名前は
夜の森を、月明かりが照らしている。
その中で人間の子どもが、人間でない何かに襲われていた。
緑の肌で頭に角が生えていて。
人の形に似てはいるけどまったく別の生き物。
ソイツらは子どもを引き倒し、殴って、蹴飛ばした。
その後、動けなくなった子どもの髪を掴み、ズルズルとどこかへ引きずっていく。
その光景を黙って見ていることができなくて。
だから牙を剥いて、四本の足を前に出して。
茂みの中で怯えて隠れていた自分の体を無理やり、引っ張り出した。
"やめろ! どうして酷いことをする!? やめろ——やめろッ!!"
ソイツらの腕に思いきり噛みついた。当然相手も黙っているわけがない。
太い木の棒で何度も殴られ、吹き飛ばされて木の幹に体を打ちつけた。
イタい。血を吐いた。きっと骨も何本か折れてる。
それでも震える足でなんとか立ち上がった——あの子どもを助けたくて。
だってこんなヒドいこと、あの人なら許さないから。
やっとの思いで奮い立った努力も虚しく。
次の瞬間には飛んできた二本の矢が体を貫いた。
そうして自分はあっけなく死んだ——はずだった。
——アツイ。
地面に倒れた体を、再びゆっくりと起こす。
どうして立ち上がれたのかはわからない。
自分は今、確かに力尽きたはずなのに。
あれだけあった痛みは全くない。たくさん流れていた血も止まっている。
黒い霧のようなものが体の内側から出てきて全身を覆っていた。
よく見えないが多分、傷は治っている気がする。
——体がアツい。
何より、変だった。
体が動いている自覚はあるのに、体を動かしているという実感がない。
足の太さがおかしい。今まではこんなに大きくなかった。爪も真っ赤に変わっている。
尻尾も違う。今までは頭まで届くような長さも太さもなかった。
しかも尾の真ん中から先端までの周囲を鋭いトゲが覆っている。
肌は真っ黒で体の毛も全部どこかにいってしまったみたいだ。
——頭の奥が熱い。
目線も変だった。どうしてこんなに高いのだろうか。
少し見下ろしてみると近くに小さな影がいくつも立っている。
緑色の化け物。これまで生きてきて初めて目にする生命体。
その生物は弓や手斧を、各々の得物としてこちらを警戒するように様子を伺っている。
——ああ、そうだ。コイツらにやられたんだ。
さんざん痛めつけてくれた生き物達は変わらずそこにいるが、今はまるでネズミくらいまで縮んでしまって見える。
視界にも違和感がある。見える範囲がやけに広い。
上下左右どこを見ても、普段の倍以上に拡大されていた。
気持ちの悪い鳴き声を上げながら、ジリジリとこちらとの距離を縮めてくる。
明らかにその生物達は敵対の意思を見せていた。
……酷く怯えているのがわかる。今のこの姿はそんなに恐ろしいのだろうか。
さっきまであんなに楽しそうに相手をなぶっていたくせに。
それでも向かってくるなんて。
——声がうるさい。
囲んでいる生物の内の一匹が一際大きな声で鳴くと、それを合図に他の仲間が一斉に飛びかかった。
————ウルサイ。
それは戦いというより、作業のようなものだったかもしれない。
向かってきた相手を次々、返り討ちにした。ただそれだけ。
巨大な尻尾で吹き飛ばした。口に入れて噛み潰した。爪で引き裂いた。前足で圧し潰した。殴り殺した。
悲鳴を上げる間も与えなかった。振るう力が、ただただ邪魔な虫を散らすように蹴散らしていく。
——熱い……アツ、い……っ
圧倒的な力を振るう一方で必死に耐えてもいた。
焼けるような熱は止まることなく体に蓄積していく。
その熱はやがて思考までぼやけさせる。
今、何をしているのか。何をしようとしていたのか。自分が何者なのか。
自分という存在の理由を根こそぎ焼き尽くすかのような感覚。
そしてまだ一匹残っているのを怪物は認める。先ほど他の仲間に合図を出していた個体だ。
得物を落とし、地面に膝をついて両手を上げている。
