南端の国へ
——これはある一人の青年が見る夢。
人類が魔に敗北をした。
あの日以来、あの時の事をいつも夢で見る。
「兄貴! ——兄貴ってば!」
旅立とうとするその背中を必死に呼び止める。
「ははっ、なんだよ見送りに来てくれたのか? 面倒だから黙って行こうと思ってたのに」
さっぱりした雰囲気の男性が振り向くと冗談っぽくそんなことを口にした。
「ちげぇよっ! ——兄貴、魔王討伐の旅に出るんだろ?」
「ああ。災魔を一人打ち倒したこと。そしてこれまで魔族達に襲撃された村々を救う手助けをしてきたことが功績として認めてもらえたんだ。中央国のゲルプ王を初め各国の王達にな」
コツコツとやってきた事が認められるってのはいいもんだな、と彼は笑いながら言った。
「なあ、兄貴——俺も連れてってくれよ。俺だってもう十分戦えるって! 兄貴だって俺の腕を認めてくれたじゃんかっ! 遊びで言ってるわけじゃないんだぜ!?」
「いいや。お前はまだこれからだ」
兄は自分の弟の要求をはっきりと否定した。
「……なんだよ。ただ機嫌のとれるようなこと言ってただけで結局、俺は役立たず扱いかよっ」
彼はわかっていた。兄の言葉がそんな理由ではないことを。
それでも悔しくて、少しでも噛みついてやりたいと思ってしまった。
そんな弟を見て兄は少し困ったように笑いながら言った。
「ったく……アシュティン。こだわる所を間違えてるぞ? なんでそこまでこの旅についていきたいんだ?」
「なんでって……今こだわらなきゃ他にどこでこだわれっていうんだよ!? 俺は魔王の軍勢と戦いたくて鍛錬を続けてきたんだぞ!」
「魔王軍と戦いたくて? そんなのついでの動機だろ。アシュティン、魔王討伐はお前にとってそんなに重要な事じゃないはずだぞ?」
「何、言って——」
「聞けって、アシュティン。俺が魔王を倒しに行くのはな——俺の私欲の為なんだ」
「し、私欲……?」
「ああ。つまり、お前の成長を近くで見ることだ」
青年の兄は強い目で真っ直ぐと言い切った。
「お前は間違いなく強くなる——俺よりもずっとな。お前が鍛錬を始めて以来、その時を楽しみにしてない日はない」
だから俺が行くんだ——と兄は続ける。
「俺はお前の成長を一番近くで見届けたい。父さんや母さんにはできなかったことだ。それを魔王だの魔族だのに邪魔されるわけにはいかないんだよ」
「そんな……ずるいじゃんか、そんなの」
「ははっ、ずるいか。そうかもな」
青年の肩に手を置き、兄としての顔で優しく笑う。
「お前の一世一代は今じゃないってだけさ。これは俺の戦いなんだ。お前にはお前の戦いというのが、いつか必ずやってくる。その時が来たらお前が誰よりも頑張って戦い抜けばいいんだよ」
そう言って肩をポンと叩き、今度こそ彼は旅立つ。
「行ってくるぞ、アシュティン。必ず帰るから兄貴を待っててくれよな——」
それが青年が見た兄の——勇者リヒトの最後の姿だった。
△△
薄暗くホコリの舞う部屋の中——明かりもつけず、壁に寄りかかりながら青年はぼうっと天井を見つめている。
小さな寝室だ。青年が兄と暮らしていた家。
両親が生きていた頃からの大切な思い出が残る家。
今はもう誰もいない。
青年の家族はいない——誰も帰らないこの家に青年だけが一人残っている。
必ず帰るから待ってろ、と言った兄でさえも。
「……馬鹿野郎」
それは兄に対してなのか自分に対してなのか。
誰に向けての言葉かもわからないまま青年は一人呟いた。
* * *
ヴェルメ達と一緒に村を出た明け方から数時間は経ったか。
日はすっかり昇り、晴々とした天気が3人を照らしている。
空を見上げてみる。噛みしめたくなるほどの晴天だ。
なにせ、この世界に来てからあまりに長い夜だった。
空は明るくなるものなんだということを忘れてしまうほど濃密な時間。
今は二人の姉妹と一緒に舗装された一本の道を真っ直ぐ歩いている。
村を出た先は広々とした草原が続いていて、日や視界を遮るようなものは何もない。
ポカポカとした日差しが眠気を誘ってくる。
すると先を歩いていたリーベが声をかけてくる。
「あそこで少し休憩しよっか?」
リーベが指差した先の道沿いには少し大きめの樹木が一本立っていた。
「うん。この子、眠そうにしてる……」
気を使わせてしまったようだが体力の消耗というなら自分よりヴェルメのほうが大きいはずだと思った。
「ヴェルメも疲れてるでしょ? あまり休む時間もなかったんだから」
リーベも同じ事を考えていたらしい。ヴェルメに休憩を勧めている。
「でも……眠くないよ?」
「眠らなくてもいいけど体は休めましょう。まだしばらく歩くことになるしね」
