10 フラグはやはりへし折るためにあるのです!
「それは……あんまりですよ、やっぱり」
出発して、最初の宿泊場所で。
一息ついた私達は、それぞれの部屋で寛いでいた。
この世界では、夫婦でも別々に宿泊するのが通例らしいのだ。
で、私は用意されたこじんまりしているけれど居心地の良い部屋で、「やれやれ」と馬車での疲れを癒していた。
それから、ロゼに「馬車ではどんなご様子だったんですか?」と尋ねられたから、馬車での出来事を話したのだけど。私の話を聞いたロゼは、前述のようにため息を吐きながら言った。
「でも、旦那様が『何か話したいことはないのか』と言われたから、私は話題を提供したのよ?」
「それは、わかります。奥様が私の話をお聞きして、改善しようとしたことのお気持ちは、十分に嬉しいです。しかし、せっかくお二人で馬車に乗っているのです。お仕事以外のお話も、されても良かったのではないでしょうか?」
「言ってくれなきゃ、わからないわよ!」
私は、思わずそう叫んでしまった。
「まあ……確かに、無理難題ではあると思います」
そんな私の言葉に、ロゼもため息を吐きながら同意してくれた。
「ただ、それをずっと言い続けていると、今までと同じことを繰り返しです」
でも、続けられた言葉は容赦なかった。
「旦那様に言われなくても、お誘いをした方が良いですよ。奥様が行きたい場所に、共に行かれたら良いじゃないですか」
「ロゼ……私が今一番行きたい場所は、公宮の図書館なんだけど」
「え?」
「勿論、仕事以外にも『楽しみ』として、公宮の図書館に行くことが、楽しみで仕方ないの!」
私としては。
勿論、姉のルナマリアとの対面はビッグなイベントとして捉えていた。
しかし、その後の「楽しみ」として、私は公宮の図書館に行くことにしていたのだ。
これは、「有希」の意識を持つ私が、やはり司書として、国の公的機関が抱える図書館は、是非とも見ておきたい、と思ったのだ。
「公宮」は国の中心にある場所だ。
その場所にある「図書館」は、絶対に珍しい本もあるはずだ。
「旦那様と一緒に行っても良いけれど、旦那様、楽しめるかしら?」
「う~~~~~ん」
私の言葉に、ロゼは考え込んだけれど。
「すごく悩みますけど……一回やってみるのも良いかもしれません」
そう言ってきた。
「そうなの?」
「旦那様が本を読んでいる姿は想像できませんが、今はお忙しいせいかもしれませんし。それに、フォレストの図書室も、意外に子ども用の本もあったじゃないですか」
確かに、それはそうだった。大きな絵が表紙に描かれていた本が何冊かあって、それは「有希」の世界でいうところの、「絵本」に当たるものだった。
この世界の人達は、「子ども用の本」と言っていた。
「確かに、旦那様が読んでいた可能性があるわね……」
私がそう言うと、
「そうですよ。それで旦那様が楽しんでくれたら良いですし、楽しくなさそうだったら、それはそれで、また考えれば良いんですよ」
ロゼは、うんうんと頷きながら言葉を続けた。
「なるほどね……」
「この後、エルザ様達と話すことになっていますから、その後お誘いしてはどうでしょう」
「そうね、やってみるわ」
ロゼの言葉に、私は頷いた。
確かに私は今まで「お出かけ」に関しては、レイガにお誘いをしていなかった。
与えてもらうことばかり考えて、何もしないのは、別れた夫と同じだった。
そんな夫に、私は絶望を感じていた。
あの時の私と同じ思いを、今のレイガは抱いているのかもしれない。
もしあの時、少しでも夫の思いを正しく汲むことができたのならば。
私達は、また違った未来に有れたのだろうか?
そこまで考えて、私は首を振った。
「有希」である私が「離婚」をした時、感じたのは「喜び」だった。
何も言わないで、態度や視線で私を責めて来る夫と共にいることは、とてもとても苦痛だったのだ。
「離婚」を決断した時点で、私と夫の未来は違えてしまった。
でも、アーマリアとレイガは違う。
レイガはDV気味ではあるけれど、アーマリアと共に在ろう、とする気持ちは抱いている。
お互いがわかり合える可能性は、あるはずだ。例え百バーセントは無理でも、五十バーリントならできるかもしれない。
もちろん、ルナマリアとの謁見は、重要事項である。
でも、お互いの思いを伝え合うことも、重要事項だ。
そんなことを考えながら、私はエルザさん、ファナさん、そしてレイガと、ルナマリアとの謁見について打ち合わせをすることになったのだけど。
「まず、一つ言っておきます。ルナマリア様がお二人を呼び出されたのは、お二人がどこまで協力されることができるか、というのを試されるためです。それは、十分ご承知の上ですよね?」
エルザさんの確認する言葉に、私とレイガは頷いた。
「母上、それは我々も十分承知しております。まずは、小麦の品種改良の件、そして、アーマリアが知っている『すとれっち』の知識を正しく伝えるための、絵師を改めてお願いします」
「その動機は何ですか?」
「小麦の増産と、領民達の健康度を増進させるためです」
「その結果、フォレスト領及びこのエーベルト公国に、どんな良い効果があるのですか?」
レイガの返事に、エルザさんは容赦なく突っ込んできた。
「小麦を作ることで、食べやすいパンの増産がしやすくなります」
その問いかけには、私が答えた。
「そもそも、パンを『食べやすい』物にはしなくて良いのではないですか?」
「それは違います。大麦だけで焼くパンもありますが、どうにも扱いが難しいのです」
私は、レイガと話し合って決めた言葉を思い出しながら、言葉を続けた。
「まず、生地がまとまりません。いくらこねても弾力を持たず、指の間から崩れてしまいます。ようやく形を整えても、炉に入れればほとんど膨らまず、焼き上がる頃には石のように重く、固くなってしまうのです」
「歯の弱い者や幼い子には、到底食べやすいものではございません。味もまた、素朴を通り越して、時に苦味すら感じられます。ーーこれは、領内に国境がある我がフォレストの、領民達の健康を損ねかねません」
私の言葉を受けて、レイガがそう発言する。
「その点、小麦で焼いたパンは違います。少量でもふっくらと膨らみ、柔らかく、誰にでも食べやすい。ほんのわずかな差が、日々の糧の質を大きく分けているのです。我がフォレスの領民達は、いざとなれば一番に戦いの中に身を置く者達です。その者達が健康で強き体を持つことは、エーベルト公国のためでもあります」
「これは、『ストレッチ』の知識伝達の目的と同じです」
私は、レイガが言い切るのを待って、ストレッチのことも付け加えた。
一応、移動中の馬車の中で、このことは話し合っていたのだ。
「なるほど……対策は、しているのですね」
私達の言葉を聞いて、エルザさんは感心するように頷いた。
