#10 彼女は混沌に踏み込む
現実というのは味気ないものだなと、明日香は思った。
五百万円というのが果たしてどれくらいの大きさなのか、目にしたことのない彼女にはいまひとつ現実的なイメージができていなかった。トランクに入れて運ぶような量を漠然と想像していたのだが、武生が無造作に取り出したのはなんの変哲もない大判封筒だった。見たところ厚みも、大きめのカマボコ程度でしかない。
「……なんか薄くないですか、あれ」
「新札ならあんなもんだろ、ホラ」
耳元でささやく明日香に、君塚が冷静に答える。指さした先には課のコピー機から持ってきたプリント用紙があった。横のラベルには五百枚入りと書いてあり、厚みは確かに同じくらいだ。
「……なるほど」
明日香は納得し、同時になぜか少し落胆する。
昨夜遅くになってようやく連絡を入れてきた武生は、現金の用意ができたと君塚に告げた。翌日わざわざ日曜の早朝に市役所を訪れるというその目的について、明日香にも予想できなかったわけではない。
「つまり、一人で行かせてくれと」
押し殺した君塚の声に、武生は顔を背けたままでうなずく。
「ええ。彼女だってこんな大事になるのは望んでいなかったと思うんです。それが、皆さんに追いかけ回されるうちにどんどん意固地になっている。ハッキリ言えば、逆効果なんですよ。大人の問題に〝女の子〟の出番はないですし、かといって君塚さんのようないかつい男性が出てくれば、まとまるものもまとまらなくなります」
武生のあまりに身勝手な物言いに、明日香は思わず息を呑む。それを察した君塚が、前を向いたままそっと腕に触れた。
怒鳴り付けようとして吸い込んだ息を、彼女はため息にして吐き出す。
市民の苦情やトラブルを処理していれば、馬鹿らしくなることは良くある。怒りや憤りや哀しみの鎮め方も覚える。
しかし、砂を噛むようなその気分には、いつまでたっても慣れることはなかった。
「ご尽力には感謝しますが、お手を煩わせるまでもないんです。何度も言いますが、単なる夫婦喧嘩なんですから。金を払って済む話であれば、わたしはそうするのに異存はありません。むしろ、そうするべきだと思うんです。ですから、もうお引き取りいただけませんか」
武生は、警察が動き出すよりも前にこの件を終わらせてしまおうとしている。そして被害者である武生がそう決めたのであれば、納得できようができまいが、もうSASにできることはないのだ。
山下からも、まだ人員は割けないという連絡が入っていた。県警が抱えている事件で手が放せないこともあるし、正式書類の作成がなされていないこともある。重要性や緊急性を比較するまでもなく、この奇妙な交渉は宙に浮いていた。
被害者は被害を認めず、犯人を自称する〝美由紀〟もその〝子供〟も身分を証明する物がなく、彼女の一方的かつ不可解な脅迫状以外に、犯罪を立証するものはなにひとつ出ていないからだ。
事情がどうあれ営利目的の誘拐なのだから、山下の言うように、罪になるといえば、なる。しかし、それには被害事実を明白にする必要があった。
「交渉場所についても、教えていただけないんですか?」
「そんな必要もないとは思うのですが、お教えすることは構いませんよ。なにも隠すことなどありませんからね。……尾いてこないと約束していただけるなら、ですけれども」
武生によると、美由紀とは午後四時に鎬橋で受け渡しを行うらしい。
遥野の中心部から十キロほど北にある、山間部の大きな斜張橋だ。周囲の見晴らしは良いが、逆に言えば接近する者を発見しやすい。
未知香が言ったように、なかなか巧い選択だった。そのあたりの県道は渋滞することなどないし、少し走ればバイパスもあり、大きな国道にも近い。
「わかりました。お二人の問題で済んでいる限りは、手出しも口出しもしません」
「うちへの電話も、もう調べないでいただけますね?」
