睨みつける。
「い、いや、ママが言うほどじゃ…」
ビールを流し込むように口に入れる直哉に気をつかったのか、瑞樹が口を開いた。
「お義父さんは心遣いが細やかだから、周囲に誤解されたりすることも、あるかもしれませんよね。ははは…」
「瑞樹さん。誤解も理解のうちよ。保先生がいつもおっしゃっているわ。誤解されやすいからこそ、身を律しなければならないって」静かに微笑む和歌菜。
「は、はい…」瑞樹がか細い声で答える。
「じゃあ、今日は何の話なの?」
「俊を、倉橋のお宅の養子にしてもらおうかと思って。以前から、打診があったでしょう?」
倉橋というのは、俊の妻、秋穂の実家だ。
「婿養子か…。まあ、すでにカツオさん状態だしな」直哉が言う。
「違うわ、あなた。あちらのご両親の養子にしていただくの。秋穂さんとの婚姻とは別問題。そして、久我の財産はあの子には一切継がせません」
「和歌菜…」
「それじゃあ、俊ちゃんを勘当するのと同じじゃないの」驚く夕紀菜。
「勘当も何も、パパが言うように、今だって実質上はあちらの人間なのよ。秋穂さんの家に住んで、彼女のお父様の会社で働いている。久我の人間でいる必要なんてないでしょう」
「でも、ママ……。ちょっとパパってば、何とか言ってよ!」
「…和歌菜。倉橋さん、お前のところにも出資のことで何か言ってきたのか?」
「ええ、あなた。あそこのご主人、次の選挙に社共党から出るつもりなんですってね。それで献金のご要請が」
「社共党!? 保先生の後援会副会長を務めるお義母さんに向かって、それはまた、ずいぶんと失礼な頼みというか…非常識じゃないですか」瑞樹も驚いて口を開いた。
「そうでしょう? 冗談じゃありませんわ。直哉さんや会社にお願いするなら、まだともかく、この私に直接よ。しかも、俊と一緒に。私はこれ以上、ああいう方たちとお付き合いしたくありません。秋穂さんが嫁としてどうという以前の問題です」
「…何、考えてるのかしら」呆れながら溜め息をつく夕紀菜。「まるで俊を人質にお金せびってるみたいじゃないの」
「何か、すごいね…」首を左右に振る瑞樹。
「私のほうでもお断りしたよ。保先生に限らず、西園寺家にはいろいろと世話になってる。そんな不義理なことはできるわけがない。まったくもって、話にならん」直哉も不機嫌そうに言う。
「ここで一度イエスと言ったら、後々きりがないと思うの。かと言って、俊は秋穂さんに夢中で、何を言っても聞く耳持たないし……それに、真里菜を俊たちの養子に迎えたいとまで言い出したのよ」
「冗談じゃないわ!」夕紀菜が大声をあげる。
「何なんですか、それは」さすがの瑞樹もムッとした顔になった。
「俊がうっかり漏らしていたところによると、秋穂さん、体のラインが崩れるから出産はしたくないんですって」
「……本当に話にならないわね」苦々しげにつぶやく夕紀菜。「あいにくと真里菜は彼女のこと、意地悪で頭が悪いから好きじゃないって言ってましたけど」
「もちろん、断っていただいたんですよね」
「もちろんよ、瑞樹さん。そういうわけで、もううんざりだから、俊の件は梨緒菜が帰国したら、早急に進めます」
「明後日、戻ってくるんですよね」
「ええ。もう書類的な準備は進めてもらっているの」
「ママ…仕事早いわね」
「だって、梨緒菜の提案ですもの、今回のことは」
「梨緒ちゃんの!?」夕紀菜が目をぱちくりさせる。
「まあ、けん制のためというか、調子に乗ってる嫁をビシっと抑える材料にするためにも、そのぐらいの準備はいつでもできるって、先方に知らせたほうがいいって、前々から私に言ってたのよ」