私としては、この話も含めて、レイガとの馬車の会話は十分満足していたのだ。
領地経営の知識も増えて、ルナマリアとの謁見との対策もできて、オールオッケー!と思っていた。
でも、レイガ的には違ったらしい。
ま、それは後で考えるとして。
「でも、これで安心してはいけません。ルナマリア様は、さらに追及されると思われます。その時に、どちらがどの部分を答えるか、決めて置いた方が良いでしょう」
「役割を決めておく、ということですか?」
エルザさんの言葉に、私は質問をした。
「そうです。領地経営でしたら、アーマリア様の方が、政策面であれば、レイガ殿が答える、という感じですね」
「なるほど……」
「ルナマリア様が言われることは、ある程度予想できます。到着まではあと二日、到着した日は、公宮に行く準備がありますので、この旅の間にそれを出して行って、答える言葉を考えましょう。とりあえず、私も書き出してみました」
そう言って、エルザさんは小さめの紙を出して来た。
「その事業を始めることで、領と公国にどのような利益が生まれると見込んでいるのかは、わかりました。ですが、事業を軌道に乗せるまでに必要となる人員と資金の見積り、もし不足が出ると判断しているのなら、その補填方法、情勢が変われば事業にも影響が出る時どのような危険を想定し、どのような備えを考えているのか。……これぐらいは、答えられるようにしておいてください」
私はエルザさんが言うことと、メモに書かれた細かい項目に、眩暈を感じた。
なるほど、「どんな利益があるのか」を出すだけでは、駄目なのだ。
「その利益を出すためには、どんなことをする必要があるのか」
それを、考える必要がある。
しかも、エルザさんは「これくらいは」と言っているから、本当に最低限なのだ。
「わかりました……」
レイガの方も、私と同じような表情をして、エルザさんから差し出されたメモを受け取っていた。彼の方も、「そこまで考えていませんでした」という思いなのだろう。
「本来ならば、私はこのような事々を、あなたとイルン、そしてあなたの妻になった方とキャロライン殿の四人でやっていただきたかったのです」
それは、前にも言われたことだった。
「え……?」
でもレイガは初めだったようで、目を見張っていた。
「キャロライン殿は、幼い頃から数字に強かったのです。そのことに気付いていたフォース家では、キャロライン殿に帳簿を任せていました。私もそのつもりで、あなた達を教えていたのですよ」
「義母上……」
「フォース家の当主であるカイン殿があのようなことをしたのは、彼の愚かな考えもあったのでしょう。ですが、あなたがアーマリア様を、あなたとイルンとキャロライン殿の中に入れなかったのも、原因の一つではないか、と私は思っています」
その言葉は。とても厳しい内容だった。
「ただ、過去は取り戻せません。私達は、未来に向かって進むことしかできないのです。そうそう、アーマリア様が読まれている帳簿も、キャロライン殿が作成したのですよ」
「そうなのですか⁉」
この言葉には、驚いてしまった。帳簿に書かれていた数字はとても綺麗に並んでいた。
その年の収穫の様子、どれが良い出来で、どれが悪かったか。例年との違いはどんなところか。
それを、正確にまとめ上げてあった。
「すごいですね……」
私は、てっきり帳簿の知識に長けた老年の男性がまとめたものだろう、と勝手に思い込んでいた。
勤めていた図書館の、事務員さん達のイメージだ。
「有希」の私には、キャロラインはアーマリアを苦しめる、悪役令嬢みたいな印象があった。
でも、彼女は十分に優秀な人材だったのだ。
それを、私達はみすみす手放すことになってしまった、ってことだ。
彼女の立場を考えれば、「フォレストに戻って来て、仕えて欲しい」と言うことは、とても言えない。
否、言ってはいけない。
「このことを……姉上様にお伝えしても良いでしょうか? フォース家のキャロライン様は、帳簿がとても読みやすくて、わかりやすくまとめてくださっていた、と」
私は、エルザさんにそう尋ねた。
「何が目的にお伝えになるのです?」
「キャロライン様が、公宮のお仕事に就けるかもしれません」
キャロラインの母方の実家が、公都の近くに領地を持っているということで、「フォース家の人達が公都に引っ越した」、ということは聞いていた。
「それに、姉上様は能力のある女性を求めていらっしゃいます。キャロライン様は、打ってつけの人材なのです」
「なるほど……」
私の言葉に、エルザさんは考え込むような表情になった。
「それであれば、大丈夫だと思います。ただアーマリア様。あなた様が考えることは、 そのことではないはずです」
でも、次に言われた言葉は、厳しいものだった。
「エルザ様……」
私は、その厳しさに絶句するしかなかった。
「あなた様が考えるべきことは、フォレスト領のことと、領内の民のこと、そしてご自身のことです。他のことを考えるのは、そのことに憂いがなくなった時。特にご自身のことを疎かにすることは、違います」
けれど、エルザさんの言葉は、今のアーマリアには「全くのその通りです!」となる耳の痛いものだった。
「フォース家のことは、フォース家の者達が考えます。あなた様が考えなくても大丈夫です。そのことを、忘れないでください」
「わかりました」
だから、私は素直に頷いた。
だけどキャロラインのことはやはり気になるので、ルナマリアには言おう、と決める。
そうして、エルザさんとファナさんが私の宿泊する部屋を出て行くと、レイガと改めて向き直った。
「エルザ様の言われたこと……考えていませんでしたね」
「そうだな。正直、小麦を増産することで得られる対価と目的に考えを当てていて、その他のことは、思い付きもしなかった」
「さすが、先のフォレスト侯爵夫人……」
やはり、経験を積んだだけはあり、「何が必要なのか」とすぐに思い付ける。
「まず、資金のことについては、麦酒の売り上げがある。これは前から小麦の開発には使っていた。今までは、小麦の品種開発はフォース家に一任していたが、これを俺達の事業にする。そうすることで、人材の確保も容易になる」
だが、レイガもまかりなりにも、エルザさん達の後を継いで、領主としてやってきているのだ。
「ならば、不足が出た場合は、私の資産で補填するようにしましょう。情勢が変わる時……つまり戦いが起こった時の、備えも考えないといけないですね」
「それについては、俺が考えてみる。イルンもいないし、どこまで現実的に近い物ができるのかわからないが……とにかく、全くないよりは良いだろう」
「そうですね。私もどこまで資産が出せるか、やってみます。こちらも正しい金額までは覚えていないので、何とも言えないのですが……」
レイガとこんな話をしながら、時々「投機で設けた」「領地経営で稼いだ」とされるお姫様達の話を読んだり聞いたりするけれど、彼女達はなかなかやり手だったんだな、としみじみと思った。
