1. 未練
カイルはまた本を持って城から離れた。
昨日と同じ場所にいてはマルクに見つかるので、今日はカイルがよく知る別の場所に来た。
そこは城を囲う壁を背もたれにすることができ、日当たりも良く、心を安らげる絶好の場所といって申し分ないところだった。
その近くに、壁に穴が空いている箇所があり、そこから街まで行けたりもする。
そしてここは、幼い頃に婚約者とよく会っていた場所でもある。
その婚約者はアリア・クラリスといった。
昔はカイルとアリアは仲が良かったのだ。
もうずっと会っていない幼い少女の顔が思い浮かんだ。カイルのアリアに対する記憶は、彼女が幼い頃のまま止まっている。
一緒に遊んで、たくさん話して、振り回されて。
友人になり、親友になり、婚約者になった。
そして、裏切られた。
それから会わなくなり、長い年月を経て、最近ある噂が聞こえてくるようになった。
それは、アリアが『わがまま姫』と呼ばれているというものだ。
噂では、クラリスの財産の使い込みや、使用人の不当解雇、果てには気に入らない人間を処罰しているとのことだ。
他にも色々聞こえてくるが、似たようなものだった。
そんな彼女のことをカイルは残念に思う。
昔は噂ほど愚かな人間ではなかったからだ。それどころか、天才と呼ばれて、遠巻きにされていたカイルの唯一の友人だった。
当時は、「あなたを決して一人にはしない」と言ってくれたものであるが、その約束が果たされることはなかった。
今やカイルには頼れる臣下や、仲の良い友人はおらず、婚約者は疎遠で、兄は死に別れ、両親とも腹の内を見せられない。
カイルは一人ぼっちだった。
「おやおや? 天才のカイル王子が何かお悩みかな?」
話しかけられた声に、懐かしい空気を感じた。
「………誰が天才だ」
「君のことだよ。国一番の天才だと名高いじゃないか」
「周りが勝手に言ってるだけだ」
「そういうのは他人が勝手に評価するものだからね。ああでも、そういう意味では、周りが勝手に言ってるっていう君の言い分はあながち間違いじゃない」
「面倒な奴だな。そんなことを言いに来ただけなら今すぐ帰れ」
「そういうわけにもいかなくてね。ただ、僕は君が心配なんだ。このままじゃ君は間違った方向にいってしまうかもしれない」
「天才が間違うわけないだろ」
「あ、天才って自覚あるんだ」
「お前が言ったんだ」
不愉快な物言いに、もう無視をして眠ってしまおうと目を瞑ったが、張り付くような視線が気になって仕方がない。
「それで、お前は一体何なんだ?」
カイルはさっきから親しげに語りかけてくるものに視線を飛ばした。
それは真っ白い綿毛のような見た目で、カイルの目の前でふわふわと浮かんでいた。
天才と称される彼でも、それの名前を知らない。
「お、やっと聞いてくれたね。普通に会話を続けるものだから、ずっと言及されないかもしれないと思って、焦っていたところだよ」
「そのつもりだったんだが、聞いてほしそうに周りをうろうろされてうっとうしかったからな。苦渋の決断だ」
「そんなに嫌そうにしなくてもいいじゃないか。……コホン、それじゃあ、気を取り直して君の質問に答えようじゃないか。僕は、思考であり、心であり、言葉であり、君の隣人で、人そのものさ」
言いきると、それはみるみるうちに姿を変え、人の容姿となった。
切り揃えられた癖のない金髪のおかっぱ頭に、切れ長の目に、父譲りの色の濃い青い瞳に、薄情そうな薄い唇。
見間違えようのない、自分の姿だった。
周りは美しいともてはやすが、己は決して好きではない容貌である。
鏡を見ているかのように、自分と同じ姿をした人間が目の前にいた。
「親しみを込めて、相棒って呼んでくれると嬉しいな」
「アイボか、わかった」
「いや、相棒だってば」
「それでアイボ、目的はなんだ?」
「………まあいいけど。そうだね、僕の目的は君を導くことだよ。今の君には僕のような存在が必要だと思ってね。君の相談に乗って、導いてくれる存在がね」
「なるほど、俺を見下しているのはわかった。別に導きなんて必要ない。俺は一人でも上手くやれる。心配しなくても、ちゃんと王ってやつをやってやる」
