04
渋々男は、新たにできた商店に入ると、その中に陳辣されている、和紙に包まれたあんぱんを一つ手に取った。アンパンの上には、桜の塩漬けが乗せられている。男はそれが嫌いだった。
男は誰一人として人間の居ないレジに、百円玉をたたきつけ、道を出た。
和紙を破り、あんぱんを口に含む。桜の塩漬けのわずかな塩気と、餡の甘味が男の口の中に、じわり、と広がった。
男は、桜の塩漬けの味に対して顔をしかめると、まるで狂人の様に、世捨て人の様に、近所を徘徊し始めた。食いかけのアンパンを片手に。
何か、面白いものはないか。空虚で、虚脱な自分の心を満たしてくれるような、そんな面妖なものはないだろうか。そんなことを考えつつ歩き、不意に、男は足を止める。
おそらく、自分が、あの女学校へ、無意識に足を向けている、ということに気づいたのであろう。
男はあんぱんをもう一口口に含むと、踵を返した。あの少女のことを考えれば考えるほど、恐怖が背中を這う。恐怖と、狂気とかがいっぺんに押し寄せて、胸が苦しくなる。
はぁ、と男は嘆息を吐いた。だというのに、自分はあの少女の笑顔に、何処かひかれている。あの笑顔を、どうか、どうかもう一度、自分に向けてほしい、と思っている。
突如、男の脳裏に、一筋の光が差した。そうだ。汽車にのって、何処かへ行こう。行先は何処でもいい。こんな田舎町ではなく、都会の――江戸に行けば、少しは気分も晴れるかもしれない。
男は軽い足取りで、駅へと向かった。駅は、男を除いて数人の中年女性と、二人の少女のみしか居なかった。
切符を、男は鉄道屋から買い、二番ホームに向かった。そこには、二人の少女が、仲睦まじい様子で何か話していた。
男はじっ、と目を凝らし、その少女たちの容姿を見つめた。そして、音もなく眉を潜め、顔をしかめた。
なぜなら、その少女ら。一人は、男とさほど変わらぬ用紙を持つ醜女。もう一人は――あの、少女だったのだ。
男の胸はどきり、と痛んだ。いくら、狭い田舎町だからといって、こんなに頻繁に、会えるものなのだろうか。
愕然として少女のことを見つめる男。
ふと、もう一人の少女がこちらを振り向いた。男の容姿を見ると、男と全く同じ動作で、眉を顰め、顔をしかめた。そして、前を向くと、少女に、そっと何かを耳打ちした。
途端、今まで笑顔だった少女の表情が一変した。男のことをちらり、と横目で見て、不快気に表情をゆがめ、醜い少女に引き摺られる様にして、その場から去っていった。
――正直言って、男は意味が解らなかった。なぜ、危害を加えたわけでも、声をかけたわけでもない自分が、なぜ彼女らに疎外され、忌み嫌われなければならない?
男は理不尽さを感じながら、汽車が来るのを待った。備え付けのベンチに腰掛ける。
その途端、強烈な眠気が眠気が男の体を包んだ。まるで、ふかふかのベッティングに寝転がった様な心地よさを感じつつ、男の意識は、ゆっくりと深い深い、夢の中へと沈み込んでいった。
そしてまた、男は《《あの》》少女と対峙していた。
少女、というよりかは天使に近いそれは、何か血みどろの物体を片手に持ち、男のほうを見ながら、嫌な笑みを浮かべている。
不思議と、男の心に恐怖、というような感情はみじんもなかった。おそらく、これは自らの夢であり、夢ならば自分自身で操ることも可能だ、とでも気が付いたのであろう。
男は得意げに息を漏らすと、何も言わず、ただにこにこと、麗しい顔をゆがめる天使に、声を出した。
「――おい」
それから間髪入れずに、男の目の前の地面に、何かが叩き付けられる。
それは、少女がさっきまで握っていた《《もの》》であった。
男はまじまじとその物体を見て、その物体の正体を視認した。そして、その正体に、絶句した。
それは、人間だったのである――いや、正確には《《人間だったもの》》という表現が正しいだろう。何故なら、男の目の前にたたきつけられたそれ、には、四肢と呼べる様なものが何一つとして無かったのだ。腕、足のあるはずの部位には、代わりに木の枝が突き刺されている。そして、顔がなかった。顔面部は石か何かで殴られたのかのような打撃痕が幾つもつき、それが何者なのか、判別するのはほぼ不可能な状態だった、といっても過言ではないだろう。
男は猛烈な吐き気を催した。狂っている。あの天使は、狂っている。男が、目の前のそれに、自らの嘔吐物を吐きかけてしまいそうになったその途端、男の目の前にある『それ』が、もぞもぞと動き出した。まるで、芋虫のような動きで。
――意識が、あるのか。男は、全身の血の気が引いていくような錯覚を、した。
目の前にあるそれは、顔をつぶされ、四肢を削られても尚、生きている。男は不意に、かつて読んだ小説の『芋虫』を思い起こした。
手足を失い、耳、声帯を失い、それでもなお生きている軍人。まさか、まさか、まさか――これも、それと同じだというのか。
男は困惑して、目の前にあるそれ、とそれを作り出したのであろう天使を、二度、三度、見比べた。そして、その最中で、その天使が、手に岩のような何かを持っている、ということに気が付いた。
男は――その次、その天使が一体全体何をするのか察していた。しかし、止めよう、という気は些か起こらなかった。
腰が抜け、まともに身動きがとれなかった、というのもあるだろう。しかし、男は、目の前に在る、手足もなく、顔もないこのもの、を不気味がっていた、というのが主な動機だった。
目の前に在るそれは人、とはもはや名称し難い。手足もなく、顔もなく、ただもぞもぞと動くことしかできないこれは、最早ただの芋虫ではないのか。では、それを手に持っている石でつぶしたとて、この天使を咎めることはできないのではないだろうか。そして、この天使の行いを留めなかったからと言って、男が地獄送りにされるようなことは、ないのではないか。
そう考えて、男はその場から動かなかった。表面上は、恐怖で動けない、哀れで憐れな男を装って。 少女は石を片手に、その『物』にじりじりと近づく。そして、もぞもぞ、もぞもぞ、とやかましく動くそれの額を、岩の淵で撫でると――それを振り上げ、振り下ろした。ゴン、という鈍い音が、あたり一帯に響く。
一撃目で、『物』は致命傷だったらしく、殴られた部分から血を流し、痙攣していた。が、やはり、あの老人の時然り、天使は攻撃の手を休めることはなかった。何度も、何度も痙攣するそれに、石を振り下ろす。無表情に。
――やがて、『物』の動きが完全に止まった。天使は玩具に興味をなくした子供のように、石を『物』の上に落とすと、男のほうを向いた。
一歩、二歩、三歩、じりじりと近づき、男の頬をそっと――その白魚の如き指で、そっと、かつ優しく――撫でた。
そして、男に柔らかい、聖母のような笑みを浮かべると、男に、とある言葉を耳打ちした。その言葉の意味を理解するとき、男はもう、目を覚ましていた。