「有希」の時の私は、本と元旦那のことしか考えていなかった。
でも、その「有希」が生きていた「社会」も、誰かが必死に維持してくれたからこそ、成り立っていたのだ。
勿論選挙には行っていたし、子どもの福祉や図書館の充実についてはどうしたら良いかとか、時々考えていたけれど。
アーマリアの立場は違う。
アーマリアは、「領主の妻」なのだ。
領主の妻として、考えることもやることも山のようにある。
ただ。
じゃあ責任を果たすために、がむしゃらにやれば良いのかーと言うと、それは違う。
まずは、できることをやっていくしかない。
今の私ができるのは、「アーマリアがどれだけ資産を持っていて」「そこから、どれだけ補填に使えるか」を考えることだ。
そうして。
私達は、そのまま晩御飯に入った。
私達の給仕はロゼがしてくれて、その後、宿の人達が後片付けをしてくれることになっているそうだ。
給仕が終わった後、エルザさんとファナさんと一緒に夕ご飯を食べることになっているそうだ。
蝋燭の灯りが揺れる中、テーブルに置かれてきた皿を見て、私はぱっと目を輝かせた。
「鱒がこんなに香ばしく焼けて。美味しそうですね!」
そんな私を見て、レイガも思わず笑みを返してきた。
「これほどの料理が出るとは思いませんでした。この鶏は、ハーブがよく効いている」
私は白パンをちぎり、湯気の立つポタージュにそっと浸す。
そして口に運ぶと、優しい味が口の中に広がった。
「このスープも優しい味……。今日の疲れが溶けていくみたいです」
「美味しそうに食べるな」
「はい、美味しいですから!」
本当ならば、先ほどの会話の続きをするべきなのかもしれない。
けれど、私はこの美味な晩御飯を、楽しく食べたかった。
初夏の旅の夕餉は、豪華ではないが、心が満たされる温かさに満ちている。
「そう言えば、この白パンは、ファナ様が焼いてくださったそうです」
そうして。
私はロゼに聞いていたことを、レイガに告げた。
「ああ、そうみたいだな」
「知っていたのですか?」
私は意外に思って、少し驚いてしまった。
「聞いてはいないが、わかる。この白パンは、母さんが作っていた物と同じ味がする」
レイガは白パンを千切り、口に運びながら言った。
その瞬間。
私は、幼い頃のレイガが、
『母さんの作ったパン美味しいね!』
と言いながら、パンを美味しそうに頬張っている姿が見えたような気がした。
「この件が無事に終わったら、何か美味しい物を食べに行きたいですね。みんなと一緒に」
私がそう言うと、レイガは顔を上げた。何故か、その表情は幼く見えた。
「ファナ様やエルザ様やロゼとも一緒に食べることができる場所ですから、ピクニックが良いかもしれません」
「ピクニック?」
「はい。オランドに行った時にやった時も、楽しかったです。お店で食事をするとなると、なかなか難しいですけど、ピクニックであれば、みんなで楽しめると思うんです」
多分。公都のお店で食事をするとなると、エルザさんまではオッケーだけども、ファナさんやロゼは一緒に入ることはできない。
それは身分とか世間への配慮とか、「有希」である私にはどうでも良いことだけど、この世界では無視できない決まり事だ。
でも、この件が終わったら、皆で「お疲れ様会」みたいなことができたら良いな、と思った。
それができるのは、オランドに行った時にやった、ピクニックの形だろう。
「……それも良いが、二人で出かけることもしないか?」
そんな想像をしていた私に、遠慮がちにレイガが声をかけてきた。
「二人で、ですか?」
私が目をばちくりさせてそう言うと、
「そ、そうだっ」
何故かレイガは顔を赤くして頷いた。
「みんなで出かけはしないのですか?」
アーマリアの知識の中には、ピクニックに良い場所もある。
そこは公都郊外ではあるけれど、近くて眺めも良い場所なのだ。
「勿論、それもやると良いが、二人で出かけることもしたいのだ」
私は、一瞬「皆と一緒の方が楽しいんだけどね」と思ったけれど。
『それは……あんまりですよ、やっぱり』
でもその瞬間、ロゼが言っていた言葉を思い出した。
レイガは、アーマリアと出かけることを望んでいる。
そして私は、それを知っているのだ。
「ならば、公宮にある図書室に行きませんか?」
だから。
ロゼと話した通り、公宮の図書室に誘ってみた。
「図書室……」
「姉上様に会うついでに、寄ってみませんか? あそこにしかない本もありますし、今後の参考になる本が読めるかもしれません!」
私の言葉に。
レイガは、微妙な表情になった。
「それに、旦那様がどんな本がお好きか、それも知りたいと思いまして。初めてお会いした時は、領地経営の本を読んでいらっしゃいましたが、フォレストの館の図書室には、絵本もありました」
「俺の……好きな本を知りたいのか?」
「はい、そうです」
戸惑ったように問いかけるレイガに、私は頷いてみせた。
「有希」である私は、やはり本が好きである。
好きなことを通して夫婦の交流を深めるのは、元旦那とも試みたことだった。
元旦那とは上手くいかなかったけれど。
レイガは元旦那とは違う。
ずれている所もあるけれど、私が言ったことは、確実に守ろうとしてくれている。
今、こうやって話していても、アーマリアを否定することは言ってこない。
私が「こうして欲しい」と伝えると、それを守ろうとしてくれるのだ。
「旦那様と一緒に図書室に行って、お好きな本を教えてくださると、嬉しいです」
アーマリアならば、きっとこう言うだろう。
「……わかった」
私の言葉に。
レイガは、そう頷いた。
きっと彼は、アーマリアと出かけることを考えていたのかもしれない。
私が「図書室に行きたい」と言ったら、微妙な表情をしていたのも、そのせいだろう。
でも、彼はアーマリアの希望を否定することなく、その希望を叶えようとしてくれる。
「ありがとうごさいます、嬉しいです」
私はそう言って、フォークとナイフを一度置き、頭を下げた。
「……そんなに嬉しいか?」
そんな私の様子に、複雑そうな感じでレイガが聞いてくる。
「はい、嬉しいです」
やはり、自分の好きな場所に行くというのは、テンションが上がる。
まして異世界の公宮―要するに、お城にある図書館だ。
これで、テンションが上がらない方がおかしい。
でも。
これは、「私」の願望だ。
「旦那様は、どこか行きたいところがありますか?」
だから。
私は、そうレイガに水を向けてきた。
多分、レイガは何かしらのお出かけを計画しているはずだ。
せっかく用意してくれたものを、無碍にすることはない。
そう、私は思った。
まあ、齢二十歳過ぎの若造が、私の可愛い押しのアーマリアのために、考えてくれたのだ。
その内容、しかと確認してやろうではないか!
