7. 甘いクッキーと苦いチョコレート
「今日のところはもう帰らせてもらうわね」
そう言い残して、アリアは去って行った。
見えなくなってからしばらくして。遠くのほうで、お嬢様、お嬢様と。
彼女を心配する声が溢れた。
カイルはしばらくそこから動けなかった。
いつもうるさいアイボは何も言わず、ずっとカイルのそばにいた気がする。
その日、父に呼び出された。どう伝わっているか知らないが、怒られることはなかった。ただ、謝りなさいと。
その後に、母に呼び出された。父と同じように謝りなさいと言われた。そして私みたいに間違うなとも。
その日の夜、カイルは熱を出した。体が弱いのに、雨に当たり続けたせいだろう。
謝るのは、元気になってからになりそうだ。
次に会ったとき、どんな顔をすればよいのか、そればかりが頭に浮かんだ。
アイボはアリアに関してはずっと黙ったままであったが、昨日あった事の顛末を聞かされた。
孤児院の前でアリアが言い争っていた件だ。
どうやら、カイルの見立てが甘く、アリアは何も悪くないらしい。
上の空で寝込んでいるカイルに、アイボは大袈裟に話してくれた。
それは昨日、カイルが帰った後のことだ。
どうかご慈悲を、と頭を地面に擦り付けていた男が顔を上げた。その目はアリアともう一人の女の老人に対する憎しみで染まっていた。
その容貌は、決して権力に押さえつけられた弱者のそれではなかった。
「偽善者どもが………」
男が憎しみを込めた声で呟いた。
「何か言った?」
もうこの場はジョニスという側仕えに任せて立ち去ろうとしていたアリアがそれに反応すると、男はアリアと女の老人を睨んだ。
「ガキ共の世話をするのに、見返りがいらない? いるに決まっているだろう!? いつからここはボランティアになったんだ!? 何が子供達の方が辛いだ! 子供達の笑顔があれば頑張れるだ! この、偽善者が!」
男は女の老人に喚き散らした。アリアはすぐに庇うようにしてその間に立った。
「それで人身売買に手を染めるなんて、笑えないわね。それに、彼女の尊い行いを、善とか偽善とかいう軽い言葉で語らないでもらえるかしら?」
「……わがまま姫が、口だけは達者だな。お前みたいに生まれ持った権力で好き放題してるガキにとやかく言われる筋合いはねえよ。いいよなお前は。辛い思いをしたことなんて、一欠片もないんだろう?」
「だったら?」
「開き直ってんじゃねえよ。お前のお遊びで人生をめちゃくちゃにされたと言いふらしてやる」
「好きにしたら? それであなたの何かが変わるとは思えないけどね。それに、もう顔を合わすこともないでしょう」
その場にはすでに男を捕まえにきた衛兵が来ていた。無論、アリアの要請である。
「ちっ。覚えてろよ」
「それ以上喋らない方がいいと思うけれど。ほら、みんなが聞いているわ」
そう言うと、男はそれきり黙ってしまった。しかし、彼は連れて行かれるまで、いつまでもアリアのことを睨んでいた。
それからやることを済ませたアリアは、急いで自室に戻った。そしてぐっしょりと汗が染み込んだ赤いドレスを脱いで、部屋用の軽い服に着替える。
彼女は仮眠をして少し休憩を挟んだのち、また別件の仕事をやり始めた。
時折、同じ部屋にいる老齢の執事がそれを手伝ったり、幼い頃からお世話になっているメイドが、何も言わずともアリアが好きなお菓子とお茶を出したりした。
そんな完璧な連携で作業していると、気づけば日が落ちかかっていた。もう少しで全ての仕事が終わりそうな時に、部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、先ほどのトラブルの後処理を任せたジョニスだった。