リーベの提案通り、三人で木陰に向かった。
——二人は食料として持ってきた何かの豆をポリポリと食べている。
ヴェルメから少し分けてもらったものをかじってみたが……かなり固い。
前にテツロウからもらった骨の形をした歯磨きガムといい勝負だった。
「あなた、思ったより歯が弱いのね?」
こっちが一粒食べるのも手こずってるのを見てリーベはそんな怖い言葉を口にした。
二人とも顔色一つ変えずにこの豆っぽいものを嚙み砕いてる。
この二人の歯が特別なのか、この世界の人がこうなのか。
……どっちにしてもちょっとだけこの二人が怖くなった。
——そういえば。
こんなに明るい所で二人の姿を見るのは初めてだ。
特にリーベ。村ではあまりに色々な事があり、頭の中がメチャクチャになって他人の容姿など気にする余裕はなかった。
こうして改めて見ると姉妹というだけあってリーベとヴェルメはよく似ている。
ヴェルメと同じ紺色の長い髪。顔立ちはもちろんで数年後のヴェルメの姿と言われても違和感はない。
違うとすれば髪型か。左右で結んだヴェルメに対してリーベは片側のみだ。
ヴェルメとお揃いの黒いリボンで結わえている。
後はやっぱり——この目。
ヴェルメの目は紫色でリーベの目は緑色をしている。
その輝きは見る者の心を引き寄せてしまいそうな美しさがあった。
自分の見ていた範囲ではあの村に他にそういう印象を持つような目の人間はいなかった。多分、この二人が特別なのだろうと考える。
「魔法使いの目、なんだって」
リーベを凝視していた雪が何を気にしていたのか察したのかヴェルメが説明をする。
「普通の人の目はみんな褐色なんだけど……魔法を使える人は目の色が違うみたいなの。私もおねえちゃんも生まれつきこの色だった」
魔法の力を持っている人間は普通と違う目の色をしているという。
確かにリーベが何か不思議な力でヴェルメのすり傷を治していたのを一度見ている。
あの時は何も理解できなかったが、魔法という存在の話を聞いた今はある程度、納得することができそうだった。
じゃあ、ヴェルメも魔法を使える……?
「私は……素質はあるみたいなんだけど、まだ使えたことはないんだよね……」
頭に浮かんだ疑問をたまたまヴェルメが答えるカタチになった。
ヴェルメは恥ずかしさを誤魔化すように両手の指をこすり合わせている。
「別におかしなことじゃないわ。私だって、意識的に扱えるようになったのはヴェルメくらいの年だったもの」
リーベはつまらなそうに答える。
恥じる理由なんてどこにもないというリーベの意思を汲み取ったヴェルメは姉に微笑みかけた。
「でも私、おねえちゃんと同じ色がよかったな。魔法使いの目の色って、ほとんどみんなバラバラだもんね。これってどうしてなの、おねえちゃん?」
「扱える魔法の属性によって色が決まる——とか。もしくは力の強さの程を色で表している、とか色々聞いたことはあるけど……どれも本当か怪しい話よ」
そもそも魔法を扱える人間が生まれること自体が非常に稀らしい。
魔法の素質を持つ者は何の予兆もなく、突発的に。
魔法使いの子どもが魔法使いになるというわけでもなく。
なんの変哲もない普通の人間の夫婦から生まれることもある。
その上、希少ともなれば確かな事実など……それこそ神のみぞ、だろう。
「そっかぁ……でも、いっか。自分の目は嫌いじゃないし、おねえちゃんの目はキレイで好きだもん」
「くす——そうそう。目の感想なんて、その程度で十分よ」
お互いが気にかけ、思い合っている様子が見られる。
テツロウの家で馴染んだ温かさと同じものを感じ、心地が良くなっていく。
「ねえ、あなたは眠らなくて大丈夫?」
ふと、ヴェルメがこっちを気遣ってくる。
眠くないわけじゃなかったけど、眠るとまたあの部屋に連れていかれるかもしれないと思うと気軽に眠ろうと思えなかった。
アイツは怖い……できれば会いたくない。
だがこの世界のことを知るにはアイツから話を聞くのが一番簡単だ。
とてもイヤだが……きっとまた会うことにはなる。
そう思案しているこっちを横目に見てからヴェルメはリーベに質問をする。
「ねえ、おねえちゃん。私たちが今、歩いてる方向って……グリューン国だよね?」
「うん……理由はいくつかあるけど。会いたい人がいるから……が、とりあえず一番かな」
グリューン国という名前に覚えがあった雪は白い部屋の女の言葉を思い出す。
◇
『君が最初に辿り着いた村はグリューンの領地にある村だね。大陸の南端に位置する国だ。つまりそこが君のスタート地点になる』
“グリューン……?”