「……最近、公都でパンケーキのお店が流行っているらしい」
私の言葉に、レイガは思い切って、という感じで話し出した。
「まあ、そうなんですか?」
「ああ。だから、今後の参考になるかもしれない、と思ってな」
それは、確かにそうだった。
私達は小麦の増産を目的としているけれど、大麦とてビール以外にも、何等かのものに活用できたら、それはそれでとても良い。
「いいですね……!」
私は、その提案に乗ることにした。今後のことを考えると参考になりそうだし、それに何よりも「デート」なるものもできる。
まさに、一石二鳥だった。
そうして。
ふと、元旦那とも「一石二鳥」を狙って、料理教室に通っていたことを思い出した。
あの頃の「有希」は、旦那と同じ趣味を楽しむことで、交流ができないか、と思ったのだ。
でも。
結婚さえすれば自分の理想の生活が手に入って、「男」としての矜持とプライドを妻が保たせてくれるーと思っていた旦那には、それはとてつもなく辛いことだったに違いない。
それでも、あの頃の私にできたことは、それしかなかった。
別れた旦那は、「結婚」という生活を「妻」と言う人に「造り出してもらえる」と思っていた。
だから、私があれこれと要求することは、「思ってもいない」ことだった。
けれど。
「結婚」というものは、一人が頑張って維持するものじゃあない。
領地経営と一緒で、夫婦で話し合って、「どうすれば良いのか」を考えながら、やっていくものなのだ。
勿論、悪いのは旦那だけじゃあないだろう。
私だって、自分のことしか考えていなかった。
「話し合い」と言いながら、自分の意見しか押し付けていなかった。
旦那が何も言わなかったせいもある。
でも、それすらも、私の態度が原因であったのかもしれない。
「アーマリア?」
そんなことを考えていたら、心配そうな表情をした、レイガが私を見ていた。
「どうした? もう食べないのか?」
「すいません、ちょっと考え事をしていました」
心配してくれるレイガに、私は笑顔でそう答えた。
「それなら良いんだが……」
「パンケーキが、どんなものなのか想像していたんですよ。あのままでも美味しいですけど、トッピングとかを考えると、アレンジは無限大なんですよね」
「とっぴんぐ?」
「パンケーキに添える物のことです」
怪訝そうな表情をするレイガに、私はそう説明した。
「パンケーキに何を添えるんだ?」
「定番はバターですけど、クリームに果物を添えても美味しいですよ」
「なるほど……。アーマリアは、甘い物が好みか?」
「そうですね。甘すぎるのはちょっと苦手なんですが、旦那様はどうですか?」
「俺は、甘い物よりは濃い味付けが良いな」
「であれば、ハムと卵焼きとチーズを乗せて食べると良いですよ」
「なかなかの量だな……」
私の言葉に、レイガは想像したのか、ちょっと顔をしかめている。
「でも、美味しいですよ」
「確かに、それはわかるぞ」
私が悪戯っぽく笑いながら言うと、レイガも楽しそうに頷いた。
その笑顔を見ながら、私はこのデートは、上手く行きそうだな、とそう思っていた。
★
だが、しかし。
そんな私の期待は、呆気なく吹き飛んでしまった。
「甘いな」
あの後、一日かけて公都に着いた私達は、翌日、ルナマリアと面会していた。
その間にも、不足が出た時の補填方法、情勢が変わった時の対応等を、二人で話し合い、エルザさんにも相談しながらまとめたのだ。
突貫工事の内容だったし、エルザさんも「何もないよりはマシですね」と言っていたから、厳しいことは言われることは、覚悟していた。
ルナマリアの声は冷たくはないが、甘さを許さない硬質さがあった。
レイガと私は。
思わず背筋を伸ばす。
「まず、資金の話。麦酒の売り上げを回すのは、結構。だが――」
ルナマリアは、テーブルに置かれた資料を指で弾いた。
「『前から使っていたから大丈夫』なんて、領主が考えることではないな。 収入の安定性、価格変動、需要の季節差、醸造設備の維持費、労働力の確保。 そのどれも検討していない。収入源を一つに頼るのは、領地経営では『自殺行為』だ」
レイガは口を開きかけたが、ルナマリアは容赦なく続けた。
「次に、フォース家からの引き継ぎ。 『これからは自分たちの事業にする』――その言葉意味を理解しているか?」
ルナマリアは、レイガと私を真っ直ぐに見た。
「技術者の待遇、設備の所有権、研究成果の権利、彼らの家族の生活保障。そして何よりも、彼らの心情。そこまで、考えているか?」
「姉上様……」
「フォース家の当主は、確かにお前達に反旗を上げた。だが、研究所の者達には、別の顔を見せていただろう」
そうして。
ルナマリアは、私を見た。
「アーマリア、そなたは『不足が出たら私の資産で補填します』と言うが、領主家の事業に個人資産を混ぜるのは、最も危険な選択肢だ」
その言葉は、私が考えてもいないことだった。
「戦時の備えを語るなら、まず『資金の分離』を徹底しなければならない。 侯爵家の財政、軍資金、個人資産――全部ごちゃ混ぜにしたら、 いざという時に何も守れなくなるぞ」
ルナマリアは、私達を真っ直ぐに見て、静かに息を吐いた。
「フォレスト侯爵。そなたの『防御を固める』という考えは悪くない。だが、防御は『結果』あって『目的』ではないのだ。『攻めにくい領地』を作りたいのならば、まず『攻める価値がある領地』に育てることだ。 産業、人口、交易、技術――それらが揃って初めて、他国は躊躇するものだ」
私の隣で座っているレイガは、深く息を吸い、拳を握った。
「そなた達の話を聞いていて、思った」
ルナマリアは応接用のソファから立ち上がり、後ろにある机の上にあった資料を持って来た。
その動作は静かだが、これから告げられる言葉の重さを予感させた。
「そなた達には、領主として『最低限』身につけるべきことがまだ足りない。だから――課題を出す」
私は、思わず姿勢を正した。アーマリアの記憶にあるルナマリアが、妹に何かしら「課題」を出す時の口調だったからだ。
隣にいるレイガも、緊張した表情になっている。
「まず一つ目。 麦酒の売り上げを使うと言うなら、資金計画の骨格を作ることだ」
「骨格……とは?」
「収入源、支出、純利益、投資額、予備費、緊急時の資金―― これらを『数字で』示すのだ。『多分いける』ではなく、『この額なら回る』と証明する必要がある」
「数字で……」
私は、ルナマリアの言葉を繰り返した。
確かに、数字が一番納得できる。「有希」として、数字を仕事で使うのは、本の貸し出し数や在庫管理が主だった。
日常生活でも、家計管理は数字でしていたけれど、「数字」を使って、「何か」をしたことはあまりない。