身体を震わせながら怯えた目で何かを必死で訴えかけてきている。
だが、その行為の意味はよくわからなかった。
最後に残った一匹は懇願する姿勢のまま。
振り下ろした足によってただの肉片へと変わった。
危険だったものが全て消えたのを確認し、その場で足を止める。
低く小さく唸りながら周囲をゆっくりと見回しているとピタリと、ある一点に目がいく。
その先には一人の少女がいた。
——コどモ……人間ノ、女の子。
この地獄のような空間にはあまりに似つかわしくないほど幼く、弱々しい姿。
——アア……そウだ。自分ハ……あの子ヲーー
ゆっくりと、少女に向かって歩き出す。
少女はじっとその場に座りこんでいる。
どこか怪我をしているのか、あるいは恐怖から動けないのか。
少女は身動きすることもなく、ただ黙って見ていた。
歩を一つ進めるだけで、少女との距離が大きく縮まる。
——考えている。
頭の中でずっと同じことを巡らせ続けていた。
考えていないと全て失くしてしまいそうだったから。
どうしてここにいるのか。どうしてこんな姿になっているのか。何が起きているのか。
あの人は、無事なのか——
「ぁ……」
その時、ようやく少女が声を出した。
その音に気づき、視線を下げるといつのまにか少女はすぐ足元という所まで迫っていた。
ハッと慌てて半歩下がってから、少女の様子を確認する。
眼前にまで近づいても少女は逃げようともせず、ただぼんやりとこちらを見上げているだけ。
やはり怯えて体が動かないのか。
しかしこちらには少女を襲う気などなかった。
近づいたのは、ただ彼女の怪我の有無を確認したかったから。
——もう……離れてあげないと。
ここにいてはこの少女は安心できない。
それに体と頭の奥の熱はまだ消えていない。
この姿の自分がこれ以上何もしないという確信が持てない。
今は誰かといることが恐ろしい。
そう考え、少女から離れようとした時。
「……泣いてる……の?」
え……
「どうして……泣いてるの?」
少女は自身より高い位置にある顔へ手を伸ばす。
「私、は……ヴェルメ……」
ヴェルメと名乗ったその少女は。
「あなた……は? あなたの……名前は?」
恐れることもなく、拒絶することもなく。
ただ名前を、聞いた。
————ナマ、エ?
その問いは、熱されている自分という存在を急速に冷ましていき——
"な、まえ……自分、の……なまえは————"
その時。
決して失われることのない、かつての光景が脳裏に浮かんだ。
△△
——これは大事な記憶。
絶対に忘れられない……かけがえのないモノ。
「……だからよぉ、子犬を拾っちまったんだって。寒さで震えてたのは家に入れたからいいとして、何か食わしてやりてえんだよ。オメー今、犬飼ってたろ? こーいう時、何をあげりゃいいか聞きたくてよ」
台所を落ち着きなく歩き回りながら、電話の相手を急かしている。
「あ? ああ、まずは水か。そうだよな。……ドッグフードなんてねえよ! あぁくそっ、さっきついでに買っておきゃよかった……」
ドタドタと忙しそうに戸棚や冷蔵庫を開け、何かないかと物色している。
「……まあ、とりあえず大体わかったよ。助かったぜ、またな」
やれやれとぼやきながら受話器を置いた。
「わりぃな、ちと響子っつー娘に電話しててよ。なんせ犬なんて飼ったことねえからな。アドバイスがほしかったんだ」
そう言って老人は水と餌を作って子犬の目の前に置いた。
子犬は慎重に水に顔を近づけ、しばらく間をおいてから餌も含めてゆっくりと口をつけた。
「へへ……よし。飲み食いできる元気があるんならとりあえず心配はいらなそーだな。……ずいぶん汚ぇし、後で風呂にでも入れてやっか」
老人はタバコを咥えて口からプカプカと煙を吐きながら子犬の食事を見守っている。
二本目に手を伸ばそうとしていたが、子犬がちょうど食べ終わったのを確認すると声をかけた。