『対して目的の魔王だけど……彼は今、北端に城を構えている。元々はヴァイス国という名前の人間達の国だった所だ。魔王を目指すなら真っ直ぐ北に行くことを勧めるけど……まあ、どう動くかは君に任せるよ』
◇
確かアイツは……国は全部、魔族に支配された、って。
なら、そのグリューンという国にも魔族がいるのでは?
だとしたらヴェルメ達を止めないとまずいかもしれない。
「会いたい人って……もしかして、アシュティン様?」
初めて聞く名前をヴェルメが口にする。
「アシュティン様はね、勇者様の弟なの。グリューン国に住んでるん……だけど」
首をかしげるような仕草をしたのを見てヴェルメが簡単に説明をしてくれた。
勇者——そう言えばリーベがそんな言葉を口にしていた。
魔王を倒しにいったけど負けてしまった人の話だったか。その弟がいる……?
「私達が今、使ってるこの道はグリューン国に行く為の一本道。でも一年前に魔王の勢力に降伏して以来、誰も使ってる様子がない……」
うつむいて話すリーベの表情は暗く見える。
「……グリューン国の様子を見ておきたいの。危険ではあるけど……今の状況になってるからこそ、一度確かめておきたくて」
口ぶりからしてリーベも国に魔族がいる可能性を承知しているようだ。
そもそもあの部屋の女が話したように全ての国が乗っ取られているというのなら、この世界の人間にとってはとっくに周知されている事なのかもしれない。
「ヴェルメ、わかると思うけどグリューン国に行くのは危険なの。あの国は今も魔族の支配下にあるはずだから」
それでも、ただ逃げ隠れてやり過ごすのは不可能だとリーベは話す。
ヴェルメが狙われたのは魔族の気まぐれではなく魔王の明確な意思によるもの。
そうである以上はどこに逃げても必ず追われ、いずれ見つかるだろうと。
ヴェルメを守る——その為には安全な隠れ場所よりもまずは力を求めるべき。
魔族が来ても対抗できるだけの手段を集めたいというのがリーベの方針だった。
「……アシュティン様なら事情を伝えれば力になってくれるかもしれない。行って、会ってみないとわからないけれど」
「そう、だよね……」
「本当は一人で確かめに行こうとも思ったけど……」
そう言ってチラとヴェルメとこっちを交互に見た。
……なんとなくわかる。多分リーベはヴェルメを残すことが怖いのだ。
リーベにとって自分はまだ完全に信用できるわけじゃないはず。
だから自分がヴェルメの傍についてると言っても安心はできないだろう。
リーベは悪くない。これは当たり前の迷いなんだから。
「勝手に決めて、ごめんね。でも——」
「大丈夫だよ。私もアシュティン様が気になるもん。会えるなら会いたい——でしょ?」
ヴェルメは真っ直ぐに伝える。
妹の言葉に頷き、リーベは立ち上がった。
「そろそろ出発しましょう。日が暮れるまでにもう少し距離を稼いでおきたいから」
「わかった。——ごめんね、動けそう?」
一吠えして、問題ないという意思を示す。
3人は目的地へ続く荒れた道を再び歩き出した。
「————あっ」
歩き始めてから少ししてヴェルメが突然声を上げた。
「どうしたの、ヴェルメ? 何か忘れ物した?」
「ううん、そうじゃなくて——この子のこと、なんて呼べばいいんだろうって思って」
言わずもがな自分の事だろう。
別にたいして気にしていなかったが、ヴェルメ達にとってはやはり呼べる名前がないと不便に感じるらしい。
「名前、呼んであげたいな……おねえちゃん、何がいいと思う?」
「わ、私に聞くのっ? 名前なんてどう決めればいいか……」
二人は立ち止まって、うーん、と真剣に考えこんでいる。
拳にした手を口に当てて悩む仕草がテツロウみたいだと思った。
……まあ、あの人の悩みは2秒で終わってたけど。
「——ねえ、私があなたの名前を決めてもいい?」
考えこんでいたヴェルメが突然、そう訊いてきた。
……そう言われても自分の名前は“雪”だと認識しているのだから、今さら他の名前で呼ばれても反応できる自信がない。
とはいえ、これはヴェルメの自由だ。
呼べる名前を作りたいというなら別に止める理由もない。