「そうだ。領主は感覚で動いてはならぬ。 数字は嘘をつかぬし、そな達の甘さも容赦なく暴くだろう。そして二つ目は、フォース家から品種開発を引き継ぐなら、契約案をそなた達自身で作るのだ」
「契約案を……」
レイガの方も、茫然とした表情で、ルナマリアの言葉を呟いている。
「技術者の待遇、研究成果の権利、設備の所有権、土地の使用料、研究費の負担、失敗時の責任―― 全部、そなた達の言葉でまとめるのだ」
「私達の……言葉で?」
「そうだ。『任せていたから知らない』では、領主は務まらない。知らないなら、調べて、聞いて、学ぶのだ。その努力が、技術者の信頼を生むのだからな。そして何よりも、その今までの成果は、フォース家が実績を積み続けたからだ。そのことも、そなた達は忘れてはならないぞ」
この言葉には、レイガも弾かれたような表情になった。
「三つ目は、そなた達の領地が『十年後どうなっているべきか』を、文章で書くのだ」
「十年後……ですか」
私は、ルナマリアの言葉を繰り返した。
「小麦の生産量だけではない。人口、交易、産業、治安、教育、軍備―― 領地の未来像を『地図のように』描いてみろ」
「そんな先のことは、わからないです」
レイガは、首を振っている。
だが、ルナマリアは言葉を続けた。
「先のことだからこそ、今考えるのだ。未来像がなければ、今日の判断は全部『場当たり』になる」
「姉上様……」
「この三つの課題を、三週間でまとめるが良い」
ルナマリアは、私達を見据えた。
その瞳には厳しさと、深い期待が宿っていた。
「そなたたちは若い。だからこそ、今のうちに“考える力”を鍛えるのだ。領主は、善意だけでは務まらない。 構造を作り、未来を描き、数字で語る者が領地を守るのだ」
レイガは拳を握り、私は、静かに頷いた。
「わかりました、姉上様……必ず、やり遂げます」
「楽しみにしている」
そう言って、ルナマリアは小さく微笑みながら頷いた。
★
「甘かったな……」
その後。
公宮の図書室にて。
椅子に座ったレイガが深く息を吐いた。
図書室の机の上には、三つの課題が書いてある文書が置いてある。
私達は、ルナマリアの私室を出た後、すぐさま公宮の図書室に移動した。
公宮の図書室には、各領地の報告書が保管されていて、フォレスト領地の経営報告書も年代別にあるのだ。
それを「アーマリア」の知識がわかっていた私は、レイガを図書室へと誘ったのだ。
「そうですね……」
ぐったりとした様子のレイガに、私も同意しかない。
覚悟はしていたが、ルナマリアは妹であるアーマリアに対しても、容赦がなかった。
「考えてみれば、私達は家臣の不祥事を防げなかったんです。姉上様の態度は当然です」
「アーマリア、それは……」
「人の心は、変わるものです。私達の些細な行動の積み重ねが、人の心を良くも悪くも変える。そのことを、私達は疎かにし過ぎた。だからこそ、姉上様は私達に、このような課題を出しているのでしょう。『私達は、どこまでできるのか』を、冷静に見ていらっしゃる」
「あの方にとって、お前は妹であるのにか?」
「関係ないですよ。確かに私は妹でありますが、『領主』の立場でいる以上、そのことは除外して、『統治できるのか』という、その一点だけで見ていらっしゃると思います」
そうでなければ、「後継ぎ」として、そしてエーベルト公国の統治者として、この国を守れなくなる。
「それよりも旦那様、姉上様に『三週間』と言われましたが、そのような長い間、フォレストを空けて大丈夫ですか?」
「その件については、もう義母上に知らせてある。滞在が伸びることを予想して、義母上に来てもらっていたんだからな。三週間程度であれば、何とかなる。有事の時は、俺はフォレストに戻ることになるが、その時はーー」
「はい。私はここに残り、作成を続けます」
レイガの言いたいことを察して、私はそう言葉を続けた。
そうして。
ふと、「こんな感じのことを、旦那とはやりたかったんだな」と思った。
まあ、でも。
「有希」としての感傷に浸っている時間は、今はない。
「では、やるか」
「はい。旦那様が行きたがっていたお店に行くためにも、頑張りましょう」
私はそう言って、勢いよく立ち上がった。
「俺が行きたがっていた店?」
「他にもやりたいことはありますが、旦那様はパンケーキのお店に行きたいのですよね? それぐらいは、やりましょう」
本来ならば、私は公宮の庭で、エルザさんやフィラさんやロゼやロイ達も一緒に、ピクニックみたいなことをしたかった。
レイガの好きな本も、この公宮の図書館で知りたかった。
「私がやりたかったことは、フォレストでもできます。でも、旦那様がやりたかったことは、公都でしかできませんからね」
勿論、楽しみではあるのだ。
この世界のパンケーキは、どんなものであるのか。
そうして。ふと、湧き上がって来た記憶があった。
薄く焼かれた生地にレモンを絞ったとき、 きらりと光る雫が広がり、ほのかな香りが胸の奥まで涼しく届く。
横に添えられていた赤い実のソースは、 陽に透ける宝石のようで、ひと口ごとに季節の色がほどけていく。
舌に触れた瞬間、甘さより先に「初夏の風」のような軽さが広がった。
「アーマリア……?」
私は思わず、「有希」として、彼女の名前を呟いてしまった。
私は、思い出そうとして、その記憶を思い出したわけではなかった。
この「記憶」を「思い出した」のは、間違いなく「アーマリア」の意志だ。
「アーマリア? どうした?」
怪訝そうなレイガの呼びかけに、私は、はっと我に返った。
「いえ……『アーマリア』がパンケーキを食べた時のことを、思い出したのです」
そうして。
ごく自然に、そんなことを口にした。
「? アーマリアは、お前だろう?」
けれど。レイガのまたしても怪訝そうな返事を聞いて、さらにはっと我に返った。
「そうでしたね」
私は自分の慌て様に、苦笑を浮かべてしまった。
「疲れているならば、俺だけでするが……」
「いいえ。大丈夫です。今から、取り掛かりましょう」
私はそう言って、フォレスト公国の領地の資料が置かれている資料棚へと向かった。
★
それから二週間後。
「……終わった、のか?」
公宮の図書館にて。
レイガは、深く息を吐いた。
机の上には、三つの課題をまとめた資料――資金計画、引き継ぎ契約案、十年後の領地像――が整然と並んでいる。
「終わったというより……『形にした』だけ、ですけどね」
私は、苦笑しながら書類を見つめた。自分の字で埋まったページをめくるたび、胸の奥がざわつく。
「姉上様は、きっと容赦なく突っ込んできますよね」
「そうかもしれないな……」
レイガは、ため息を吐きながら頷く。
「だが、俺達だけではここまで考えられなかった。 『領主としての視点』を、ルナマリア様が教えてくれた」
レイガのしみじみとした口調は、今までの苦労を思い出してのものだろう。
