7 生と死のはざま
薄暗い廊下。床の至る箇所に水滴が落ち、埃で汚れた水溜まりを作っている。
リアクター停止から三日が経過し、非常用のガスタービン式エンジンもついに息絶えた。
シェルターからあらゆる電力が喪失。換気の止まった最下層内にはよどんだ空気が充満している。
隔絶された暗闇と、耐え難い湿気の中、ジローは栽培室にいた。
野菜たちは湿気を吸ってほとんどがダメになってしまった。
温室をひとつずつ見て周り、せめて無事な実の種だけ取っておくことにした。
「いままでありがとね」
彼らの声はもう聞こえない。
種を入れた袋の口を締め、日光と生命の輝きを失った栽培室を見回す。
「……じゃあ、もう行くよ。バイバイ」
自室に戻ると、あらかじめ揃えた荷物をリュックサックに詰め込んでいく。
手動発電式ライト、ナイフ、シェルター内構造図……それから机に置かれた数本の“鉄管”をタオルで慎重に包み、鉄製ケースにおさめた。
「……よし」
ケースを閉じて、防護服を着用。最後に積み上がった本の山に目を向ける。
全ては持っていけない。あらかじめ決めていた一冊を手に取る。
『第二地球冒険記』。表紙にかかった埃を払い、リュックの底に押し込んだ。
防護マスクを持って、部屋を出る。
「はっ……ふぅ……」
換気が止まり、空気が薄くなっているせいか、少し歩いただけで息が上がった。
食糧、水、そして空気。リアクターの電力で保たれていた人の生存に必要な要素が、ひとつずつ、確実に消えていく。
おそらくあと数日ですべてが尽きる。その前に、行動を起こす。
廊下の片隅に中途半端に潰れた通信機が落ちていた。「……」それを拾って、アキラの部屋の前までくる。
扉の所に置いた食事に手をつけた様子はない。
ドアノブに手をかけてふと思いとどまる。一旦荷物を下ろしてから、ノックした。
「アキラ、起きてる?」
扉の向こうから、掠れた息遣いが聞こえた。
「あのさ」
ジローはなけなしの唾液で喉をうるおし、
「地上に出よう」
そう言うとまた、息遣いが聞こえた。気が抜けるような乾いた音。
「大丈夫。作戦は考えてある。体力がなくなる前に出発しよう。それが、僕たちが生き残る唯一の道だ」
「…………」
「……聞いてる?」
返事はない。ジローはグローブの中で手汗を握った。
「そりゃ、外が安全な保証もないけどさ……でも、何もしないよりマシでしょ。
地上に行けば少なくとも選択肢は広がる。ほかの生き残りを、父さんを探すことだってできるよ。だからさ」
「…………そう」
扉の向こうから帰ってきたのは、心底無関心そうな声だった。
カチリ、
と小さな金属音がして、ジローは眉をひそめた。
「……なにしてんの?」
足元に置いた荷物に視線を移す。そういえばひとつだけ、足りないものがある。
「……とりあえず出てきてよ。開けるからね」
扉を押すと、何かに引っかかって止まった。
ライトで照らすと塞ぐように置かれたベッドが見えた。
「なんだこれ……」
散らかった部屋の真ん中で、椅子に座るアキラの背中がある。
その手には無骨な猟銃があった。
「アキラ?」
彼女はこちらに背を向けたまま、床に立てた銃の上に、あごを乗せている。
「なにやってんだよ……?」
呼びかけても反応はない。
「アキラ? ちょっと、開けてよっ」
ジローは体をぶつけるように扉を押した。だが彼の力ではビクともしない。
「アキラ、何してんだよやめろって! アキラ――――――」
弟の声を遠くに聞きながら、彼女は深いため息をついていた。
「…………はぁ……」
そこには苛立ちも倦怠感もない。ただ安堵のため息だった。
これは諦めではない。最後の非常電源が切れるまでも待った。
正真正銘。もはや自分の意思とは関係なく、状況的に、さすがに、これ以上はどうしようもない所まで来たのだ。
この日を待っていた。
本当に、やっとだった。
「…………グロいから見ない方がいいわよ」
この銃なら痛みを感じる間もなく一瞬で死ねる。
「死体はそのままにしといて」
覚悟を決めて、弟に背を向けたまま伝える。
「なんだよそれっ! ふざけんな……クソっ……!」
ジローはまだ扉を開けようと試行錯誤している。こんな状況でも、しつこく、諦めることなく。
「……なんで……あんたはさ」
ふと、ずっと抱えていた純粋な疑問が浮かび上がってきた。
「なんでそんなに生きたいの」
扉の外で、ジローが動きを止める気配がする。
「なんでそんなに、外に出たいのよ。人が……生きてけるような環境じゃないって……あんただって、わかってるでしょ。
誰もいない世界でそんなに頑張って、なんの意味があるの」
「……は……?」
ジローが困惑した声を発する。
その本当に理解できていない雰囲気に、苛立ちが湧き上がる。
