03
――まるで夢のような光景だった。いや、夢の中なのに夢の様だ、というのも些か可笑しいのだろうが、物を知らない男にとって、目の前に広がるこの光景は、『夢のよう』としか形容のしようが無かったのだ。
少女が、居た。いや、ただの少女ではない。背中に翼を生やし、頭に金色のリングを掲げ、美しいその裸体を晒し、天使のような風体の少女が、男の目の前に居た。
少女は男ににっこりと、まるで毛布の様に柔らかい笑みを浮かべると、踵を返し、男の正面に立ちはだかる、大きな十字架に目を反らした。
其処には、血塗れの何かが磔にされていた。じっ、と男は目を凝らす。そして、その正体を視認した。いや――して、しまった。それは、男のことを渡し舟に乗せることを拒否した、あの老人だった。
男の腰は、自然と抜けた。男は足をがたがたと震えさせ、息を切らす。
少女は――男には正確に視認出来たわけではないが、僅かに笑っている様に見えた。少女は指を前につきだした。ピコーン、という電子音がして、その指から、刃物――包丁が、出てくる。
それを手に、少女はぐったりとしている老人の腹を勢いよく、突き刺した。その勢いから、老人が一撃で死んだ、というのは明白であった。だが、少女は攻撃の手を休めることを知らない、という様に、二刺し、三刺し、と、老人の身体に包丁を突き刺していく。
一方男は、恐怖で体がすっかり固まってしまい、少女を止めるでも、老人を助けるでもなく、ただその場で、その光景をぼんやりと見つめることしか、出来なかった。
少女は、もう老人に息がない、ということを突如確かめると、老人の身体を指で、上から下になぞった。
その瞬間、老人を吊し上げにしていた十字架が、凄まじい程の轟音を立てて、地面に埋まっていく。
些か非科学的な光景だったが、男はようやくそこで、これは、自らが見出している夢である、ということを思いついた。
だとしたら、醒めることは確実だ。醒めろ、醒めろ、醒めろ――。男は、何度もそう口内で唱えた。が、しかし。夢は一向に醒める兆しがない。
少女は土から頭が若干はみ出ている老人の遺体を放置して、男の方へ踵を返した。
目を細め、にんまりと、何処か不気味、かつ美しい笑みを浮かべながら、少女は徐々に男の元へ近付いて来る。
男は泣き出しそうだった。尿が漏れた。首を振った。しかし、少女は嫌悪感を微塵もあらわにせず、だんだんと近付いて来る。
そして、男の頬を、手で撫でた。
夢は、それで終わっていた。
男は、自分の背中を吹き抜ける風を感じつつ、布団を見た。
――その日、男は十年ぶりに寝小便をする羽目になった。
男はそしてその日、一日をただ何もせず、無為に過ごした。とても何かするような気分にはなれなかったし、何かするような気力もなかった。
男はただ、天井の染を数える。そんな作業に没頭していた。
唐突に、玄関から、ごとん、という鈍い音が響いてくる。――ああ、新聞か。男はいったん作業を中断すると、重い腰を持ち上げ、玄関の郵便受けに、乱雑、かつ乱暴に投げ込まれたのであろう新聞を手にした。一番初めの頁には、大々的に、近頃巷で流行っている、という映画スターが死去した、という下らないような記事が書かれている。
男は新聞を開くと、その記事にざっ、と目を通した。
そして、ある一つの記事で目を留めた。
「老人の変死体 滅多刺し、怨恨か?」
其処には、《《あの》》老人の顔写真と、遺体と、遺体が発見された際の写真が載せられている。それは奇しくも、夢の中で出て来たあの老人と、とても似寄っていた。
腹につけられている幾つもの刺し傷、ぐったりと首を垂れる老人、土から若干はみ出る頭。すべてが、全てが一致していた。
男は駆け足で卓袱台へと向かうと、その上にあるであろう包丁を、カッターナイフの代わりに使って、その新聞記事を切り抜こうとした。だが、包丁は何故かそこにはない。
うんざりとしつつ男は、筆立てからもう赤錆びて血の如き色合いになっているカッターナイフで、その記事を切り抜いた。
机の下に、まるで仕掛けられたかのように堕ちている画鋲を拾い上げ、壁に貼り付けた。特にこれと言って意味のある行動ではない。ただ、もしかしたらあの老人が死んだ事件に、自分が関わっているのかもしれない、そんな、自己保身故の行動だった。
男はまじまじ、とその記事を眺めた。何度見ても、老人の遺体は変化しない。
突如、グー、というくぐもった音が、辺りに響いた。それは、男の腹の音だった。
それを聞いて、男ははっ、とする。
そういえば、起床してから三時間。自分は、一切合切物を飲み食いしてないではないか。男は立ち上がると、自分の身なりを確認した。
マリリンモンロー、とかいう女優の書かれたTシャツに、古びたズボン。これなら、外に出ても恥ずかしくは無いだろう。
男は外に出ると、もう五月だというのに、寒い、ここら一体の気温を恨んだ。風がぴゅうと、男の肩を撫でる。