何せ、この図書室で、私達は麦酒過去のデータを洗い出したのだが、麦酒の売り上げは、やはり季節でこんなに変わっていた。
夏は倍近く売れるけれど、冬はあまり売れない。
そこから小麦の品種改良にお金を出すには、原料費と人件費、そして材料代とどこに何をどう回すか、削れるところはどこか、考えなければならなった。
これに関しては、事業をしていたエルザさんにも相談したけれど、過去の記録をフォレストから取り寄せてもらって、侯爵家の取り分を多少下げることで、対応が可能だということがわかった。
これも、過去のデータを洗い出して、夫婦で計算を重ねたからわかった「事実」だった。
そして、「小麦の品種改良」の研究の引継ぎの件に関しては、結局、フォースから研究所を買い上げることにしよう、となった。
フォース家の方から領地は返上されてはいるけれど、それは「領地」の話であって、フォース家が後ろ盾となっていたからこそ、小麦の品種改良の研究は続けられたのだ。
そこから、研究所で働く人達の待遇、研究成果の権利をどうするかなどなど、調べて行くうちに、「フォレスト家がスポンサーになるから」では済まないことは、次々に出てきて、私は「甘かった……」と実感できてしまった。
そして、何よりも。
「十年後」のフォレスト領のことを考えるのは、本当に難しかった。
『十年後……人口はどれくらいになっていたら、望ましいのでしょうか?』
『交易路が整備されて、他国から商人が来るようになって……』
これ関しては、夕飯の時間にも話していた。
『小麦だけでなく、他の作物や加工品も育てたいですね』
私としては、美味しい牛乳やアイスクリームもあるのだから、何かしらの特産品が作れないか、と思うのだ。
『そのためには、教育も必要だな。エーベルト公国は読み書きができる者は他国に比べると多いが、貧困層への教育がまだまだ足りない。読み書きができる者達が増えれば、産業も育つ』
私とレイガは、とにかく自分達の知っている知識を総動員して、時々エルザさんにも相談して、資料を作成していった。
ファナさんとロゼは、朝はバタバタして公宮に行く私達を送り出してくれ、夕方には満身創痍で帰って来る私達を、美味しい料理と綺麗に掃除された部屋とリラックスできるお風呂を用意して、スタンバイしてくれていた。
私達は、フォレスト侯爵家の公都用の家に滞在しているのだけれど、常駐している使用人は管理者の男の人だけで、時々公都の人を雇って、掃除を済ませているらしい。
だから、私達の身の回りの世話や様々な雑務は、ファナさんとロゼがやってくれた。
『ありがとう、ロゼ。ファナさんと二人だけだと、この屋敷の管理も大変じゃない?』
と、私は言ったことがあるのだけど。
『そんなことはないですよ。ロバートさんが色々教えてくれますし、何と言っても!ファナさんの仕事の速さが尋常じゃないんです!』
目をきらきらさせて、そう私に教えてくれた。
『あ、そうなんだ』
『はい。私が一つのことをしていると、その間に三つぐらい用事が済んでいるんですよ』
公都用の館とは言っても、そこはお貴族様の館ではあるので、そこそこの広さはある。
けれど、ロゼとファナさんの二人で何とか日々の雑務をこなしていけるのは、ファナさんのこの有能さのおかげなのだ。
「ありがたいですよね、本当に」
私は、手元の資料を見ながら、しみじみと頷いた。
と、その時だった。
コンコンと、軽いノックの音が扉の外から聞こえた。
「どうぞ」
と、レイガが返事をすると。
「失礼します」
扉が開いて、侍従の男性が現れた。
私達が公宮の図書館で、ルマナリアに言われた「課題」をこなしていることは、公宮の者達には知らされていたのだ。
「アーマリア様、ルナマリア様がお呼びです」
「姉上様が? 今からお伺いしようと思ったのだけど……」
私が、侍従にそう言うと。
「いえ、ルナマリア様はアーマリア様だけをお呼びです」
その言葉に。私とレイガは顔を見合わせた。
「とりあえず、行った方が良いぞ、アーマリア」
「ですが、旦那様は……」
「お時間は、取らせないそうです」
戸惑っている私に、侍従はそう声をかけてくる。
「わかりました」
私はその言葉に頷くと、立ち上がった。
「旦那様、しばらくお待ちください」
「お前がルナマリア様と会っている間に、書類の見直しをしておく」
頷くレイガを見て、私は侍従の後に付いて図書室を出る。
絨毯が敷かれた廊下に出ると、侍従はルナマリアの部屋へと案内してくれた。
「公女様。アーマリア様をお連れしました」
「入るが良い」
侍従が扉の前でそう告げると、部屋の中から返事がある。
「失礼します、姉上様」
侍従が頷いて扉を開けてくれたので、私はドレスのスカート部分を持ち、まずは挨拶をした。
「来たか。まずは、座るが良い」
そんな私を見て、ルナマリアは仕事用の椅子から立ち上がり、応接用のソファを進めてくれた。
「失礼します」
私はルマナリアに一言かけると、ソファに座った。
「課題の進みはどうだ?」
「はい。先ほど完成したところです」
向かい側に座ったルマナリアの問いかけに、私はそう答えた。
「早いな。後一週間はかかるかと思ったが」
「あまり、領地を空けることは望ましいことではありませんから」
フォレスト領は、他国との国境がある。その領主が「不在」というのは、基本的に避けたいのだ。
幸い、今は他国との争いも目立ったものはなく、公国内は平和ではある。
「そう……がんばっているのだな」
まあ、あの後、私達は毎日公宮に来て、公宮が閉まる夕方まで図書室に籠り、そうしてまた次の日が来れば、同じことを繰り返していた。
その間ルマナリアは現れなかったけれど、私達の様子は、周りの人達から報告を受けていたはずだ。
実際、昼食もそこそこに、調べ物と資料作成に私達は集中していた。
「有希」の世界では、ネットやスマホがあったから、サイトなどからすぐに情報を得ることができた。
でも、この世界はそうはいかない。
本を探し、その本の中から欲しい情報を読み取り、その内容を自分の中で消化し、文字に起こす。
この一連の作業を、レイガと二人で分担して行ったのだ。
正直。
今までやって来たどの仕事よりも、きつかった。体は動かさないけれど、頭と目と手を、滅茶苦茶使った。
首と肩の疲労は、とても大きかった。
だから、私はストレッチの「肩落とし」をレイガに教えて、自分でも行うようにしていた。
「肩落とし」のやり方は、
① 頭を横に傾ける。
② 頭を前に倒す。
③ 頭を反対側に向ける。
④ 向いた方の肩を真っ直ぐ下げて、深呼吸を四回する。
この時、痛みを感じながら無理して伸ばすのは、NGだ。
私は「肩落とし」のストレッチは、なかなか上手くできなかった。
どうしても、首が動いてしまうのだ。