「おー、全部食ったな。美味かったか?」
食べ終わると満足感と安心感が一気にやってきた。
子犬は思わずしっぽをパタパタとふりながら人間を見上げた。
「へへっ、なかなか可愛いじゃねえか、オメー。……ったく、まだ子犬じゃねえか。こんなもん適当な所に捨てやがってよぉ」
老人は子犬の前にしゃがみこみ目線を近づける。
「オメーが前の飼い主をどう思ってたんか。そいつにどんな都合があったのかも知らねえがよ。オレはロクな奴じゃねーって決めつけてやるぜ」
元からシワだらけの眉間に更にシワを寄せ、不機嫌そうに口にした。
「拾ってやってくださいなんて紙切れを置いただけで自分のやった事を帳消しにしたつもりでいやがんだ。紙切れすらオメエのためじゃねぇ。オメェの飼い主はただのクソ野郎だよ」
子犬には老人が何を言っているかはわからない。
それでもこの人間が怒っている。
表情や声色、呼吸、匂いでそれを感じとっていた。
自分に対し、怒っているわけじゃないということも。
「オメーも捨てられた時に罵倒の一つでもしてやりゃよかったんだ。もしオメーが人間の言葉をしゃべれりゃあ相手がドン引くほどキッタねぇ悪口も教えてやるんだが——」
言いかけた老人は違う言葉を口にする。
「いや、やっぱ人間の言葉しゃべる犬なんて気持ちわりぃか。あー、でも人間の言葉を完全に理解できる犬ってんなら悪くねぇかもな。そしたらオレとしても退屈しねぇ毎日になりそうだ」
話を黙って聞いていた子犬の顔を突然、両手でムニムニと触りだした。
子犬はジッと老人の様子を伺いながら、考える。
……ゴツゴツして固いその手は不思議と温かくて心地いい。
乱暴そうな雰囲気なのに、こっちに話しかけるその声はどうしてか落ち着ける。
……もっとこの人に触れてみたい。
もっとその声を聞いてみたい。
できれば理解……してみたい。
「にしてもオメー、なんか変な犬だなぁ。体は真っ黒いくせに顔と腹はやたら白いしよぉ。そういうもんなのか? 犬は種類が多すぎてよくわかんねえや。……そーいやオメーに名前もつけなきゃなんねぇな」
老人は拳を顎に当てながら何か考えこんでいるようだ。
子犬は自分に触れる手から、その声から。匂いや仕草から。
彼という人間の情報を少しでも集めようと必死になっていると、突然楽しそうに子犬の方を向いてきた。
「雪。——ってのはどうだ? 顔がやたらと白いしなっ それに今の季節にも合ってるっ オメーを拾った時も雪が降ってたしなっ」
…………ユキ?
その命名によほど自信があったのか老人はかなりウキウキしている。
「よし、決めた。雪——オメーの名前は今から雪だ! これからはずっとオメーをそう呼ぶからな。ちゃんと覚えるんだぞ? 雪っ」
ゆき? …………ゆき
「それからオレはテツロウだ。カッコいい名前だろっ? テ・ツ・ロ・ウだぜ。ヒヒ、よろしくな雪っ」
テツ、ロウ……テツロウ……ゆき……ユキ
子犬は老人が何度も繰り返す一つの言葉を、なんとか頭の中で反芻する。
ユキ……あの人がつけてくれた……大切な——
△△
"————ゆき。名前は…………雪"
少女に答えるつもりで頭に浮かべた言葉を声に出した。
多分、少女に伝わってはいない。
それでも彼女の目に怯えはなくなっていた。
こちらを見上げていたはずの少女の顔が、いつの間にか今度は見下ろす側になっていた。
「あなたも……怖かったんだね」
ゆっくりと頭を撫でる、その小さな手はまるで。
小さく、かよわい命を愛しむものかのようだった。
「怖かったのに助けてくれたんだね……ありがとう、怪物さん……っ」
目に涙を溜めながら少女は感謝を口にした。
怪物——自分がいつのまにか元の犬の姿に戻っていると気づいたのは、もう何十秒か先のことだった。
執筆初挑戦としての作品ですが、もし目を通して少し気になるかも?と感じたら⭐️やブックマークをいただけたら嬉しいです。