「全てお嬢様の仰せの通りにしておきました」
「そう? ありがとう。申し訳ないけれど、もう一つ頼まれてくれない? 一階に食料と、毛布、それから少しだけど資金をまとめておいたから、届けておいて」
「先ほどの孤児院にですか? 何のためか聞いてもよいでしょうか?」
「ん? 子供たちだけど」
「はい? 子供たちはもういませんが」
「ちょっと待って、どういうこと? どうしてそんなことになっているの?」
「お嬢様が自分のものにすると仰っていたので、てっきり子供たちは追い出すものかと」
思わず、ため息が出た。
「そんなこと言っていないわ。連れ戻してきてくれる?」
「申し訳ございません! すぐに!」
「ううん、私にも非はあるわ。気にしないでちょうだい」
急いでいたとはいえ、確かに言葉足らずだったかもしれないとアリアは反省した。
アリアの命令がそんな風に聞こえていたなら、あの時の彼の不満そうな態度も納得である。
「失礼いたします」
ジョニスが出ていき、部屋のドアが閉まった後、走る音が聞こえた。
「私も、手伝って参ります。よろしいですか?」
老齢の執事がアリアに尋ねた。
「ええ、頼むわ。それと、ジョニスには悪いけど、今日で辞めてもらうわ。理由は今回のミスということにしておいてちょうだい。お金と、そうね、クラリスの名前で次の仕事の紹介文を書いてあげなさい。思いやりと行動力のある素晴らしい人材だとしてくれたらいいわ。あ、ちゃんといい意味でね」
「御意」
「それと、もう人を追加する必要はないわ。あなたたちだけで十分よ」
アリアは目の前の執事と側に立つメイドを見て言った。
「………これから、どうなさるので?」
「ずっと、やり残していたことがあるの」
アリアは遠い過去を懐かしむかのように優しい目で笑った。
それが、彼女がカイルに会いに行く、前夜だった。
お嬢様が、大怪我を負って帰ってきた。
昔から、アリアの成長を見守ってきた侍女は、胸の奥から湧き上がる怒りを抑えるのに必死だった。
お嬢様は意識を失う直前に、彼は悪くないから責めないでねと言っていた。
優しすぎる彼女は、本気で彼が悪くないと思っているのだろう。
だから、私が代わりに怒る。
一国の王子だろうが、お嬢様の婚約者だろうが、関係ない。
私が許さない。もしも、直接会うようなことがあれば、文句を言ってやろう。
それから二週間が経ち、傷が塞がり包帯を外すと、綺麗なお嬢様の顔に大きな傷跡が残っていた。
その顔を見て、涙が出た。
怒りもあったが、悲しみが大きかった。
その侍女の涙を皮切りに、クラリス夫妻とまだ幼いアリアの弟や、お見舞いに来ていた友人、執事が泣き、それを見たお嬢様も涙を流した。
それからひと段落つき、お嬢様はまた、あの王子に会いに行くという。
「お嬢様、私はもう彼と会って欲しくありません」
それは、長年アリアに付き従った侍女が、アリアに初めて意見した瞬間だった。
「ありがとうね。心配してくれるのは嬉しいけど、それはできないわ」
その侍女は、心の中では、アリアがこう答えることが分かっていた。
「あなたからの初めてのお願い、聞いてあげたかったわ」
ごめんなさいねとお嬢様は謝った。
「いえ、こちらこそ申し訳ございません。出過ぎた真似を致しました」
侍女は食い下がらなかった。
自分にはアリアを説得することはできないからだ。
生まれた時からずっと近くにいるのだ。
彼女は、アリアが一度決めたことを絶対に曲げないことを知っている。
そしてアリアも、そんな聞き分けの良い侍女に甘えているのだ。
それくらいはいいでしょう?