しかし、レイガはさすかに体を鍛えているだけあって、スムーズにストレッチをこなしていた。
彼が体を動かすと、どこかダンスを踊っているようにも見えてしまう。
要するに、体の使い方が上手なのだ。
だが、そんな彼ですら、この「肩落とし」のストレッチをしていた時は、
『これは……なかなか効くな……』
と呟いていた。
体の使い方を私よりも知っている彼が、そう呟く程度には、頭も目も酷使していたのだろう。
『でも気持ちが良いな。これが、「すとれっち」の効果か』
『はい、そうです。このそうです。このストレッチをすることで姿勢が正しくなり、体に筋肉を付ける筋肉トレーニングをすることで、適切な筋肉が付いて来るそうです」
『きんにく…』
『体を動かす部分の総称ですが、ご存知ありませんか?』
『ああ、それならわかる。確かに、体を動かす時に使う部分があるな。正確な名称は知らないが……』
と言われてしまったので、この世界では正しい医学の知識は、あまり広まっていないことがわかった。
医学書に関しても、本を探して確認してみるかあと、考えているところだったのだ。
「さて、アーマリア。そなたが言っていた、そなたが知っている『体と気持ちを整える運動』を描く絵師のことだが、そなたの出す条件を満たす者がいるようだ」
そうして。
改めて向き居合わせに座った私に、ルナマリアはそう切り出された。
「まことですか⁉」
私は驚きで、椅子から立ち上がりそうになった。
私が出した絵師の条件は、「モデルが動いていても正確に姿勢を写し取れる、観察眼に優れ、動きを捉えることに長けた者」だった。
自分でも厳し目の条件だと思っていたから、すぐには見つからないと思い込んでいたのだ。
「ただ、その前に一つにそなたに聞きたいことがある」
けれど。
喜びに満ちた私と違って、ルナマリアは厳しい表情になっていた。
「姉上様?」
その真剣な眼差しに、私は姿勢を正し、座り直した。
「その知識、どこで手に入れた?」
そうして。ずばり、切り込んできた。
「それは……公宮の図書室で、たまたま読んだ本からです」
それに対して、私は以前から「ストレッチの知識をどこから手に入れたのか」を尋ねられた時に、言おうとしてた言葉を口にした。
「嘘だな」
けれど。
それを、ルナマリアはきっぱりと否定した。
「姉上様……」
「そのような知識を書いた書物は、少なくとも、我が国にはない」
そのきっぱりとした口調に、どうやらカマかけではなく、「事実」として、ストレッチのことを書いた本がない、と確認しているのだ。
一瞬。
私は、本当にことを話すべきか、と思った。
ルナマリアであれば、今のアーマリアが、「有希」としての意識を宿していることも、理解できるだろう。
でも、今はまだ「違う」と思った。
もし、私がアーマリアだとして。
自分の知らない間に、周りの人間が、「自分」とは違う人間と交流して、それを知っていたとしたら。
あまり良い気持ちはしないだろうな、と思うのだ。
「違う自分」と比べられて、「違う自分」がやっていたことを求められて。
……うん、とても嫌である。
それに、「話す」ことを決めるにしても、よほどのことがない限り、やはりアーマリアの「許可」は必要だな、と私は思った。
「……最近、不思議な夢を見るのです」
そんなことを数秒で考えて、私は次の言い訳を打ち出した。
最初の言い訳が通用しなかった時のために、用意しておいたのだ。
「不思議な夢?」
「その夢に出で来る女性は、私達とは違う装いをしていました。この世界では、見ない服装を着ていて、本がたくさんある場所―恐らく、図書室にいるのです」
「ほう」
私の言葉に。ルマナリアは、興味深げに頷いた。
「そこで、女性は『あなたに必要な本はこれよ』と言われて差し出されたのが、ストレッチの本だったのです」
それは、嘘ではなかった。
私は実際、夢で今日子にスロージョギングのことを教えてもらっている。
ストレッチの知識は、「有希」の時に読んだ本が元になっているけれど、夢で今日子に教えてもらったのは、事実だ。
「何故、その『すとれっち』の本がそなたには必要だとその女性は判断したと思う?」
「私が、体力も気力もなさすぎたから、少しずつ体を動かすことで、心も体も元気になるように……とのことでした」
「なるほど……」
私の言葉を聞いて。
ルナマリアは、深いため息を吐いた。
「しかし、そなた。その動きが体のどの部分に効果があるか、よくわかったな」
「図解してありましたから。その部分を読んで、理解しました」
「そうか。では、医学的な見解での知識では、理解していないのだな」
「さすがにそこまでは……」
ルナマリアの言葉に、私は首を振った。
私がわかっているのは、筋肉は繋がっているから、「どの部分を動かせば、こんな効果がある」ということだけだ。
「ならば、良い。この「すとれっち」の知識、広めても大丈夫だ。ただ、アーマリア。それ以上の知識は、この世界には無用だ」
「姉上様……」
「私が簡潔に聞いた内容でも、そなたが言った「すとれっち」の考え方は、我が国にはない。つまりこれは、未知なる「知識」ということになる。新しい知識は、一見すると素晴らしい物に思えるが、それは新たなる火種となるからな」
厳しい表情で、ルマナリアは言った。
「『火種』……ですか」
「そうだ。何故、その『動き』がその部位に効果が出るのか。そこには、医学的な『理由』が必ずあるはずだ。だが、今の我々にはーこの世界の者達には、その『理由』はわかっていない。私は、それはまだ我々にその『理由』を理解できる、『力』がないからだと思っている」
「姉上様……」
「それなのに、その『力』を持つ者が現れたら、どうなるのか。皆が、『力』を欲するだろう。最初は、健康のためや、人を助けるため……最初は、良き理由で使おうとするだろう。だが、最終的に行きつくのは――人を『殺す』ことに、使われる」
「……!」
それは。
「有希」の私には、思い付かない視点だった。
確かに、「ストレッチ」も「筋トレ」も、この世界にはなかった。
私は、単純にアーマリアへの推し活の一つとして行っていたけれど、「新しい知識」は、新たなる火種になる可能性があるなんて、思いも付かなかった。
「姉上様……」
その衝撃の大きさに、私が口を開こうとした時。
「大げさだなあ、ルナは」
そんな陽気な声が、部屋に響いた。
「旦那様⁉」
途端に、今まで落ち着いていたルナマリアが、驚いたように立ち上がる。
廊下とは反対側にあるドアが開いて、そこには黒髪と黒い瞳で、眼鏡をかけた三十代ぐらいの男性が立っていた。
「久しぶりだね、アーマリア殿」
その男性は、アーマリアの夫・ロベルト・エーベルト・オーシエだった。
ちなみに。
この世界では、結婚したら旧姓は結婚相手の姓の下に来る。
