21.クリスタル・パレス
21.クリスタル・パレス
最後にはなんとなく褒められて終わった、毒舌伯爵と悪役メイドの対面。
(それにしても……だめだめだな、セアラ様)
どうやらわりとだめな部類に入るらしいゲーム主人公。出世もできていないし、私が動かなかったら陰謀も阻止できてないかもしれない。私だってここまでひどい結果で終わったことはないんだけど。
そして、最も肝心なところ。このままじゃ、悪役メイドの正体は暴露されない。すると当然、主人公は元の伯爵令嬢には戻れない。それでもいいのだろうか、セアラ様は。わかってるのかなあ。
「――セアラ? 着いたみたいだ」
「あ、はい。降りますわ」
ぼうっとしてちゃだめだ。“セアラ”は私なんだから、今は。
薄暗い馬車から出ると、明るい夏の日差しが目を刺した。一瞬くらりとなるけれど、エスコートだけはきちんとしてくれる優しい夫が手をさしのべていた。私はありがたく、先に馬車を降りていたアーサーの手を借りる。
「うわあ……」
「どうかしたのか?」
「楽しみにしていたから。ずっと行ってみたかったの、水晶宮」
今日、私たちがやって来たのは、私がずっと行ってみたかった水晶宮だ。
しかも、何かの行事に出席するとか、誰かと会う用事があるとかではなく、私の希望による純粋なお出かけ。行楽。それにもしかしたら――。
(デート。なんちゃって)
仮面夫婦で(アーサーからすれば)兄妹でデート。そんなのないかもしれないけど。でも。
「そんなに来たがっていたとは知らなかった……というかここのこと自体知らなかったな」
「知らないの!?」
英国の公爵のくせにここのことを知らないアーサーには呆れたが。
「じゃあ私と来るのが初めてね。私もだからおあいこだけど。そうだ、二人でどこかへ行くのも初めてなんだから。社交の集まりじゃない場所へはね」
「うん……初めてで最後か。あ、いや、ごめん」
気まずそうに目をそらされる。
セアラ様の行方を確認し、彼女が戻るつもりがなさそうだとわかった後。
私はアーサーと話し合い、そして二人で決断した。
離婚する、と。
アーサーはそのために、まずはしばらく別居をしようと提案した。彼としてはすぐにでもそうしたいらしい。
『不仲だってことを先に世間に見せたほうがいいと思うんだ。そうすれば、君の評判もひどく傷つかないと思う。急に離婚するよりは』
離婚は醜聞だ。そしてその種の醜聞でより傷つくのは、やはり女性である私、つまり伯爵令嬢セアラの評判。
『持参金は返すし、慰謝料も払う。……言いたくはないが、現ホルボーン伯爵、君の兄上はあまり君に優しくないようだから』
うん。正直、実の兄であるホルボーン伯爵はあまりセアラ様に優しくない。というより疎遠。ホルボーン伯が妹に無関心だからこそ、私は偽者やってられたわけだけど。
『リヴィエラでもヴェネチアでもカナリア諸島でも。国内でも構わないから、しばらく他の家に行っててくれるだろうか。家はそのまま君に贈るから、限嗣相続設定されてないところがいい』
気前のいい申し出だ。お金どころか家まで惜しげもなくくれようとする。
『なにしろ僕も……君の異母兄だからね。妹なんだ、遠慮しないでくれ』
と、それが離婚の話し合いの結びだった。兄宣言が。
(なるほど。『妹』か)
お茶会の日。あの日、彼が言ってくれたことも思い出してみる。
(『家族』)
そうか。あの時のアーサーが優しかったのは、私を妹だと思っていたからだったんだ。そういう意味で「家族」と言った。なんだ、そんなことか。
「アーサー」
「!」
水晶宮は目の前。
と、そこで左腕を捕まえてやった。無邪気な「妹」になりきって、そっと。
「セアラ、そういうことは」
「どうして? エスコートして下さらないと、夫なら。……兄でも」
困った顔するアーサーに、私は最後の言葉を小さくつぶやいた。
いまだに本当のことを言えないでいる。私は本物のレディ・セアラではないことを、アーサーの異母妹ではないことを。真実を告白できていない。