だって私は、誰よりもわがままなのだから。
熱が下がり、久しぶりに外に出れた。
ただの風邪というには、カイルの体調がいつもより悪化し、快復するまで二週間もかかってしまった。
カイルが寝ている間、アリアが来ることはなかったらしい。
それもそうだろう。彼女は大怪我をしたのだ。あの傷が短時間で治るとは考えにくい。
それとも、怪我はもう治っていて、ただカイルに会うのが嫌なだけという可能性も考えられる。
もしそうであっても、それは仕方のないことだ。
それほどのことをカイルは彼女にしたのだから。
ふと、誰かの足音が聞こえてきた。
見ると、アリアがいた。
「久しぶり、カイル」
「ああ」
寝転がっていた体勢を変えて、彼女に向き直った。
「体調を崩したと聞いて、心配していたのだけど、もう良くなった?」
「ああ、お前こそ大丈夫か?」
「ええ、いつも通りかしら」
彼女の左頬には、大きな傷跡が残っていた。
傷に障るからだろうか、化粧はしておらず、病み上がりのせいか、顔色が悪かった。目は腫れていて、その下には泣いた跡が残っている。
「お前、泣いたのか?」
「当たり前じゃない。綺麗な顔に大きな傷が残ったのよ? 乙女なら全員泣くわ。それに、私の家族も、友人も、お世話係もみんな泣くもんだから、つられてたくさん泣いてしまったわ」
アリアはたくさんの人間に愛されていた。
そんな人を傷つけてしまい、申し訳ない気持ちが増した。
「じゃあなんでまた俺のとこに来たんだ?」
そんな目に遭っておきながら、ここに来るのは勇気が必要だったはずだ。
家族も彼女の周りの人間もよく許したと思う。
いや、実際止めた人もいたはずだ。それを押し切って彼女はまたここに来た。
「それとこれと何の関係があるの?」
「怖くないのか? また傷つけるかもしれない」
「怖くないわ。同じことが起きても、また私たちが泣くだけよ。ただそれだけ。それに、あなたはもうそんなことしないでしょう?」
彼女は傷痕が残った顔で笑った。
彼女だけが、天才に笑いかける。
でも、傷つけた。それはきっと、一生を懸けても償えない大きくて深い罪なのだろう。
「悪いことをした」
「いいのよ」
しかし、彼女は笑って許してあげるという。
罪を借りに変えてくれたのだ。
その大きすぎる借りは何をしてあげたら返せるのだろうか。
「今度は俺がお前の願いを叶えてやる。何でもいい。言ってみろ」
「………じゃあ、カイルと話したい。話したいことがたくさんあるわ」
そんなちっぽけな願いでは、返せるものも返せない。
不服そうなカイルに、アリアは笑った。
カイルの意図も何もかもお見通しで、もしかしたらカイルは、アリアにはもう一生勝てないのかもしれない。
しかし、それでもいいと思った。
むしろ、それがいいと思った。
次の日もアリアが来た。
「手に持っているのは何だ?」
アリアの手には、カイルには見たことがないロゴが入った紙袋が握られていた。
「お菓子よ。最近できたお店のものなのだけど、母上が持って行きなさいって。甘いものは苦手じゃなくなったと記憶しているけれど?」
「ああ、誰かのおかげでな。むしろ最近では、チョコもよく食べる。お前の苦手な少し苦めのやつだ」
「おいしいの?」
「俺は好きだ」
「ふーん。じゃあ今度挑戦してみようかな」
「そうしろ。次会った時用に、たくさん準備しておいてやる。苦手を克服する手伝いだ」
「ふふ、ありがとう」
袋を開けると、中には可愛らしい動物のクッキーが入っていた。それをアリアは美味しそうに食べている。
久しぶりに口に入れたクッキーは、想像よりも甘く、やっぱりまだ苦手かもしれないと思った。
「来月、街にまた演劇団が来るそうだ。最近の流行りを取り入れた面白いパフォーマンスが見れるらしいから、一緒に観に行かないか?」
疎遠になる前は、二人でよく観に行っていた。カイルと同じで、アリアも楽しそうにしていたはずだ。
「……大丈夫なの? 流石に忙しいんじゃないかしら」
