Chapter-12
タロウがどういう状態でいるのかわからないけれど、ともかく磯崎が行ってまた逃げては元も子もない。
ということで、磯崎は先生のマンションの近くにある公園で待つこととなり、僕はその先を一人で走った。すでにとっぷりと暮れてぽつぽつと灯が灯る中、僕は先生の姿を見つけた。
酷い状態だった。
高槻先生は、まだ二十代半ばで、すらりと背が高い。磯崎みたいに目立つタイプではないけれど、アクのないさりげなく整った顔立ちのかっこいい人である。しかしその人が、今は無様にコンクリートの地面に転がっていた。先生の両足には、タロウのリードが絡まっていた。仰向けで芋虫のように動いている先生に、ちぎれんばかりに尻尾を振るタロウが覆いかぶさり、そのせいで先生はなかなか体を起こせずにいた。ようやく体勢を立て直し座っている状態になったと思ったら、タロウはその巨体で先生に飛びかかった。ひとたまりもなく先生は再び倒れ、タロウに顔中舐めまわされていた。
「あ……沙原くん」
横たわった先生が僕に気づいて片手を上げた。そんな状態でも、しっかりとリードの端を握りしめている。タロウの首元を撫でてやりながら、再び先生はかろうじて起き上がる。タロウの頭を半ば押さえつける感じで撫でながら、へらへらと先生は笑ってみせた。
「だ……大丈夫ですか?」
「うん。まあ……」
先生はよろよろと立ち上がると、リードの輪から足を抜いた。タロウは少し落ち着いてきたようで、ハッハッと息をつきながらも大人しくその場に座っている。しかしその尻尾の振り方といい、たまに先生の顔を見上げる様子といい、タロウから溢れる好き好きエネルギーがどうにも尋常ではない。
「ずいぶん……懐かれてますね」
僕は言った。「犬の好きな餌とか持ってたんですか?」
すると先生は苦笑して答えた。
「いや、なんというか昔から……動物に寄ってこられやすいんだ。こう、通りすがりの野良猫が身体をこすりつけてきたり靴の上に座り込んだり、野良犬が後ろをついてきたりということが子どもの頃からよくあって。言うことを聞いてもらえるわけじゃないんだけど。……ところで磯崎くんは?」
まったくいろんな人がいるものだ。僕は磯崎の体質とタロウが逃げた時の様子を説明した。先生は目を丸くして、「僕と足して二で割れたらいいのに」と言った。先生の髪はくしゃくしゃで、頬は赤くすりむけていた。とりあえず、僕は先生にお礼を言った。磯崎から連絡を受けてとりあえず外に出た先生に向かって、タロウは自分から突進してきたのだという。
何にせよ、よかった。
もしもタロウが事故か何かで傷ついたり、あるいは誰かを傷つけたり、もしくはこのまま行方不明になっていたとしたら、僕たちは悔やんでも悔やみきれなかっただろう。
程なくして、夜のマンション前に、部活を終えた白鳥くんと宮山先輩、そして家から駆けつけた久島さんが集結した。宮山先輩は、僕を見るとぶすっと目をそらした。けれども白鳥くんは、にこやかな顔で会うなり僕に「この前は迷惑かけたみたいで」と言った。宮山先輩が磯崎に探し物の依頼をしたことや、磯崎が罪をかぶったこと、実際はノートを汚してしまったのは宮山先輩だったことを、白鳥くんはすべて知っていた。そうしてなぜか、宮山先輩のやったことを、白鳥くんが僕に謝罪した。いや、謝られるべきは磯崎であって、僕に謝るのもまた違う気がするのだけれど。
僕と白鳥くんが話をしているところから少し離れた場所では、久島さんが泣きながらタロウの首に抱きついていた。高槻先生がどこまで事情を知っているのかはわからない。けれども先生は先生らしく、その傍らで優しい笑みを浮かべていた。
磯崎だけは、この場に来なかった。ちゃんとリードを持っているし、先生や元飼い主の久島さんもいるのだからさすがに大丈夫だと思うと電話で言ったけれど、磯崎は頑としてやめておくと言いはった。なのでタロウをどうするか、という問題は、磯崎抜きで話し合われた。僕は磯崎にせめて会話には加わってもらおうと思い電話しようとしたのだけど、そうする間もなく、結論はあっさりと出た。
明日のお昼の放送で、タロウの飼い主募集をアナウンスしてほしい。新しい飼い主が見つかるまでの間は誰かがタロウを預からないといけないけど……。そう話すと、白鳥くんは言った。
「僕じゃダメ?預かるだけじゃなく、タロウの飼い主になりたいんだけど」
涙で顔をべしょべしょにしている久島さんが、白鳥くんに目を向けた。白鳥くんはにこにこしながら続けた。
「僕が小さい頃からうちにはシェパードがいたんだけど、二年前に死んじゃったんだ。それからは何も飼ってなかったけど、犬小屋もまだ残ってるし。久島さんがタロウに会いたかったら、いつでも来てくれて構わないよ。どう?」
「……いいの?」
「こんな素敵な犬を家族に迎えられるうえに久島さんみたいに素敵なコがうちに遊びに来てくれる特典までつくなんて、そんな役得誰にも渡したくないよ」
さわやかな美声でさらりと言い放った童顔イケメン放送部員に驚愕し、僕と宮山先輩は思わず顔を見合わせてしまった。まさかこんなところで宮山先輩との連帯感が生まれるとは、予想だにしていなかった。こんな台詞、僕には一生言えないだろう。久島さんはわかっているのかいないのか、今は犬のことで頭がいっぱいなのか、「よかったねタロウ……!」とともかく大好きな秋田犬を撫でまわしてまた泣いていた。高槻先生は、わかっているのかいないのか、たぶんこの人のことだからわかっていると思うけど、いつもののほほんとした顔で、平和そうに笑っていた。




