1 地の底の姉弟
「ひゅう~~……」
か細い不協和音だけが鼓膜を支配している。
「こひゅぅ……」
視界はというと、無数の黒い影で埋め尽くされていた。
次々に手を伸ばし、 引き裂き、噛みちぎる。
天井の隙間から伸ばされた白く細い腕が、ほどなくだらんと垂れ下がった。
「ひゅう……」
アキラはその光景を昇降機の床で眺めていた。
「……ひゅう~~……ッ」
もう一度、ありったけの息を吸い、腹に力を込める。
が、やはり起き上がれない。
目だけで見下ろすと、防護服の至る所に穴が空いていた。
右腕が、持っていた猟銃ごとない。両足は歪な方向に折れ曲がっている。
腹に空いた大穴から垂れ出た腸を、数匹の“奴ら”がむさぼっているのが見えた。
「……ひゅ」
アキラは血溜まりに脱力し、後悔した。
やっぱり外に出ようなんて思うんじゃなかった。
あの地の底で大人しく自殺しておけばよかった。
そうすれば……
もう一度見上げた、弟の手には、まだあの杖が握られて、
先端の石は淡く光を灯していた。
「ひゅ……」
……そうすれば、こんな光景も見ずに済んだのに。
意識が途切れる間際アキラはそう思った。
※《三日前》
薄暗い廊下では、常にどこからか水滴の垂れる音がする。
低い天井の電灯がちかちかと点滅し、空気をただよう、無数の埃を照らし出す。
無機質な鉛色の壁には、同じ大きさ形の扉が並んでいる。
等間隔にどこまでも。
「は……ばっくしょい!!」
その廊下を、一人の少年が歩いていた。
くりっという擬音よりは、ギョロっと言った方がいいレベルで、大きく、丸い瞳。
短いくせっ毛、小柄で細っこい体。
杖をつき、片足を少し引きずっている。
「ふぁ……ホコリアレルギーが……。 アキラー? まだ寝てんのー?」
彼はある扉の前で立ち止まると、声をかけながら開けた。
「はっ、ちょっとっ……!」
狭い室内の片隅で、少女が振り向く。
すらりと高い背丈、ボーイッシュな直毛のショートヘア……。
「……おい、ジロー。ノックは」
そして猫のような鋭い切れ長の目で、キッとこちらを睨む少女は、いま、肌着姿だった。
「え? あァそっかごめん」
少年、ジローは特に慌てることなく扉を閉めた。
「何ッ回言わせんの? つぎ勝手に開けたらマジで殺すから」「ゴメンって~忘れてたんだってば」「じゃあ何回忘れるのよ。あんた覗きたくてわざとやってんじゃないでしょうね」「そんなわけないじゃん。キモチワルイ」「はあ??」
少女、アキラはロッカーから防護服を引っ張り出し怒鳴る。
ごわついた有鉛繊維の袖に、しなやかな筋肉がついた肢体を通していく。
「誰が気持ち悪い体つきよ……」「言ってないよそんなこと」
慣れた手つきで前のジッパーを引き上げると、各部の密閉を確認する。
防護マスクを手に自室を出た。
「この前の狩りで壊れてたとこは補強したよ。これでまた撃てると思う」
ジローの作業部屋にはすでに修理された猟銃があった。
古いレバーアクション式散弾銃。ジャンクパーツで幾度となく補修され、その原型はほぼ留められていない。
強度を上げるため各部が無骨な鉄板に覆われており、
“銃”というより“鉄塊”とでも呼ぶべき外観だった。
「……ん」
が、アキラはその巨銃を難なく片手で持ち上げ、負い紐に肩を通した。
「銃はもうこれしかないんだから。次はあんな使い方しないでよ」「わかってるわよ。弾は?」「あと38発」
ジローから貰った弾薬、その他荷物をすべてリュックサックに詰め込み、アキラは廊下の最奥にやってきた。
そこは半円状のやや広けた空間だった。
中央にひとつだけ、廊下に並ぶそれらとは明らかに違う、厳重な鉄扉がたたずむ。
ハンドルを回すとプシッという音で密閉が解放された。
中は簡素な小部屋である。
物は何も無く、天井にのみ放水口が数列並んでいる。
《除染室》と呼ばれる空間に足を踏み入れたアキラは、「いいわよ」と背後に声かけた。
「閉めて……ジロー?」
なぜか、返事はない。
「……なにしてんの」
見ると弟は、防護服を着かけた体勢で立っていた。
「今日は僕も手伝う! 大丈夫、もう子どもじゃないんだ」
軽い調子で言いながら、ブカブカの袖に細い腕を通す。
アキラはポカンと空けた口から、短いため息をついた。
「あんたはガキでしょ」
「そんなことない、もう12だよ」
なぜか自信満々に腰に手を当てるジロー。
「歳の話してんじゃないわよ。あんたは、“外”のことなんて何にも知らないでしょっつってんの」
「そりゃあ……出たことないんだから当たり前じゃん。だからこそ今日から知っていきたいんだよ。少しずつ!」
大きな瞳が訴えかけてくる。アキラが狩りに行くたび何度断ろうと、性懲りも無く……。
「……」
瞳の奥に宿される、明るい光を直視してしまったアキラは、反射的に上を向いた。
「とにかく……その足じゃ無理」
頑なに固めた声で返すと、「ムゥ……」ジローは押し黙る。
片足を一歩後ろに下げて、また前に戻す。という動作を数回して、アキラが口を開きかけた瞬間、
ようやく渋々後ずさった。
「じゃあ……死なないでよ」
苦悶に歪む顔で弟は手を差し出してきた。「……ん」アキラも手を伸ばし、軽くハイタッチをする。
出勤前いつもの挨拶を終えると、
鉄扉は閉鎖され、除染室は静寂に包まれた。
「……すぅ……」
何も無い空間の中心に立ったアキラは、大きく深呼吸した。
「……ふぅ…………」
おもむろに防護マスクを被る。
壁の一箇所にポツンと設けられたスイッチを押す。
すると、くぐもったブザーが鳴り響き、入ってきた内扉とは反対側の外扉が開いた。
その向こうには、完全な闇があった。
文字通り一切光のない世界。
シンと冷えた空気とともに、低いうなりのような音が、室内に流れ込んでくる。
アキラはもう一度、深呼吸して、手元のライトを点けた。
その薄い光で暗闇をかき分けるように、扉の外へと踏み出していった。