「いや……だから……生存者がいるかは出てみないとわからないよ。ここにいたら確実に死ぬけど、外にはまだ可能性が……」
「だからその、“可能性”とかいう言葉を平気で口にできる感覚が、理解できないって言ってんの。
なんでそんな期待ができるの。そんな心の余裕が、まだあるのよ」
こっちだって理解できない。
物心ついた時からずっと、あんたは得体が知れなかった。
「……なんでって……言われても………」
ジローは唸って、黙りこくってしまった。
人生で一番長く近くにいた。一番心の通じ合えなかった人間。
たぶん自分とは根本的な感覚がズレている。
この状況で、もはや異獣よりもよっぽど畏怖の対象に感じる弟の返答を、アキラは静かに待った。
この返答だけは最期に聞いておきたいと思えた。
「……この世界のこと……」
ほどなく、彼は迷いない声音で答えた。
「何も知らずに死ぬなんて、ありえない。
本当の世界はもっとずっと広いのに、こんな狭い所で一生終えるなんて、そんなの。もったいなさすぎる」
弟の大きな瞳が脳裏に浮かぶ。その奥に宿された強い光。
「僕たちは、まだこの世界のこと何も知らない。何も知らないってことは、死んでるのと同じだ。
僕は本当の世界で、本当の意味で、生きてみたいんだ」
どんな状況に置かれても変わらない、絶対的な原動力。
自分はついぞ見つけられなかったそれを、弟の言葉からひしひしと感じる。
「でも僕ひとりじゃ出られない。だからさ」
「……そう」
だからやっぱり、分かり合えないのだ。
「悪いけど、私には無理」
決別を確信して、少し穏やかになれた態度で、告げる。
「あんたなら一人でも出られるわよ。この前のダクトでも、なんでも使えばさ」
「っ――」
「私と違って賢いんだから」
断続的に放たれる、言い訳のような言葉に、ジローが息を飲む気配がした。
その反応に躊躇を覚えるより先に、アキラはぎゅっと目を瞑り、歯を食いしばって。
引き金をひいた。
――と、同時に背後で凄まじい爆発音がした。
「うッ――!?」
何か重い物が背中にぶつかって来た。突き飛ばされ、顎先を外れたスラグ弾がかすめて天井に突き刺さる。
「ぐ……ッ……なに……?」
床に手を付き、甲高い耳鳴りを聴きながら、嗅ぎ覚えのある刺激臭を感じた。
「……まさか」自分にぶつかってきた物を見る。それは扉を塞いでいたはずのベッドだった。
ひしゃげた扉が、縁からまばらな炎を立てながら、ゆっくり倒れる。
立ち上る黒煙の中からジローが現れ、飛びかかってきた。
「あああ!!」
「ぐっ!?」
必死な形相でアキラの銃を掴み、もぎ取ろうとしてくる。
「ぐ……う……う……!!」
引っ張り合い、揉み合い、足をからませ、二人とも床に転がった。
「この……離せ……っ!」
「イヤだ!!」
何故か引き剥がせない。火事場の馬鹿力か、あの非力な弟とは思えない力強さだった。
「離せよっ!!」
あまりのしつこさに咄嗟に本気で蹴り飛ばしていた。
「ぐえっ!」
尻もちを着くジロー。その拍子に彼の持っていた杖が、バキリと音を立て、折れる。
一瞬ジローの表情が大きく歪む。だがすぐにまたこちらを睨みつけ、立ち上がろうとしてくる。
「ッ……はぁっ……いい加減に……して……」
アキラは息を切らし吐き捨てた。
「無理だって……言ってんでしょ。何言われても、もう、べつに気ぃ変わんないから」
ここまで執念深く手段を選ばないとは。
もはや、こちらも最後の手段を取るしかない。
「出てって」
アキラは覚悟を決めた。
「でなきゃ、撃つ」
向けられた銃口を見たジローは動きを止めた。わずかに目を見開いたが、しかしそれだけだった。
口を噤み、ただ拗ねたような目で、まっすぐ姉を見上げて。
「……いいよ」
その瞬間、アキラの中でなにかが切れた。
「いい――ッ――わけないでしょうが!! なんなのあんた、地上に出たいんじゃないの!?」
フィンガーレバーを操作する。ジャキ、と金属音が鳴り、薬室に弾が装填される。
「そりゃ出たいよっ……!」
「だったら出ろよ!! さっさと出てけよこのっバカ!!」
「うるっ……さいバカ!! それじゃ意味ねえんだよっ!!!」
ジローは拳を握りしめ、ムキになって叫び返してくる。
「――あっそう――ッ!」
アキラは激情のままその眉間に照準を合わせた。
だが、引き金に指をかけて、ぎょっとした。
「ひとりじゃ地上に出たくなんかないっ……ひとりになるくらいなら…………死んだ方がマシだ」
照準越しに見た弟の両目からは大粒の涙が溢れていた。
「……は……?」
驚くと同時に、困惑した。引き金をひこうとした指が、自分の意思とは無関係に硬直する。
「……なんなの……」
心臓が握りつぶされるような鈍痛がする。意味がわからなかった。
なぜ、弟ごときに。
何が違う?