「無論です」
話し合いはそれで終わりだった。
武生が帰った後、明日香は憮然として机に倒れこむ。手持ち無沙汰だが身動きは封じられ、事件性を立証する証拠集めも手詰まりになっていた。
「未知香ちゃん、そろそろ着いた頃かなあ」
場違いに長閑な君塚の声に、明日香は突っ伏したまま顔だけ向ける。
「そういや……あいつ、どこ行ったんです? 朝っぱらから出かけてましたけど」
「あれ、聞いてない? 出張だよ、聞き込み調査。前にパスポートの照会を頼んだだろ? 昨夜遅くに本国から連絡があってさ、〝国見美由紀〟って日本人の記録が見つかったって」
昨夜は直帰したため、明日香はその件についてなにも聞かされていなかった。
不服そうな顔をする明日香を見て、君塚は笑顔で取り繕う。
「けどね、顔写真を見たら似ても似つかない別人だったんだよ。同姓同名だけど日本国籍だから、パスポートの偽造に利用されたってこともないだろうし」
「その日本人の美由紀ってのは、どこに住んでるんです?」
「晴照ヶ原。住んでるというか、住んで〝た〟だね。その女性は六年前に事故で亡くなってるから。遭難当時の住所しかわからないんだけど、家族か知り合いか誰か残ってないかと思ってさ」
晴照ヶ原という地名には聞き覚えがあった。たしか遥野から電車で二時間ほどのところにある小さな山村だ。林業と葉野菜の生産が盛んだったはずだが、明日香はまだ訪れたことがない。
「そんなとこまで行って聞き取り調査? よく予算がありましたね」
「無いけど、しょうがないさ。向こうの役場は閉まってるし、週明けまで待ってたらうちの出番はなくなるしね。アレコレやりくりして電車賃を捻り出すくらいのことはするって。……っと、たしかこの辺に……」
君塚はデスクの上を探す。そこにあったはずの書類は紙の山に埋もれ、すでにどれがなんなのかもわからなくなっていた。君塚は明日香と同様、デスクワークには向いていない。
「……ないな。未知香ちゃんが持って出たのかな。ちょっと待ってよ」
君塚は早々に諦め、自分のパソコンを立ち上げる。
「係長、あいつが出張、っていうことは……」
「ああ、昨日決めたんだ。急だったけど、この際やるだけやってみよう思ってさ」
「いや、それはいいんですけどね」
未知香の予定について聞かされていなかったこと自体は、驚きも憤りもしない。姉はいつでも自分のやるべきを黙々と進めるだけだし、報告の義務は君塚に対してしかないからだ。
ただ、部署内で未知香にしかできない作業というものは多く、彼女が案件解決前に席を外すというのはあまりないことだった。
「つまりそれは〝もう通話先の特定は必要ない〟ってことですか?」
「ああ、まあね。ホントは武生さん、最初から嫌がっていたんだよ。妻を犯罪者扱いみたいにして追いかけ回すのは止めてくれってさ」
「自分の女房もコントロールできないくせに偉そうなことばっかり……」
電話が鳴った。
「きっと未知香ちゃんだな」
君塚は受話器を上げ、パソコンのモニターを明日香に向ける。
「これが日本人の〝国見美由紀〟だ。例の偽造パスポートと同じ国で、六年前に行方不明になってる」
「……英語じゃないですか、わかんないですよこんなの」
明日香は気乗りしないまま、映し出された画像を眺めた。
『ダメです、家ごと無くなってました!』
開き直ったように元気な未知香の第一声を聞き、君塚は思わず苦笑する。
『数年前に取り壊されて、更地になってます』
「まあ六年も前だからねえ。それで、近所に知り合いとか、いない?」
『いま、お向かいの五十嵐さんという家にお邪魔してるんですけど、国見家の住人はあまり近所付き合いが良くなかったようですね。火災のときにも、近所に挨拶もなく夜逃げ同然で姿を消したとか』
「火災?」
