16.老判事ウィリアム・ジレット
16.老判事ウィリアム・ジレット
ちょうどいいところに現れてくれた警官隊と老判事。だがしかし。
「女を放せ! 逃げられないぞ」
「うるせえ、こいつが解体されるとこ見たくねえなら、道を開けろっ! 脅しじゃないぞ」
ジャックは人質を取っている。うん、たしかに脅しじゃないんだろう。切り裂きジャックは、実際に何人もの女性を殺している。私を解体するなんて朝飯前……なんて冷静に考えてる場合じゃない。
「ちょ、往生際悪いことしないで、観念しなさいよ! もう皇太子殿下の暗殺なんて無理なんだからね!? 諦めて『教授』に謝ったらいいじゃないの!」
さりげなく、ジャックの目的と裏の黒幕の存在をばらしてやる。サー・ウィリアムも警官も、すでにこいつの正体知ってるみたいだけど、念のため。
「きさま。黙れよ、余計なことしゃべってんじゃねえ。顔に穴あけられてえのか」
「……」
ぺたぺたと、ナイフで頬を叩かれた。実行されかねないので押し黙る私。冷たいナイフの刃はそのまま、首筋に向けられる。
はい。さすがの私も手も足も出ません。硬直するしかない。人質がいても飛びかかろうとする無謀な警官はいたけれど、サー・ウィリアムに制されてやめた。
「どけ、道を開けろ!」
「……」
声にならない声で助けを求めてみた。でも残念、老判事にも警官にも、人質に取られた可哀そうなメイドを解放する術はなく、言われるまま道を開ける。うーん。無理して助けてくれないのを、喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか。人質の心理って複雑なんだな。
私が軽く現実逃避している間に、状況はうつろう。侯爵邸の廊下を引きずられるようにして進む。
通りすがりに執事さんとかいたけれど、大きなナイフを持った男と羽交い絞めにされたメイドにぎょっと驚くだけで、何もしてくれない。気持ちはわからないでもない。
遠巻きにだけど、サー・ウィリアムが何かを警官に何かを命じているのが聞こえた。助けてくれる気はあるんだろうか、あの名探偵は。
そう、現れるのがちょうど良すぎる老判事。半信半疑だったけど、サー・ウィリアムの正体が私にもわかり始めていた。そういえば、老判事のフルネームは「ウィリアム・ジレット」だ。昔の有名なホームズ俳優と同姓同名。待ちかねたあの人が、やっと登場してくれたってこと。
何のためかって、それはきっと、暗殺を阻止し、ジャックを捕えるため。
「どこだ……皇太子は?」
「は? まだ狙ってたの!? もう諦めなさいよ」
だけど諦めが悪いというか、忠実というか。ジャックはまだ諦めていないらしい、皇太子の暗殺を。でも。
「女を放せ! でないと撃つぞ」
心の底から落胆したことに、広い玄関ホールまで来たところで、私たちは銃を構えた警官たちに出会ってしまった。まずい。
(ひえっ、一緒に撃たれちゃう)
人命は何より重いとか、思ってくれているだろうか、ヴィクトリア朝の人たちは。あああ、メイドの格好なんかしてくるんじゃなかった! ただのメイドとか思われたら、もろともに撃たれかねないじゃないか。貴婦人の格好だったらそこまでぞんざいに扱われなかったかもしれないのに。
「くっそう。おい、こいつがどうなってもいいのか?」
「……仕方がない。やれ、だがなるべく女は撃つなよ」
え。本気? 指揮官みたいな人は、私に一瞥くれた後、あっさり決断してくれた。どんだけ非情なんだ。まさかあれか、私もジャックの仲間だとみなされてるのか。あ、それはだめかも。
もうだめだ。私は目を閉じる。火だるまにはならなかったけれど、似たような最期らしいので。
運が良ければ当たらないかもしれないし――と、わずかな希望にかけたその時。
「やめてくれ! 撃つな」
この場にいないはずの人の声に、私は目を開いた。そして驚く。
「アーサー?」
「セアラ、いったい何が。――おい、撃たないでくれ。彼女を傷つけるな、僕の妻だ」
警官隊の向こうに立っていたアーサーが、彼らに命じた。なんでそんなところにいるのか心底疑問なんだけど、状況は止まらない。
「閣下? しかし、このままではどのみち危険です。奴を止めませんと」
「うるせえぞお前ら! いいか、皇太子をここに連れて来い! 殺してやる」
わ、ジャックが正気とは思えないこと言い出した。こんなところに来るわけないでしょうが、今さら。だけど困ったことに、阿片が本当に効き始めたようだ。だって。
「そいつ……皇太子だな!?」
黒い制服姿の警官と、紳士らしくトップハットにフロックコート姿で、見た目だけなら高貴な雰囲気の公爵閣下。
正気を失くしたジャックに、皇太子と間違えられるとしたらそれは後者だろう。
一気に展開した。
邪魔になった人質を突き飛ばすジャック、ナイフを捨てて、また別の武器――銃を取り出し、はね上げるようにして構えた。
自分たちの方向へと銃口を向けた殺人鬼を、警官が撃たないわけがない。人質もいなくなっている。
鳴り響くいくつもの銃声。
「……アーサー!」
私は見ていた。ジャックの銃が狙った先に、彼がいたことを。
引き金が引かれるのを、スローモーションのように。
*
私のせいだ。
私がジャックに阿片なんか盛っていたからこの殺人鬼は正気を失くし、大きな人違いをしてくれた。よりによって、皇太子の代わりにアーサーが撃たれるなんて。
「アーサー!」
急いで立ち上がり、行き先をはばむように立ち並ぶ警官たちをすり抜けて駆け寄った。
余計なことをしなければよかったんだろうか? 悪役メイドが大人しく自分の死亡イベントに従っておけば、こんなことにはならなかった? アーサーは撃たれなかった?
