22.もしかしなくても【ゲーム放棄】
22.もしかしなくても【ゲーム放棄】
明日から別居する夫婦がそろってどこかのお宅に顔を出すわけにもいかないので、社交界からの招待も今夜はキャンセルだ。
だがアーサーは、どうしても出席しないわけにはいかない会合が入り、出かけることになった。
「じゃあ」
「ええ。行ってらっしゃい」
「……やっぱり延ばしたら」
「ううん。大丈夫よ、あとは荷作りくらいだから。私とコリンズでできるわ」
「そうか。……」
晩餐も兼ねていて、帰りが何時になるかわからないという。
なら、明日の朝が最後だ。私は笑って送りだした。今夜までは「夫」と呼べる人を。
そして。
(どうしよう)
明日にする予定だった。セアラ様に会いに行くのは。
ミレー伯爵は放っておけばと言っていたけど、本当にそうするわけにはいかない。そして。
(入れ替わりを)
本人に確認するまでもなく、本物のセアラ様にとっては異母兄であるアーサーと、夫婦としてやっていけるわけがない。だから離婚は決定でいいと思う。でも。
(今からでも遅くはないはず)
ゲインズバラ公爵の不仲の妻として、公爵が所有する別の家で暮らすのは、私じゃなくて本物でもいい気がする。オールワークスとして働くよりは楽だろう。離婚が成立すれば慰謝料ももらえるし、再婚も可能だ。
差し出せるのは謝罪とそれだけ。それだけを武器に、私は出掛けた。昼間出かけてお疲れの公妃は、早めに床に入ったことにして。
*
教えられた住所はブロームズベリー。乗合馬車を乗り継いでやって来た先にあったのは、煉瓦造りのテラスハウス。呼び鈴を押す。
「はーい。今行きまーす」
……ん? 今の声は。
「はーい、はい。ええっとどちら様……」
「セ」
聞いてはいたけれど。知ってはいたけど。
「セアラ様」
「……あら。まさかアグネス?」
伯爵令嬢レディ・セアラ。由緒正しい伯爵家に生まれた生粋のお嬢様が、執事やメイドの取り次ぎもなくいきなりお出でましになりました。
大きな緑色の瞳に、鼻は少し低めだけど愛きょうのある顔立ち。乳白色の頬は丸く、美しいというよりも愛らしい印象。総じて童顔なのだ。コーヒー牛乳みたいな茶色の髪のはずだけど、今はきっちり結い上げて、メイドのキャップで押さえている。
まあ、ようするに私も同じ顔なんだけど……。そっくりさん設定だし。違うのは声だけ。
で。
「驚いたわ」
「はあ」
「突然来るんだもの。ちゃんと先に知らせてよね」
同じ顔の娘が二人、テーブルを挟んで向かい合う。
建物の半地下にある、キッチンでのこと。作業台らしいテーブルの上には皿だのまな板だの鍋だの鉢などが並び、小麦粉の生地みたいなのが端っこに散らばっていた。
しごく地味なストライプのワンピース姿にエプロンをかけたレディ・セアラは、汚れを見つけると目ざとく布巾で拭きとる。
「お夕食をお出ししたばかりだから、これから片付けなのよ。だから先に言ってもらわないと困るって」
「いえ、お気になさらず。というか全然問題じゃないでしょう、そんなの」
そうだ。問題はそこじゃない。
「何してるんですか?」
「え。……料理? これから片付けだけど。そうだわ、お茶飲む? たしかお嬢様にお出ししたハーミットクッキーがまだ残ってたはずよ」
「いやいやいや。お構いなく、ていうか何もしないでお願いですから」
心臓に悪い。「お嬢様はあなたでしょうが」と言いたい。私が言うことじゃないけど。
「働いているのよ、ここで」
「そう伺いましたけど。どうして……?」
ゲームを放棄したとしか思えない行動だ。いくら負けたとはいえ。
「どこから話せばいいかしら」
と、やっと対面できたゲーム主人公は語る。
それまでもギリギリの成績だったけど、なんとか宮廷に上がれたセアラ様。しかしそこは海千山千の、魑魅魍魎のうごめく場所。あっさり蹴落とされ、はじき出されてしまう。
「その時、なんだかとても疲れてしまって。誰かと競争することに」
「……」
「ミレー伯爵はいい人だし、とても良くしてくれたのはわかってる。でも、チャンスを与えるなら他の人にしてほしかった。能力のない人間に与えるのも変な話でしょう? わたしはもういいの、あれで自分の限界を知ったから」
ああ、なんかそんなようなこと言ってたっけ。やる気のなさを嘆いていた。
「いよいよ行く先がないってわかったら。伯爵は結婚しようって言ってくれたわ。しょうがなさそうに。でも、わたしはもう同情で結婚なんてしたくなかった」
そうだったの? なんだ、振られたから怒ってたのか。
「それで言い争いになって……出て行けって言われたから、出て行ったの。そしてここの家のかたに拾われた」
と、そこでセアラ様。とても、とっても幸せそうに微笑む。嬉しそうに。
「良い人たちなの。お嬢様はそれは可愛らしいし、料理人のショーンさんは身体が悪くてあまり動けないけれど、ご家族のことはとても大事に想ってる。それに……」
微笑みに違うものが混じる。え、なんかうっとりしてないセアラ様? どうした。
「……どこまで話したかしら。そうそう、こちらの家の人たちは、わたしのことをとても頼りにしてくれているわ。以前は考えてみたこともなかったけど、わたしきっと、メイドが性に合っているんだわ。だから」