『美由紀さんが事故に遭ってからしばらくして、国見家の家屋は全焼したんだそうです。出火当時、住人は不在で死傷者も目撃者もなく、不審火として処理されています』
「夜逃げ同然っていうことは、行き先はわからないのかな」
『誰も聞いていないみたいですね。美由紀さんはある程度ご近所との付き合いもあったんですが、残った彼女の夫とその母親はほぼ没交渉で』
晴照ヶ原のような山村で近所付き合いが悪いというのは、まず間違いなく相当の変人だろう。もし仮に当人がシャイなだけの常識人だったとしても、周囲の扱いは珍獣並みになる。
『こちらのおうちの方から役場に話を通してもらえそうなんですが、今日は畑に出ていてまだ戻っていないんです。もう少し待てばどうにかなると思います』
電話の向こうで、モソモソと話し合う声が聞こえた。
相手は老人なのだろう、会話の途中にしゃがれた笑い声が混じる。
『あと、国見家に面識のあったお婆ちゃんに写真を見ていただいてるんですけど、美由紀さんていうのは、やっぱりこの小太りの方ですね。武生さんのとこでもらった写真の女性は、見覚えがないそうです』
君塚は腕組みをして唸る。国見家の行く先を突き止めたいところだが、関連があるかどうかもわからない現状であまり大事にするべきではないような気もした。
相手は犯罪者でも容疑者でもなく単なる参考人、それも家族を水難事故で亡くし、火災で家まで失った人たちなのだ。
『駐在さんは二年前に代替わりしてますが、消防団の方になら話が聞けそうですね。不審火と今回の件でつながりがあると思いますか?』
伝聞だけでそこまでの判断はできないし、それは市役所の仕事でもなかった。参考人の火事や夜逃げまで疑っていてはキリがない。
「そっちは時間があったらでいいよ。それより、国見家の転居先だけでも調べてもらえるかな」
『了解です。さっき言った役場の方と、あと町内会長さんがもうすぐ帰ってこられるそうなんで、そちらで話を訊いてみます』
「係長」
君塚の後ろで、明日香が苛立たしげな声を上げた。
急かすように背中をつつかれ、君塚は未知香の話を遮る。
「ちょ、ちょっと待ってね、いま明日香ちゃんが電話代わりたいみたいなんだけど……」
「係長!」
意外なほど強い口調に振り返ると、明日香は真剣な顔でモニターを指差していた。
スクロールした画面に、女の画像が映っている。
「これが、国見美由紀なんですか?」
「そうだよ、パスポートも確認できた。日本人の観光客で……」
「なんで早く言ってくれなかったんですか!」
「え?」
「こいつは生きてますよ。久保田理恵子が住んでいたアパートの、管理人です!」
言い終わるよりも前に、彼女は部屋を駆け出していた。
「待って、明日香ちゃん……ちょっと!」
モニターと明日香の後ろ姿を交互に見て、君塚はアタフタと声を上げる。
『係長、どうかしたんですか?』
受話器から聞こえる未知香の声で、君塚はようやく我に返る。
「美由紀が、その……小太りの方の美由紀が、生きてるって。理恵子のアパートの管理人だとか言ってたけど、明日香ちゃんはなんでそんなこと知ってるんだ」
『わたしは電話しただけですが、彼女は本人と会っています。武生さんのマンションに行った後、久保田理恵子の手掛かりを探しに』
「じゃあ……」
『明日香を追ってください。錦町の四丁目です』
武生は砂利敷きの駐車場に立ち、目の前のアパートを見上げる。
壁に走った細かな亀裂と、染みになった雨垂れの跡。久保田理恵子が住んでいたというその建物は古ぼけ、どこか惨めな隠遁生活を感じさせた。建物全体が死んだように静まり返り、人の気配がない。
指定された一階の部屋をノックをすると、不機嫌そうな女が顔を出した。武生の顔を見てふと顔を歪め、なかに入るよう促す。
しばらくしてそれが、彼女なりの笑みだったのだと気付いた。
「こんなかたちで出会うことになるとは思わなかったわ」