「今は思いつかないから——ちょっとだけ時間ちょうだい? 決まったら後で教えるからねっ」
ヴェルメは雪に笑いかけた。
名付けることができるのが嬉しいのか足取りが軽い様子が見られる。
年相応のとても可愛らしい笑顔だ。
思えば、あの森で初めて出会った夜から。
辛い感情を無理やり抑えこんだような、痛々しい表情ばかりしていた幼い少女が初めて雪に見せた心からの笑顔だった。
◇◇◇
「——まさか、またそっちから訪ねてくれるなんてね。もしかしてボクのこと気に入ってくれた?」
部屋の女はニコニコしながら言う。
冗談じゃないと吐き捨ててやりたかったがそれを言葉に出したところでこの女には効かないだろう。
あれから日が沈むまで歩いたが結局、目的地には着かなかった。
リーベによれば、もう数日はかかるらしいので明日に備えて今日は休んでいる状態だ。
「どうやら少しは慣れたみたいかな? 新しい容器も問題なく馴染んでいるようだし、よかったよ」
"……新しい、体"
本当は聞きたい質問が他にある。ただその前に一つだけ。
すでに聞いた答えではある。だがどうしても納得しきれなかったため、最後にもう一度だけ確かめることにした。
"……前に言ったよね。君はもう死んだ、って。あれは……本当なの?"
恐る恐る質問する。
嘘だと言ってほしい。
だってそれならテツロウが死んだという話も間違いだと思えるから。
しかし女は情けも容赦もなく、ただ事実としての答えを口にする。
「もちろん本当だよ。別に偽る意味なんてないしね」
"そんなのおかしいよっ だって……ちゃんと生きてる。こうやって体もあるんだから"
そう訴えると女はくすりと薄く笑う。
「君の前にここに来た彼もそう言っていたよ。その前に来た彼も。その前の彼女も。生命種問わず、やっぱりその点はみんな気になるんだね」
面白いと言いたげに見てくる。
その好奇の目に不快感を覚えながらも答えを催促する。
「まず最初に訂正するけど、今ここにいる君はあくまで君の形をした魂だけだよ」
……そういえばそんな話だったか。
感覚的にはいつもと同じだから実感がないけど、体は今もあの世界で眠っている状態なんだ。
「記憶にあるだろうけど、君の肉体は一度壊れて失っている。そして"花"から"花"に移された時、その魂の情報を元に新たに肉体という器が作り直されるんだよ」
"……それは生き返った、ってことでいいの?"
「まあ間違いではないかな。実際君は新しい肉体を得たわけだし」
そうだ……重要なのは自分がやっぱり生きてるということだ。
それなら————
「君の考えていることはわかるよ、雪。身体を持って存命しているのなら元の世界に戻れるかもと期待しているんだろう?」
しかし女はそんなわずかな希望さえも持たせてはくれなかった。
テーブルに置かれた五つの鉢を指して女は話す。
「この"花達"は自分の活動維持の為にそれぞれ様々なルールが構築されている。だけどどの"花"にも死んだ命を再生する力はない」
"え……"
「君が今、新しい身体を得ているのは"雪"を知らない世界の中だからこそなんだよ。君が元いた世界ではもう"雪"の死は認められているからね。だから——」
元の場所には帰れない。
雪という存在は車に轢かれ、死んだ。それがあの世界での結末。
あの家に戻ったとしても誰にも会えないし、気づいてもらえることもないのだ。
"……"
「ごめんね? 嘘をついて誤魔化すこともできたけど、あまりお互いの為にならないと思ったから……ボクなりの誠意と思ってもらえると嬉しいな」
……最低の事実だった。
でもだからこそ今聞いておいてよかったのかもしれない。
こんな話を後で知らされてたら、きっと"雪"という意識の形すら保てなくなるだろうから。
それに、だとしても——今はやらなくちゃいけないことがある。
ヴェルメの顔を思い浮かべ、雪は女に質問を続けた。
"わかった、もういい——それよりまだ聞きたいことがあるんだ"
どうせなら今のうちに浮かんだ疑問は聞けるだけ聞いておかなければ。
そもそも本来はこれを確認するために会いたくもない相手に自分から会いに来たのだから。
“グリューン国っていう場所に魔族はいるの?”