えー? いるかな、メイドが性に合う貴婦人て。あなたお嬢様育ちでしょうが。貴族の誇りだのなんだの、ないのかね。
「わたし、ここで働きたいの。アグネス」
「は、はい」
「公爵のことは頼んだわ。お優しそうな人だったから、本当のことを言っても怒らないんじゃないかしら。ね?」
「……」
おい。怒らないはずないじゃないか。私が悪いんだけどさ。
「だって公爵のことが好きだから、わたしと入れ替わりたかったんでしょう、あなた」
「え!? まさか」
ちょっと待ってよ。なんでそうなる。
私、アグネスが伯爵令嬢との入れ替わりを実行したのは、教授の命令だ。個人的感情は一切ないんだから……少なくとも最初は。
「いいのよ、気づかなかったわたしが悪いんだわ。あなたも辛かったでしょう」
「いやそんな。違いますよセアラ様」
「わたしは構わないから。もともと結婚するより他に道がないと思い込んでたからプロポーズをお受けしたんだし、それはあちらも似たようなものでしょう。
でも誰だって、本当に好きな人のそばにいたほうがずっと幸せだと思うの」
うっとり、を通り越してうっすら赤く染まるセアラ様の頬。
なんだろう、この人。こんなお気楽だったのか。
「わたしはわたしに合った場所で生きていくつもりよ。あなたはどうするの?」
「私は」
「ミレー伯爵に言ったら思いっきり馬鹿にされたけれど、だからって公爵がどう考えるかわからないじゃない? 話してみたらどうかしら」
のんきだ。セアラ様はのんき過ぎる。そのうえ恋愛フィルターで見過ぎ。
本当だったらゲーム内の陰謀を阻止し、権謀術数うずまく宮廷で戦い、ロンドン社交界という名の大海を渡らなければならないVTの主人公。そもそもゲームの世界なんだから、他人を蹴り落とすことは当たり前だ。いちいち考えていてもしょうがない。
それに何より、私という悪役メイドに全てを奪われておいて、当の相手に「辛かったでしょう」という同情までしてみせるとは。馬鹿お人好しもいいところで、むしろ先が思いやられる。
本当にだめな人だ。ていうか完全にゲームを放棄している。
でも。だめな人でも。
「……セアラ様。これをお返しします」
「なあに? ああ……」
持参した物をテーブルにそっと差し出した。
「お母さまのリガード(regard)ね。ありがとう」
「セアラ様の物ですから、当然じゃありませんか。……他にも色々ありますけれど、せめてこれだけは直接お返ししたくて」
レディ・セアラの母親の形見である、リガードリング。ルビー、エメラルド、ガーネット、アメジスト、ルビー、ダイヤモンド、六つの小粒の宝石を並べて飾った指輪。
形見まで奪うなんて、と改めて自分のやったことが嫌になる。だから。
「どうぞ、自由に生きて下さい。でも、もし」
こんなに純粋で大丈夫なのかと、心配になるから。
「何か困ったことがあったら、絶対に知らせて下さい。どんな小さなことでも、何が何でも力になりますから、私が」
「アグネス?」
「それにもし、今の場所が嫌になるようなことがあれば、いつでも入れ替わりますよ」
本当は、今すぐそうしようと思っていたけれど。
今夜は私の新しい住所を伝えるだけで退散しないといけないようだ。
だめだめなセアラ様。出世はもちろん、ひとりのイケメンも落せていない。
でも。
「言えた立場じゃないけど、私はあなたが好きですよ。だから――改めてお詫びを」
今から言ったって遅いのはわかっているけれど、私は心から謝った。ゲームシナリオとはいえ、自分のやったことだから。
*
そして。今夜すぐに本物と入れ替わらなくてよかった、と痛感したのはその夜のうちのこと。公爵邸に帰った後。
「お前ひとりだけのうのうと、何も失わずにいられると思ったのか?」
いくら伯爵やセアラ様が咎めないからといって、忘れたわけじゃない。
悪役メイド“アグネス”に、どこまでもついて回る因縁を、忘れていたわけじゃない。
「お前のせいだ。ジャックは死ぬし、『教授』の組織も私を見放し始めたではないか。この責任、どう取らせようか」
そもそも、自分の力だけでは公妃の地位を乗っ取れなかったんだ。そっくりなだけでは。
「役立たずめ、あんなに言ったのによくも失敗しおって。お前のせいで私はすべてを失ったぞ。教授の信頼も、何もかも」
この人は捕まってなかったんだ、とうつろな目で見返した。
「このままじゃ収まらん。だからお前を殺すことにした」
フランス人は部屋に潜んでいた。この家の警備は穴だらけなんだなあ、と頭の隅で思い、そのお陰で抜け出しやすかったんだからしょうがないかと諦めた。
「ジャックと同じやり方にするかね? それとも」
公妃の寝室に隠れ潜んでいたムッシュ・ヴェルネこと「教授」の手下は、やっと帰ってきた公妃を名乗る女をその手に捕えた。
なんのためか。
「公爵もさぞかしショックだろう。妻だと思っていた女がいきなり死んでいたら。昆虫標本同然に、はりつけにされていたら。そうだ、それがいい」
裏切り者のアグネスに、その代償を払わせるため。