異獣を殺す時と同じだ。もう生きていても仕方の無い命を、終わらせるだけの引き金だ。
なぜ引けない?
コイツが弟だから?
弟だったら、なんなんだ??
小さい頃からべつに好きじゃなかった。
仲良くない。喧嘩はしないけど進んで話すこともない。
お互いに特に興味がない。
いてもいなくても変わらない。
「うッ……ク……」
そんな存在、だったのに――。
「……クソ…………」
わからない。自分の感情……行動の原理が。
いま何をすべきか、これから何をしたいのか、もう何も、わからない。
『――なんで! なんで母さん置いてくんだよ!』
その時、よみがえったのは、最後に弟の涙を見た日の記憶だった。
アキラはわらにもすがる思いでそこに回答を求めた。
そうだ、あの日――。
母を置いて最下層へのエレベーターが動き出した後、黙って立ち尽くすアキラに、ジローは何度もたずねた。
『なんで!!』
当然、なだめる気力などなかった。
扉が開くと、無言のまま手を引っ張って外に出た。
たどり着いた最下層は暗く閉鎖的な場所。異獣はいなかったが、ひたすら通路と同じ形の扉が続く空間で、歩いているだけで気が狂いそうになる。
こんな所で、これからたった二人だけで、生きていかなくてはならない。
そう思うと胸の内が黒く塗りつぶされていくようだった。
『お母さん…………っ』
ジローは部屋に閉じこもってまだ泣いていた。
いずれ出てくるだろうと思っていたが、二日経っても、水も食事も取ろうとしないので、さすがに扉をノックした。
慰める気力はなかったので、『いつまですねてるの』とか『さっさと働け』とか、そんな言葉をかけた気がする。
弟が余計に怒ることになっても、まあいいだろうという思いだった。
自分を糾弾して、散々なじって、それで憂さ晴らしでもすればいいと思っていた。
そう思うくらいにはアキラも自暴自棄になっていた。
だが、いざ声をかけると、意外にもすんなりと扉は開いた。
弟が出てきた。
大きな瞳をパンパンに泣き腫らして。
口を結んだまま何かを押しとどめた顔で、こちらを見上げて。
それから――。
「……あぁ……」
その時、全てが腑に落ちた。
「…………わかった……わかったよ」
それからアキラは銃を手放し、ジローを抱きしめていた。
「ごめん」
「うぁあ……うえぇええ」
首筋に顔を押し付けて、せきを切ったように泣きじゃくる。
弟の身体はあの頃より少し大きくなっていた。
でもやっぱり、弱々しくて、頼りなくて、
そして温かかった。
奇妙な感覚だった。置かれた状況はなにも変わらないのに、死ぬ気は失せてしまっていた。
たったこれだけのことで気が変わるなんて、我ながら意味不明だ。
でも、たぶん、どうしようもないことなのだ。
『お願いだから約束して』
それは母が最後の瞬間まで、私たちの母親だったように。
『これから先どんなことがあっても……』
私も、どこまで行っても、コイツの姉なのだ。
「……生きるよ」
アキラは弟の背中を何度もさすり、固く強く、抱きしめ続けた。
やっと見つけた自分の光を、もう二度と離さないように。
「いっ――――――たたたたたいいたいっ! ちょっ、背骨折れるってっ!!」
「ゴメン」
こうして冒険の準備は終わった。