「うん? まあ、多分いるんじゃないかな」
急にあやふやな言い方をする女の言葉に違和感を覚える。
“……何、その言い方。もっとはっきり教えてよ”
すると女は目を丸くした後、くすりと小さく笑いだした。
「君はボクのことを少し誤解してるのかな。ボクは見たい時に見たいものを見てるだけ。別に“花”のありとあらゆる事を常になんでも把握してるというわけではないんだよ?」
“……今さら、そんなことを言うの? こんな場所からみんなを見下ろしてるくせに”
「ひょっとして人間がいうところの神様のようなものだと思われてるのかな? だとしたら誤解だよ。ボクは神様なんかじゃない。ボクは無力な存在だ。だからこそ君達、“花”の生物に助力をお願いしているんだから」
“無力だって?”
「“花”で生きる君達に認知されない場所から君達を見ている。——という点で言えば、確かに人が定義する“神”の特徴に少しは共通しているのかもしれないけど、ね」
神の定義とかこの女の価値観など知ったことではないが、この女が口にする無力という言葉に雪は苛立ちを覚える。
こっちをこんな目に合わせておいて何を言うんだ、こいつは——と。
“……じゃあ無駄足?”
「に、しちゃうのも可哀想だから今回は特別にしてあげる。でも今後はアテにしないでね? ボク自身が手伝うことはしないって決めてるからさ」
そう言うと女はいつものように浅鉢の球体に軽く触れ、ふんふんと数度頷く仕草をする。
「うん……やっぱりグリューン国の中に魔族が一人いるね。人間をいじめて楽しんでるみたい」
“! 一人だけ?”
「今のところは。ああ、それと捜したい人の名前——アシュティンだったよね? 彼も街の中にいるみたいだよ。……元気はなさそうだけど生きてはいるみたいだね」
それならリーベのやりたい事もできるだろう。
グリューン国を目指す意味もなくならない。
その情報を聞いて少し安堵した。
「気をつけるといい、雪。村を襲ったあの魔族も恐らくグリューン国から来たんだろう。今、国の中にいる残りの魔族は少なくとも仲間が戻らないことへの不審さは感じているはずだからね」
……もっともだ。頭に入れておいたほうがいい意見だろう。
“わかった。もう、いいよ。……教えてくれてありがとう”
「うん、頑張って。——あ、そうだ」
話が終わったところで女が雪を呼び止める。
「さっきは女の子と楽しい話をしていたね。名前をつけてくれるんだって? いい名前をつけてもらえるといいね。まあ、どういう名前をつけられてもボクは変わらず“雪”って呼んであげるから安心してよ」
女はニコニコしながら雪にそう言った。
“……うるさい、バカ”
やっぱりコイツは嫌いだ——と、心底そう思った。
◇◇
——数日が経ち、3人は今日もグリューンに向かって他に誰もいない道を歩く。
「今日も晴れてよかった。おかげでペースを崩さずに進めてる」
「おねえちゃん、後どれくらいで着きそう?」
「もう少しよ。この分なら明日の昼までには着けると思う。……本当はもっと急げたらいいんだけど、徒歩じゃこれくらいが限界だものね」
その言葉を聞いて足を止めた。
ヴェルメがそんな様子を気にして声をかける。
「どうしたの? 何かあった……?」
ヴェルメの声は耳に入らないまま考えていた。
——そうだ。どうして思いつかなかったんだろう?
もっと急げる方法ならあるじゃないか。
周りに他の人なんていないんだし気にすることもない。
ヴェルメやリーベのために自分が頑張ろう。
「え?」
そう思い立ち、すぐに黒い怪物の姿に変身した。
——なんだか手慣れてしまった。コツを掴んだということなのか。
あの女の言った通り、すぐに簡単にできるようになったな。
「な————っ!?」
いきなり目の前で巨大な怪物になったことで二人が驚く。
だがそんな反応は気にせず二人の衣服の後ろをくわえて、ぽーんと上に放り投げる。
二人が自分の背中に乗ったことを確認してから、真っ直ぐ駆けた。
「ひ——あ——あ——あ——あ——あぁぁ——っっ!!??」
風の音と背中から聞こえるリーベの悲鳴を聞きながら、ヴェルメがしっかりと身体にしがみつくのを感じた。
このペースなら、今日の夜には目的地に到着するだろう。




