10
ディナータイムの仕事は、昼の混雑に比べたらずっとゆとりがあった。最後の客も閉店時間前に店を出たので、少し早めの片づけと夕食を済ませると、すぐに3人は海渡の言う「スタジオ」に向かう。
部屋からギターを持ち出し2階のリビングを抜け、直接つながるベランダに出る。隅の方に脚立が置かれていた。その脚立を利用して、先に海渡が慣れた足取りで屋根まで登る。基本的に屋根の傾斜はきつくて上がれたものじゃないが、海渡のいる場所は角度がいくらか緩くなっていた。
「ここっす!」
上から覗き込む海渡の声を合図に、次に奏介が続き、最後に彼方が奏介の手を取って登りきった。
予想はしていた。それでも、予想を超えていた。
3人は、四方を星空に囲まれていた。
柏の街で、これほど広く深い星空に出会ったことがあっただろうか。六等星の光すら届いてしまいそうな透き通った夜空。白鳥座。北斗七星。夏の大三角。光の粒子となって無数に漂う星屑をじっと眺めていると、ふわふわと宇宙の真ん中に漂っているような感覚になる。ただ上を見上げているだけなのに、どうしてこんなに涙が出そうになるんだろう。
「昼間の海の眺めもいいっすけど、こっちも最高じゃないっすか?」
ああ、最高だ。
奏介はそう言おうとしたけど、声が出ない。そもそも出せたところで、自分の声はすぐに深すぎる夜の中へと吸い込まれそうな気がした。
だったら。普通のありふれた言葉で表現することができないのならば。
「歌いたい」
奏介よりも先に、彼方が言った。
「私、ここで歌ってみたい」
「ぜひぜひ思う存分歌っちゃってください! オレはその歌を聴きたいっす!」
それから、彼方は奏介と目を合わせる。その瞬間、奏介が見た彼方の瞳は、真上の一等星みたいに輝いていた。
「じゃ、やるか」
そして、海渡と奏介がケースからギターを取り出す。
「それにしても、羨ましいな」
奏介が、準備しながらつぶやいた。
「毎日こんな環境で練習できるなんて、贅沢すぎるだろ」
「そうなんですか? まあ確かにこの場所はオレのお気に入りっすけど……それでも、やっぱりオレは奏介さんや彼方さんみたいに東京で、東京の近くで音楽ができる人達が羨ましいっす」
「東京で音楽することがいいことばっかりじゃないよ、たぶん。俺の地元じゃ屋根の上でギターなんて弾いたら、絶対近所迷惑になるし」
「やっぱり、ないものねだりってことなんすかねー」
「結局のところ、そういうことだろうな」
「うーん、ちなみにそこんとこ彼方さんはどう思います……って、あれ? 彼方さん?」
さっきまで近くにいたはずの彼方がいない。おや、と思って2人が振り返る。すると、彼方は急勾配の屋根も乗り越えて一番高いところに座っていた。
「いつの間に!?」
「彼方さん!? さすがにそこは危ないっすよ!?」
しかし、彼方の耳には届いていないようで、ただじっと、宇宙の中心を見つめている。
「彼方、すっかりここが気に入っちゃったみたいだな……」
「マジっすか。嬉しいけど、まさかこんなに夢中になるなんて思わなかったっす……」
と、海渡が苦笑いを浮かべる。それから、海渡はある提案を出した。
「それじゃあ、明日ちょっと早起きしません? もう1つ、オレがよく使う練習場所があるっす!」
「へえ、遠いの?」
「ちょっと歩くけどそんな遠くはないし、何より一度行ってみると絶対に面白いと思うんすよ。またばっちり案内しますんで、ご心配なく!」
そう言ってチューニングを終えた海渡は、ギターを抱えて自信満々なグーサインをキメた。
「……呼んだ?」
「呼んだけど、だいぶタイムラグあるね……」
「彼方さーん、オレら準備できたんで降りてきてくださーい」
とりあえず彼方に声は聞こえたらしい。これでやっと降りてきてくれそうだ。
と思いきや、彼方は屋根のてっぺんでしばらく考えて。
「私、ここで歌う」
また予想の斜め上なことを言い出した。
「一番宇宙に近いところで歌いたい」
旅を始めてからというもの、自由になった彼方のアグレッシブさに磨きがかかっている。いい傾向なのかもしれないが、さすがにちょっと危なっかしい。
「いやいや、さすがに危険だって。なあ、海渡からも何か言ってやってくれよ」
「彼方さん……超ロックっすね!」
おや?
「それめっちゃいいですよ! アイデアもいいし何よりその心意気が感動もんっす!」
「海渡……わかってる」
さっきの海渡を真似たのか、今度は彼方が頂上でグーサインをキメた。
「くーっ! 彼方さん格好いい! 今日から姐さんって呼ばせてください!」
「うむ、許す」
「あざーっす!」
海渡はびしっと背筋を伸ばして最敬礼。
「ええー……」
かくして彼方と海渡の間にはまさかの師弟関係が結ばれ、2対1の構図ができあがる。おかげで奏介も強く言えなくなった。
「よっしゃーテンション上がってきたー! それじゃあ喜多見海渡、遠野彼方姐さんに捧ぐ歌を歌います! 歌え! 踊れ! 酒持ってこい!」
「俺らはまだ飲めないだろ!」
「酒、飲んでみたい」
「彼方は絶対だめ!」
何だかんだで3人は盛り上がって歌いまくって、乙江の美しい夜が更けていく。
奏介も、彼方も、確かに自由を感じていた。