「ふうん…すごいわねえ、梨緒ちゃん。家庭内争議のプロって、そういうものなのかしら」
夕紀菜の年子の妹、梨緒菜はアメリカで弁護士をしているのだ。
その時、廊下から「失礼します」という声がかかり、花巻が入ってきた。
「お刺身と寄せ豆腐をお持ちしました」
「あら、おいしそう。…はい。じゃあ、この話はここまで。お料理をいただきましょう」
「あ、そうだわ。この話、大地にした?」夕紀菜が確認する。さっき真里菜が言っていたことを思い出したからだ。
「大地に?…こんな話、あの子に先にして、どうするの」くすりと笑う和歌菜。
「あ…そうよね。ごめんなさい…」
「確かに、あの子には将来的にいろんな意味で関わってはくるけど、その辺は、もう少し大きくなってから、両親から話をしてちょうだい」
「わかりました」
そう答える夕紀菜の様子を、傍で瑞樹が気遣う。
「そうだな。ちょっと気が早かったかな」
「夕紀菜は昔から気が早いからなあ」
直哉が笑うと、夕紀菜はしらっとした様子で「パパも早いわよね」と言いながら、自分の手をひらひらさせた。
「…それほどでもない」
夕紀菜がひらひらさせた“手”が早いと言われたのを理解した直哉は、ムッとしているのを悟られないようになのか、眉間にしわを寄せたものの、とりあえず微笑み、刺身に手を伸ばした。
* * *
4人での食事が終わった後、夕紀菜は瑞樹と一緒に街をぶらぶらするからと両親と別れた。今日は二人の子どもは瑞樹の両親に預けてあるので、少し帰りが遅くなってもかまわない。久しぶりのデートで、夕紀菜は少し浮き浮きしているように見えた。
「ねえ、バーでも行く?」
「そうだな。この辺だったら…次の交差点のところ、反対側に一軒あるよ。前にお義父さんに連れて行ってもらったことがある」
「女の子がいる店とかじゃないわよね?」いぶかしげな夕紀菜。
「違うよ。もっとハードボイルドな店。…ところで、大地は俊くんの件、何か言ってたのか?」
「え?…うん。真里菜に言ってたらしいのよ。俊が、おじちゃまを首になるって」
「それって、つまり今回のことか?」
「大地本人に確認したわけじゃないけど、そう思えたものだから…」
「そうか…。お義父さんも初耳だったみたいだし、誰かから聞いたということじゃないもんなあ」
「例の“力”かしら」
「どうだろう。まあ一応、華織伯母様には報告しておくよ」
「そうね」
交差点に近づいてきたので、夕紀菜は道路の反対側に眼をやった。瑞樹が入ろうと言っていたと思しき隣の店からは、一人の女性が出てきた。
「え…?」足が止まる夕紀菜。
「どうしたの?」
「あれ…」
夕紀菜の指差す方向を見ると、そこには梨緒菜の姿があった。
「あれ? 明後日じゃなかったけ、帰るの。予定早まったのかな?」
瑞樹がいぶしげに見ていると、店からは男性が出てきた。
「哲也さん!?…」
「…だな」
「腕、組んでるわよ」
「あ。タクシー拾った」
驚く瑞樹と夕紀菜をよそに、二人は去って行ってしまった。
「…えーと、あれは、そういうこと…なのかな」
「普通、腕組まないわよね」
「そうだな…梨緒菜ちゃんの性格からすると、やたらと男と腕を組むとは思えない」
「つきあっているってことよね?」
「…たぶん」
瑞樹の返事に、夕紀菜は大きく溜め息をついた。
「俊のことと言い、当分わが家はにぎやかそうね」
「…まあ、活気があっていいさ。何があっても、僕たちがしっかりしていれば、大抵のことはうまくいく」
「そう…か。そうね。そうよね」
微笑む夕紀菜の手を、瑞樹はしっかりと握った。
* * *