駆け寄った相手の姿を見て、少しだけほっとする。彼は倒れてはいない。
でも、床に上に座り込んで、どこか身体を押さえている。
「当たったの? うそでしょう、やだ」
そばに膝ついて、うつむいた顔をのぞきこんだ。そこには綺麗に整えられていたはずの髪を乱し、苦しむ表情のアーサーがいる。誰か嘘だと言ってほしい。こんなのってない。
「しっかり……どこ、どこ撃たれ」
言葉にならず、どうしたらいいのかもわからない。手が震えそうになるのを我慢したけれど、でもどこへ当てていいかがわからずさ迷った。
「だ、だいじょうぶ」
「アーサー?」
「腕。左……なんとか生きてる」
大きく息を吐いて、肩を揺らしたアーサー。ようやく上げた顔は、痛みで歪んでいながらも、笑っていた。不思議と優しく。
「君は」
「え」
「怪我は」
「ううん……何も」
「そうか」
ならよかった、とつぶやいて。
アーサーは意識を失った。こちらに倒れ込こんで。
「アーサー! やだっ、死なないで」
一瞬、死んじゃったと思った私はとうぜん焦る。悲鳴をあげる。
「どけ」
「え、あの」
でもその時には、撃たれた公爵へと駆けつける余裕のある人間が他にもいた。 ホームズっぽい人だ。サー・ウィリアムが冷静に私へと命じ、気を失ったアーサーを床に寝かせて様子を見る。
「ジャックが発砲可能だったのは一発のみのはず。どこへ当たったかお前は見たのか」
「あ。あの、腕とか言ったような」
「なるほど。ここだな、とりあえず止血する。何かないか」
「なんかって。包帯ですか? えっと」
確かによく見たら、アーサーが撃たれたのは左腕の一か所で、本人が自分の手で押さえていたようだ。
「もういい、私のタイで止血する。邪魔だ、どいてろ」
「え、あ、はい、ごめんなさい」
止血のため、腕の上の部分を縛る手際はいいが、えらく乱暴だ。外見は気の良い老紳士のサー・ウィリアムなので、そのぞんざいな態度に私はついていけない。
「あの、ハンカチあります。傷口を」
「は? あるならとっとと出せ。気がきかないぞ、助けたくないのか」
そのうえ言い方がいちいちきつい。
「おいクラーキン! 担架になるもの持ってこい、公爵を運ぶ。それと私の鞄だ、早く」
「は、はいワトソン博士。誰か、あ、あの長椅子がいいか。二、三人来い、手伝ってくれ」
警官たちが寄って来て、アーサーを運んで行こうとする。
「待って、私も何か手伝いを」
「勝手にしろ。だが血を見て卒倒するような奴の手伝いなんかいらないからな。役立たずは私の手術室から片っ端に叩きだす。女だろうが関係ない」
「わかりましたわかりました、歯、食いしばってでも耐えますから!」
とつぜん怖い人になった老判事サー・ウィリアムは。運ばれるアーサーに付き添いながら、その変装を解いていく。
お腹の詰め物も、つけ髭も、頬に入れていた綿も、かつらも何もかも、そこらへんにぽいぽい捨てて。私は思わず、それらを拾いながらついていった。
変装の下から現れたのは、二十代後半くらいの青年。少し女性的な顔立ちは綺麗だけど、冷たい氷のような水色の瞳が、いかにも酷薄そうな光を宿す。
「ほ、あの、あなたはミスター・ホームズなのでは……」
「ホームズは昨日過労で倒れた。だから私が代理で来た」
「……まさかと思いますが。もしかしてドクター・ワトソンですか」
「ほう、よく知っているな。さすが公爵夫人を気取るだけのことはある」
「ちょ、やめて、アーサーに聞こえる」
「ほざくな偽者が。いいか、手伝うなら黙ってやれ」
さっき侯爵邸の庭で、サー・ウィリアムを見かけた時。いるはずのない人に驚いた私は、その時からこの老判事の正体に疑いを抱いていた。
もしかして、この人はポスト“シャーロック・ホームズ”……VT内ではその名も「シェリングフォード・ホームズ」じゃないかって。そして、警官を連れて現れた時、それは確信に変わっていた。
けど違った。
(「ワトソン博士」だったのか……ってことは)
いちいちきつい言動。凝り固まったエリート意識から発される上から目線に、人を人とも思わない冷酷無比な性格。よくそれで医者をやっているなと思うほど、優しさの欠片もない態度。頭の良いこの人は、おそらくわかってやっている。だから余計に始末が悪い。