「そこは疑っていないよ。でも、言ったでしょ、僕は『君』が心配だって。だから、短い間になるかもしれないけれど、僕と仲良くしよう。もしかしたら、君が望むものが手に入るかもしれないよ」
自分の姿のアイボが、握手をするように手を差し出してきた。
望むものが手に入る。
それは、思いがけず魅力的な提案だった。
王になるのが確定して、諦めた本当の望み。
王子であるカイルが、誰に明かすことも許されない、胸の中にしまい続けてきた願いは確かにあったのだ。
期待などしていない。本当に一切期待しているわけではないが、アイボの提案は、残り少ない王になるまでの時間の暇つぶしになるのなら、悪くないのかもしれない。
差し出された手を見ながら、孤独で天才な王子はそんな風に思った。
「触れるのか?」
「無理だね。でもこういうのは気持ちだよ気持ち。形から始めるのは意外と効果があるらしい」
「………面倒な奴だな」
「ははっ、君よりはましだよ」
もう一人の自分が、ケラケラと腹を抱えて笑った。
こんな風に笑っている自分の顔など初めて見たが、これほど笑顔の似合わない男はいないだろう、などとカイルは思った。
「それで、まずは何をすればいいんだ? おまえの言う通りに行動してやる。大サービスだ」
今のカイルの言葉をマルクが聞けば、驚きでぶっ倒れていただろう。
あの王子が、ここまで会話することすら珍しいのに、人の言うことを聞くと宣言するなんてどうしたのかと。
「おや? 君は人の言うことなんか聞かないって聞いたけど。何か心境の変化があったのかい?」
「誰だそんなこと言ったのは? 最低な奴だな」
「うーん、まあいいんだけど。じゃあまずは君の両親と顔を合わせてみようか。今日の食卓にお邪魔しよう」
「昨日も同じことをしたのだが、意味あるのか?」
「君が、両親と食事を!? もしかして、関係は良好だったりするのかい?」
「何だその反応は。馬鹿にしているのか?」
「はは、そんな訳ないじゃないか」
「俺も不本意だったが、マルクという側近の策略に嵌った。腹立たしいが、有能な奴は嫌いじゃない。ちなみに関係は全く良好じゃないな。昨日もほとんど会話もなく終わった」
「なるほど。まあ気を取り直して今日もお邪魔しよう」
「そんなことでいいのか? 思っていたよりも普通の要求だな」
「どんなことやらされると思ったのさ?」
「王の首を取り、この国から逃亡しろとかか?」
「どこの大悪党だよ……。そんなことさせるわけないじゃないか」
「冗談だ」
「君の冗談は分かりにくいね。できればそういうところも直していこうか」
「そこは別にいいだろ」
「直さないとモテないよ? あ、でも、君には婚約者がいるんだっけ? 確か、わがまま姫って呼ばれている。もちろん、彼女とも会ってもらうよ」
「何が、いるんだっけ、だ。知っているくせに白々しいな。……あいつに会うことは本当に必要なのか? できるなら会いたくはない」
「もちろん必要だよ。それに、婚約者なんだし、いつかは会って話さないといけないでしょ? それが少し早まっただけだよ」
アイボの言うことはもっともである。いつまでも嫌なことから逃げ続けることはできないのだ。
「………わかった。でも、まずは遠巻きに眺めるだけだ」
噂が本当かどうかくらいは会う前に見ておきたいところではある。
「まるでストーカーみたいだね。彼女が部屋に引きこもっていたらどうするのさ。様子を見ることもできないよ」
「その時は権力で押し入る」
「最低なのは君の方だったね。まあ今までの君を思えば一歩前進かな。……ひとまず明日までの予定は埋まったね。僕はもう行くけど、逃げちゃダメだよ。君の人生はこれからなんだから」
そんなことを言い残して、アイボは消えていった。
他に行くところなんてあるのかと思ったが、カイルが気にすることではないだろう。カイルはすぐに考えることをやめて、目を瞑る。
途中、またマルクがカイルを探している気がしたが、カイルが見つかることはなかった。




