③ 大きな木の下で
その日の放課後、いつものように樹の下へと向かうと、やはり佐山さんが僕を待っていた。彼女は掌を振って僕を促して、手作りらしきお菓子を差し出してきた。
「佐山さん、今日も早いね。部活はなかったの?」
「うん、副部長に任せて、抜け出してきちゃった」
彼女はそう言って小さく舌を出して笑う。
「それより……時田君の妹さんすごく可愛いわね。お兄ちゃんっ子なんだね!」
僕は危うく佐山さんが焼いたクッキーを喉に詰まらせかけた。
「なんであいつが妹だって知ってるの?」
すると佐山さんは、少しだけ視線を伏せて、友達に聞いたのよ、と笑った。
「仲の良い妹さんがいると聞いて、いい目の保養になったわ。素晴らしい、お兄さんしてるわね」
彼女はそんなことを言って悪戯っぽく微笑み、自分もクッキーを一つ口に運んだ。
「あいつは五月蠅いだけで可愛くなんてないよ。佐山さんが妹だったら、もっと可愛がっていただろうけど」
「わ、私が妹だったら? そうしたら、すごくお兄ちゃんっ子になっていただろうなあ……」
佐山さんははにかんだようにそう笑って、顔を丘の先、ずっと空の向こうへと向けて口元を緩めた。
「こうしてこっそり会ってると、何だか親友ができたみたいで嬉しいんだ。佐山さんのこともいっぱいわかったし……そういえばその後、どうなったの?」
僕が文庫本を取り出してそう問いかけると、佐山さんがぶっとクッキーを噴き出した。
「ど、どうしたの?」
「いや、別に進展はないんだけど……なかなか勇気出せなくて、いつも遠目に見てるだけで……」
彼女はそう言って少し赤くなった顔を俯かせた。僕は彼女のその横顔を見ながら、少しだけその相手に嫉妬してしまう。彼女がこんなにも想っているんだから、少しは気付いてやればいいものを……そいつはすごく鈍感なんだな、と思う。
彼女はふと僕へと視線を向けて、じっとその瞳を覗き込んできた。そしてふっと笑い、小さく首を振った。
「今はただ、彼を想い続けている自分がすごく好きだから。このままでもいいかなって……」
「そう、なんだ。僕もできる限り応援するから。何か相談に乗ったり手伝って欲しいことがあったら、なんでも言ってね。なんかそいつが羨ましいな、ホント」
思わずそんなことを言ってしまうと、彼女は耳を赤くして俯いてしまった。
「うん、今のままでも本当に支えてもらってるから……」
「そう、それは良かった。これからもたまにこの樹の下に来てさ、一緒に話したりできたらいいな。佐山さんとは色々と話したいことがあってさ」
佐山さんは口元を綻ばせて、うなずく。
「うん……卒業まで、こうやって話せたらいいね」
「この樹がある限り、僕らはずっと友達のままだよ。同志なんだから」
彼女は頭を幹へとぴったり付けて、この樹が、とつぶやいた。
「この樹が、色々な幸せを運んでくれるのよ、きっと」
「彼はたぶん、それだけのエネルギーを持ってるんだよ」
「彼? 彼女じゃなくて? この樹は女の子だよ」
「いやいや、こいつは男だよ。僕が持ってきた写真集に、鼻の下伸ばしてたもん」
馬鹿、と佐山さんは引き攣った笑みで僕の後頭部を叩いた。でも、その手つきは優しくて、僕は殴られてもがっかりしなかった。
「本当に、ほのぼのとしてるな、ここは」
僕はそうつぶやき、頭上の大きな自然の傘を振り仰いで、微笑み、そして大きく息を吐いた。
僕はこうした日々が、ずっと――少なくとも、あと一年は続いていくものだと思っていた。当然そのはずだろう。でも、そんな期待は僕らの独りよがりな願望でしかなかったのだ。彼……彼女は少しずつ、その来る時までに、最後の生の実感を噛み締めて、その場所に佇んでいたのだ。
僕らは結局それに気付かず、彼の最後の囁きに耳を傾けることもせずにその日を迎えてしまった。もう僕らにできることは何もなかった。あるのはただ、彼の変わり果てた姿を見て慟哭し、頭を掻き毟り、地面に蹲ることだけだった。
それでも、彼はきっと僕らを見下ろして微笑んでいることだろう。それが彼の唯一の務めだというように……。