「……しょうがないな。きょ、今日は君の希望で来たんだしな。好きにしたらいい」
「本当? じゃあなんでもわがまま聞いてね、お兄様」
「! それはやめてくれよ、どんどんまずいところにはまるじゃないか。あー」
どういう「まずいところ」にはまるのかよくわからないけど、赤くなって焦るアーサーは、言うほど嫌がってはないように見えた。変な人。
さて。
1851年にハイド・パークで開催された、記念すべき第一回万国博覧会の会場だったクリスタル・パレス。万博終了後、ヴィクトリア朝ロンドンの繁栄を代表するような、そのガラスと鉄骨でできた巨大な建物の撤去を惜しんだ当時の人々は、移設と保存を決定した。
ロンドン南郊のシデナムの丘に移されたクリスタル・パレス内部では、博覧会当時と同様に、熱帯植物園、標本、ジオラマ、各国各時代の建築、彫刻、さらには工業製品や機械などを展示し、コンサートルームでは定期的に演奏会も行われた。屋外の公園には恐竜の模型なども展示され、夏には花火大会まで開催されたという。
1シリングで誰でも気軽に娯楽――教育的内容の――を楽しめる、人気のテーマパークみたいなものだった、てこと。客は数万人規模で押し寄せたそうだ。
だけど。
今は19世紀末、その人気にはすでに陰りが出ている。
まばらな数の客の中、腕を組んでそぞろ歩く私とアーサー。悪くない。混雑してるとゆっくり見れないしね。
「すごーい……本物だあ」
全面ガラス製の壁が光を通し、中は明るい。鉄製の枠と支柱で支えられた天井はとても高く、すでに半世紀も経過した昔の建物とは思えない。
アーチ型の天井を持つ中央身廊には大きな噴水のある池があり、熱帯性らしき植物がその脇を飾っていた。
「暑いな」
アーサーの言う通り、中は暑かった。空は曇っているけれど、季節はそろそろ初夏だしここは熱帯植物だってある場所だ。暑いに決まっている。
ラウンジスーツにボウラーハットというくつろいだ格好の公爵様だけど、TシャツとGパンよりは暑苦しいだろう。私だって貴婦人のドレスを脱ぐわけにはいかないんだからおあいこだけど。
エジプトやギリシャなど、各国の建築・彫刻を展示したコーナー。
蒸気機関や最新農耕機械、織物、焼物、ガラス製品の数々。
当時の人にも珍しかっただろうけど、現代人である私にも逆に目新しい。博物館とかで骨董品を見た気分、という意味で。
でも――。
「きれい」
宝飾品を集めた一角で、思わず立ち止まる。ダイヤモンドにエメラルド。ルビーに真珠の首飾り。こういう贅沢品は、現代人に生まれてもそう簡単に手は届かない。
「あ。そうか」
見入る私の様子に、アーサーはすまなそうな顔をした。
「うちにもあったと思うんだ、たぶん。公爵家の相続品の中に。でもそういう物は、今でも母が管理していて。さすがに売ってはいないと思うが」
「あら」
そういえばそうか。由緒ある公爵家ともなると、受け継いできた相続財産がそうとうある。貴婦人が使うような宝飾品もその中に含まれ、代々のゲインズバラ公妃の身を飾ってきた品々があるのだろう、本当は。
礼装用にダイヤモンドのティアラをひとつ持っているけれど、あれは私が散財していた頃に買った新品だ。
ふと気になって尋ねる。
「ねえ。もしかして、お母さまに頭が上がらないんじゃない?」
「……そんなことは」
実の母親相手に言うことじゃない気もする。でも。
「これからも、何かにつけて無理難題言われたりするんじゃないかと心配だわ。あなたが」
「そんなのは前からだ。……伝言通り、母の年金を増額するよう指示しておいた。だからしばらくは大人しくしているだろう」
「そう、なの」
あまりに寒々とした親子関係に、かける言葉がない。
「……悪かったと思っているんだ」
「え?」
「一年も黙っていた。君に」
固い表情のアーサーが、重く言おうとしていること。
お互い様なのに。大事なことを黙っている、というのは。いや、私のほうがより悪いか。
「知らなかったんだ。自分の出生についてうすうす疑ってはいたが。まさか本気で違うとは思ってなかった」