VT随一のドSを誇り、そして私がただひとり、ついにクリアを諦めた攻略対象。
それが、ホームズの相棒であり、ドS医師である、「ジェイムズ・ワトソン」だ。
私は青春時代、ホームズの聖典に出てくる鷹揚で頼もしい「ジョン・H・ワトソン博士」とはまるで違う性格に、詐欺だと訴えたくなったものだ。
*
「私の手術室」というのは、別にワトソン医師の病院のことでもなんでもなく、侯爵邸の一室を占領しての場所を指していた。ドS医師は邸宅の持ち主の許可とか何もなく、勝手に選んだ部屋――たぶん侯爵邸でも最も豪華な場所である大食堂――に押し入ると、大きなテーブルにアーサーを寝かせてさっさと手当てを始めた。
にわか助手として手伝う私は、投げつけられる凶器のようなきつい言動におびえながらも従った。だけど元軍医は腕が良く、傷口の診察から消毒に痛み止め、ついでに包帯巻きまで、てきぱきとこなしてしまう。
「弾は貫通しているが、見たところ骨も神経も無事のようだ。ふん、運の良い」
「は、はい……」
確かにほっとした。処置が終わり、テーブルから寝椅子に下ろされたアーサー。
彼のまだ意識は戻っていないが、怪我は命に別条のあるものではなかった。だけど血の気が引いた顔には苦痛の痕が残り、私も胸が痛い。
でも生きている。それだけはとても嬉しい。その顔を見守りながら尋ねた。
「治りますか? 後遺症とか、そういうのは」
「治るかどうかというのは愚問だ。もともと健康そうだし、まだ死んでいない以上そのうち治るのが人体だ。後遺症があるかどうかは動かしてみるまでわからん。が、たいしたことにはならんだろ」
器具を鞄に戻すワトソン医師は、そっけなく言うと、部屋から出て行こうとする。
「あの」
「まだ何か? 応急処置はした、あとはかかりつけの医者にでもやってもらえ」
「わ、わかりました。でも」
おかしいな。私、捕まらないんだろうか。セアラ様は? もうテムズ河のことは忘れてもいいんだろうか。
冷静さが戻ると、自分の立場も思い出してしまう。テムズ河に飛び込まなかった偽者公妃は、どうしたらいいんだ。
「あなたは私を捕まえに来たのではないんですか?」
「そんなことまで頼まれていない。頼まれたのは暗殺の阻止とジャックの逮捕だけだ。生憎あの殺人鬼は、ホームズはもちろん、私の手もわずらわせないところへ行ってしまったがな。今はもう新しい棲家に落ち着いた頃だろうよ、あいつに似合いの場所にな」
「……死んだんですね」
「以前からホームズが追っていたんだが、『教授』の庇護下に逃げられて行方がわからなくなっていた。ミレー伯爵からの情報で、あいつが今日ここに現れて皇太子を狙うと判明したから、ホームズが乗り出す予定だった。しかし」
と、一回切って、呆れたような溜息をつく。それから続けた。
「さっきも言ったように、過労で倒れた。ここ二カ月ほど、ある事件に関わって大陸とイギリスを行ったり来たりしていて忙しかったんだ。レディ・セアラの件も気にかけてはいたんだが、結局、お前の様子を探りにゲインズバラまで行っただけ。代わりに急遽、私が来てやったんだ。変装までして」
「……それで、セアラ様はどこに? ここに来てらっしゃるんでしょう?」
「知らないが。いないんじゃないか」
「え」
まさかと思い、耳を疑う。
「いない!? どうして」
「私は知らん。皇太子も出席を止めたぞ、狙われるとわかっていて来るほど馬鹿じゃないんだろう」
セアラ様も皇太子もいない? そんなシナリオあっただろうか。そんなはずはない。
少なくとも、ゲーム主人公であるセアラ様がいないはずない。やっと正体を明かし、元の伯爵令嬢としての身分に戻れるイベントなんだから。ゲーム終了まであと少しというところ、最も大事な場面じゃないか。
「じゃあ私はどうすれば」
「知るか。自首したきゃ勝手にしろ、私の知ったことじゃない」
あとはもう、立ち止まることなく去った。ドS医師は最後まで冷たい態度だった。頼まれた以上のことなど、本気で知らないと言わんばかり。
「……」
で、残された私。振り返ると寝椅子にアーサー。意識は戻っていない。
(……まあ、いいか)
とにかく、ワトソン医師はアーサーを手当てしてくれたんだし。けっこう良い人なんじゃないかと、考えを少し改めた。