一月後。その頃には、カイルは王になっている予定だからだ。
「大丈夫だ。大丈夫にすればいいんだろう?」
アリアは目を見張った後、ふわりと笑う。
「そうね。その通りだわ」
それからも二人は、これまでのことや、カイルが王になってからのこと、そして、くだらないことなども話して、懐かしい時間を過ごした。
そうしているうちに、カイルには少し心の変化があった。
あの日、アリアに己の願いを打ち明けて、意外とそれは手に届くものだと気づかされたのだ。
するとどうだ。これまで欲しいと執着していたものが、ちっぽけな物のように思えた。
他にも大事なものはたくさんある気がした。
どこか、カイルは吹っ切れたのだ。
だったら、自由の願いを受け取るのは、アリアや両親が暮らすこの国をもっと豊かにしてからでも遅くはないだろう。
それは兄のやり残したことでもある。
せっかくだ。一肌脱いでやろう。
アイボを見ると、小鳥の姿で木の上にとまっていた。
アイボは基本的には二人きりの時しか話しかけてこない。だから、アリアがいる今は、こんな風に離れたところから見守っているのだ。
目が合うと、アイボは首を傾げた。
カイルはそれを見て、ふっと笑った。
次にカイルとアリアが会ったのはそれから三日後だった。
話を聞くと、忙しくて毎日ここに来ることはできないそうだ。確かにアリアは疲れた顔をしていて、消耗しているようだった。
だから、その日は少し会話してすぐに解散となった。
準備していた苦いチョコレートは、一つも減ることなくそのまま残ってしまった。
いったい何をそんなに忙しくしているのだろうと疑問に思ったが、アリアから話そうとしなかったので、カイルも特に聞かなかった。
それに、カイルだって最近は少し忙しい。なぜなら、カイルは密かに魔法の研究を始めたからだ。
だって、綺麗な顔に傷跡があるままでは可哀想だ。
奪ってしまった彼女の綺麗な顔を返してあげられる、そんな魔法のような魔法が作れるかもしれない。
むしろ作れなくてはならない。
当たり前だ。
だって俺は、誰よりも天才なのだから。
今日は、カイルはアリアが来るのを楽しみに待っていた。
というのも、昨日のうちに、アリアが大事な話があるからと、珍しく会う約束の手紙が届いたのだ。
これまでは約束はせずにアリアが好きな時に来て、カイルがそれに合わせて出迎える形をとっていた。
もう一つ楽しみにしている理由があり、それはカイルがついに、傷跡を消せる魔法の開発に成功したからだ。
きっと喜んでもらえるだろうと思っていた。
しかし、そんな日に限って彼女は定刻に来なかった。
「アリアちゃん遅いね」
当たり前のようにここにいるアイボが言う。
「そうだな」
それは、彼女が突然来なくなったあの日を思い起こさせた。
でももう何も問題はない。カイルが迎えに行けばいいだけなのだ。
前みたいに手紙を出すと断られるかもしれないから、直接行こう。門前払いをされても権力で押し通ればいい。
そういえば、アイボにまるでストーカーみたいだと言われたことを思い出した。
まさか、誰に言われることもなく自分からそんなことをするようになるとは、あの時には夢にも思っていなかった。
「迎えに行こうと思うんだが、一緒に来るか?」
「おお〜。まさか君の口からそんな言葉を聞く日が来るなんてね。少し前まで、できるなら会いたくないと言っていたのにね」
「やっぱりお前は来なくていい」
カイルは茶化すアイボを置いてすたすたと歩き去る。
「待ってよ。冗談だってば」
「俺も冗談だ」
「だから、君の冗談は分かりにくいんだって」
アイボはわかりにくいカイルにため息をついた。
しかし、カイルに起きた喜ばしい変化が嬉しくて、アイボは小鳥の姿でカイルの周りを飛び回ってしまう。
「肩に乗らないのか?」
「飛び回りたい気分なんだ」
「変なやつだな」
「君もね」
「お前よりはましだ」
鳥の姿で飛び回る自分を自覚して、それはそうかもしれない、とアイボは笑った。