「……」
「実は、結婚式のすぐ後に聞かされて。ずっとパリにいる母とは子どもの頃から疎遠だったんだが、あの夜、わざと呼ばず、知らせも送らなかったあの人が突然やって来て。そして」
教えられた。娶ったばかりの妻は異母妹だと。
「言われたよ。母親の許しも得ずに結婚相手を決めるから悪いんだって。でも……嫌だったんだ。あの人とは関わりのないところで生きようと決めていたから。君にも会わせないよう、使用人に徹底させたり。今思うと滑稽だな」
深い後悔をにじませた。
「両親のようにならないよう、なるべく平和な家庭を作りたかった。だから」
こちらを見下ろして言う。
「なんというか。遠い先祖のことだが、伯爵家とは血縁にも当たるから。歳もちょうどよかった。それに何より、君はとても大人しい女性だって聞いていたし……実際は違ったが。でも、それは」
はっと、そこで止まる。合わせていた視線をはずし、気まずそうに小さくつぶやいた。
「……『家族』がいる時間を過ごしてみたかったんだ。少しだけ。それで、ずるずると」
言い訳にしかならないが、と、それを最後にアーサーは押し黙った。
私は私で、自分のことを最低だと考える。
(……この人は少しも悪くない)
ボンクラとかヘタレとか愛人持ちとか、果ては同性愛者だとか。心のうちで勝手なことばかり言っていた日々を、さすがの私も後悔する。確かに夫としてはどうかと思うけれど、それでも彼なりに誠実にふるまった結果だ。そして私は人のことを言えるだろうか。
それでも正体を明かせない自分が嫌だ。騙されていたと知ったら怒るだろうけれど、少なくともアーサーの罪悪感は消えるだろう。禁忌を犯したという恐怖も。
卑怯なのは私だ。わかっているのに言えない。このまま「セアラ」として離婚し、明かさないまま彼の前から姿を消すつもりでいる。
カーテンで閉ざされたある廊下には、壁にステンドグラスが張られていた。赤、青、黄色、緑。緞帳で暗くされた中、色とりどりの光が床に落ちる。
「わあ……」
細かい紋様を映し出すステンドグラス。そこにあるのは植物、動物、幾何学模様。神話やキリスト教の聖人たち。緻密で芸術的な手仕事は、時代がうつろっても価値が変わらない。そこに天才的な技能――それこそ神に与えられたような――を持つ技術者がいるかどうかだ。
「すごいな」
「ええ。きれい……とても」
二人してみとれる。
「セアラ、こっちのは売ってるみたいだ。買って帰ろうか、ゲインズバラの家に。君が選ぶといい」
「本当? ええとね、この薔薇のと……って、ちょっと待って」
「ん? あ。いや、ごめん」
未来のない夫婦だということを、忘れてしまうところだ。
反対側を見て息をついたアーサーは、なんだか落ち込んだように見えた。
そんな彼に、尋ねてはいけないだろうか。
(この前の)
キスの意味を。あれは、あれだけは「妹」に対するものじゃなかったから。
自分のことは何も言わず、尋ねるのは卑怯かな。相手の本当の気持ちを確かめてからじゃないと動けないなんて、勇気がなさ過ぎるかな。
妹だと思っているのか、それとも。
(……なんてね)
もし思ってなかったとしても、認めるはずない。
「……そろそろ」
「うん」
「帰ろう」。はっきり口に出されない言葉に答える。
やっぱり時間切れ。シンデレラの魔法は終わり、私たちは今日のデートを最後に、明日から別居生活に入る。そういう約束だ。
たまたまなのか、暗いステンドグラスの廊下には、他の誰もいなかった。だから。
「セアラ?」
「……」
返事をしたのに何故か動かない妻。振り返るアーサー。
私は組んでいた腕を解放し、その前に回った。
相手が戸惑っているのはわかっているけれど、一歩進み、胸に手をあて、肩に顔を寄せて言った。
「抱きしめて。名前は呼ばないで」
今だけは、他人の名前で呼ばないでほしかった。
アーサーは言われた通りにしてくれた。だけど、迷った末に動いた腕に、力はなかった。