武生は眉を上げる。その言葉には、どこか面白がっているような響きがあった。
「もしかして、以前にお会いしたことが」
「いいえ、ないわ。でも話には聞いていたの。なんの変哲もない顔をした、なんの変哲もない男だって。……でも、そういう人に惹かれるのが、実は一番始末に負えないのよね」
「……え?」
久保田理恵子の話をしているのだとしたら、見当違いのような気がした。理恵子は武生に惹かれていたわけではないし、二人の関係も短く、浅く、暗い。
「それは、誰の……」
問い返そうとした武生の背後で、けたたましい金属音が響いた。砂利を弾き飛ばし、駆けて来る足音。女は困ったように首を振り、玄関に目線を向ける。
騒々しいその音は玄関の前まで来て止まった。
「開いてるわ、どうぞ」
女が言い終える間もなく、ドアが弾けるように開く。
「いったいどういうことですかッ!」
飛び込んできた少女を見て、武生は目を見張った。
「君は、市役所の」
「武生……? あ、あんたもグルか!」
「落ち着いて、お嬢ちゃん。この人はわたしが呼んだの」
女は穏やかに言って、少女を手で抑える。
「呼んだ? なんのためにです」
「もちろん、〝美由紀〟をつかまえてもらうためよ。もう間に合わないかもしれないけど」
「ちょっと待ってください、あなたはぼくに……美由紀の正体を教えてやるって」
話が交錯して、武生には理解できない。うろたえる姿を一瞥し、少女が吐き捨てる。
「正体もなにも、彼女が国見美由紀ですよ」
「え?」
「国見美由紀、日本国籍で年齢三十二歳。六年前に海難事故で行方不明、その一年後に死亡認定が出されている。……あなたはなにをしようとしてるんですか」
睨み付ける鋭い視線に、女は反応を見せない。
武生だけが二人を見つめ、硬直したままポカンと口を開けた。
「じゃ……じゃあ……」
「そう、パスポートを偽造した、あの女は何者なんです。あなたとその女と、理恵子との関係は!」
女はその問いに答えず、武生を見て首を傾げた。
「あなた、まだわからない?」
「わかりませんよ、そんなこと。ぼくはずっと、美由紀の……妻の言うことを信じていた」
「信じたかった、でしょ? なにも気付かないまま何年も暮らせるわけないもの」
どこか責めるような口調に、武生は眉をひそめる。そんなことを赤の他人に言われる筋合いはない。武生は抗議しようと息を吸った。
「利いた風なことを言うな、って顔ね」
機先を制したその発言に、開かれた口は行き場を失う。女は唇だけに笑みを浮かべた。
「気付かないでいられるなら、案外その方が幸せなのかも。わたしの夫だった国見は、外面だけは良い男でね。でも、わたしには最低の暴君だった。気付いたときには遅かったのね。殴られ蹴られて食事も満足に与えられず、陸の孤島みたいな田舎で束縛され監視されて、本当に牢獄みたいな暮らしだったわね。親族同士のつながりもあって、財布もアシも握られてるから逃げるわけにもいかない。そんなの、遥野に住んでたらピンとこないでしょう? それで……」
「なんの話をしているんです」
「……それで、耐えられなくなって死のうとしたの」
ハッと顔を上げた少女の視線に、女は目顔でうなずく。
「そう、あの海難事故。最初は、偽装する気なんてなかったんだけどね。ホントは国見を道連れに死んでやるつもりだったんだけど、勘付かれて失敗しちゃった」
「そんなことはどうでもいい!」
武生は話を遮り、苛立たしげに足を踏み鳴らす。
「あなたの話なんて訊いていない。美由紀は……妻はいったい」
「だから、死んだのよ。二人とも、あの国でね。その前のことなんて覚えてないし、思い出したくもないわ」
女は楽しそうに笑う。まったく理解できないでいる武生に、彼女は指を突き付けた。
「わからない? わたしたちは、あの国で出会ったの。二人とも望み通りに死んで、そして……生まれ変わったのよ」