「ルナ。君の用心深さと用意周到な姿勢は感嘆に値するけど、新しい価値観や方法を排除し続けると、進化はできないよ」
ロベルトはそう言いながら、ルナマリアの傍に近寄って来た。
「有希」の私は、この人を見た時、一瞬「誰? これ」と思った。
でも、次の瞬間にはこの人の記憶が表に出て来て、「ルマナリアの夫だ」と認識することができた。
これは、「有希」が意識してやった行動ではない。
おそらく、私の中にいる「アーマリア」が、やってくれたことだろう。
「そうですが、旦那様……」
アーマリアや他の者達の前だと、毅然とした態度でいるルナマリアも、ロベルトの前では柔らかい印象になる。
アーマリアの記憶によると、これは、前からだったけれど、やはりプライベートの部分では、さらにそれは大きくなっていた。
そこまで考えて、私は、はっと我に返った。
「義兄上様。お久しぶりです」
慌てて立ち上がり、だが失礼のないように、私は作法に乗っ取ってロベルトに挨拶をした。
「ああ、良いよ。ここは公の場所じゃない。礼儀に乗っ取った作法は不要だ」
そんな私に、ロベルトは手を振りながら応用に答えた。
「義兄上様も、エルベルトもお元気ですか?」
礼儀を大切にするルナマリアと違い、この義兄は砕けた態度で周りに接するため、立場的には「後継者の夫」だけど、公宮の者達にはとても頼りにされていた。
ルナマリアに進言し難いことがあれば、まずこの宰相でもあるロベルトに進言することで、話の通りが良くなることがあるのだ。
私の知らないことは、アーマリアが「記憶」として、次々と思い出してくれるから、とても助かった。
ここまで来ると、「ひとひらの雪」では、名前すら出てこなかった人達が登場するのは、驚かない。
ロベルトは、本当に存在すら出てこなかった人だけど、当然のように私の前に現れている。
「ありがとう。我が息子は、いつ美しい叔母に会えるのか、朝からずっとうるさかったよ」
私の言葉に、ロベルトは笑いながら頷いた。
「まあ、エルベルトがですか?」
ちなみにエルベルトは、ルナマリアとロベルトの息子で、三歳になる。
「君の旦那様が優しければ、君に会うことを許して欲しいね」
「それは、アーマリア達の課題が終われば、申し出るつもりだ。父上もアーマリアと話したがっていたからな」
ルナマリアとロベルトの会話に、私はアーマリアの父であり、今のエーベルト公のことを思い出した。
寡黙で、あまり感情を表に出さない彼が、「ひとひらの雪」の最後の場面は、レイガに怒りをぶつける。
あのシーンは、亡き娘への思いが溢れていて、感動的さえあった。
きっと、遠く離れたフォレストでのアーマリアの様子を聞いて、心配していたに違いない。
「それは、是非」
エーベルト公に安心してもらうためにも、家族団らんもやっておかなくてはならないだろう。
そう思って、私は頷いた。
と、その時だった。
「すいません、俺はいつまでここにいないといけないんですか?」
不躾とも思える口調で、そんな言葉が聞こえて来た。
「ああ。ハモン、すまないね。出て来て良いよ」
ロベルトはその声を聞いて、苦笑しながらそう言った。
次の瞬間。バンっと、大きな音がして扉が勢いよく開いた。
「ああ、やっと出られた」
そうして現れたのは、長い赤毛の髪を結んで、無精ひげを生やした二十代前半ぐらいの青い瞳を持った青年だった。
「ハモン、その態度は少し不躾だぞ」
すかさず、ルナマリアが突っ込みを入れる。
「おお、怖っ!」
しかし、ハモンと呼ばれたその青年は、軽くそれを交わす。
だがその瞬間、容赦なくロベルトが鉄拳を食らわせた。
どかっと、本気で拳で殴る音が聞こえた。久しく聞いていなかった音に、私は茫然となる。
「旦那様、手荒なことは困ります」
「失礼。我妻に無礼なことをしたのでね。手加減はしたよ」
だが、ルマナリアとロベルトは、落ち着いた会話をしている。
「アーマリア、紹介しよう。私の弟で名はハモンだ。画家をしている」
「ハモン・ベルと申します。以後、お見知りおきを」
げんこつを食らったらしい頭の部分を抑えながら、青年――ハモンは、そう私に挨拶をしてきた。
「あ、姓が……」
「俺は、おやじが外で作った子でしてね。母は、公都の商家の出だったんで、そのままおふくろの家で育てられたんです」
兄弟なのに姓が違うことに気が付いて、どうしてだろうと思っていると、あっさりと教えてくれた。
その言葉に、どう答えようかと一瞬迷う。
「ハモン、明けすけ過ぎるぞ」
ロベルトがそう言ってくれたけれど。
「いや、アーマリアも自分の思いを出しすぎだ」
感情を出してしまった私の方も、ばっちり指摘を受けてしまった。
貴族にとって、感情をそのまま出してしまうのは、マナー違反だ。
たとえ家族の間であっても、ハモンとアーマリアは初対面なのだ。
「失礼しました、ハモン様。私はアーマリア・フォレスト・エーベルトと申します。以後、お見知りおきくださいませ」
私は自分の失態に心の中で舌打ちしながら、礼儀に乗っ取った挨拶をする。
「ま、一応親戚なんで。堅苦しい挨拶は、いいっすよ」
しかし、ハモンの方はあっさりとそう言って、進められてもいないのに、ドカッとソファに座った。
なかなかふてぶてしい性格をしている。
ロベルトは軽いため息を吐くと、ハモンの隣に座り、ルナマリアが私の座っているソファの方に移動してきた。
「色々言いたいことはあるが、話を始めよう。アーマリア、このハモンが、お前が探していた条件に当てはまる絵師だ」
そうして。
ため息を吐くように、ハモンのことを説明してくれた。
「そうなのですか⁉」
私は驚いて、ハモンを見た。
私が出した「ストレッチの絵を描く絵師」は、
①モデルが動いていても正確に姿勢を写し取れる
②観察眼に優れ、動きを捉えることに長けている。
だった。
自分でもけっこう厳し目の条件だったので、時間が関わるか、ある程度妥協しないといけないのではないか、と思っていたのだ。
「ハモン様は、絵師なのですね」
「一応、自分一人食べていける程度には、ですね」
私の問いかけに、肩を竦めながらハモンは答えた。
「では早速ですが、私のする動きを描いていただけませんか?」
商家で育ちながらも、何故絵師として食べて行けるようになったのか、大いに興味はあるものの、私が欲しいのは、「私のストレッチの動きを、絵で描ける」という技術だ。
私がそう言って立ち上がるのを、ルナマリアとロベルトは心配そうに見ていたが、
「良いですよ」
そう言って、ハモンはごそごそとポケットから小さいノートを取り出した。
「そのノートは、いつも持っていらっしゃるのですか?」
「ええ。気になったものを見つけた時は、いつも描けるように持ち歩いています」
ノートを広げながら、ハモンは答えてくれた。
「では、良いですよ」
「ならば、肩回しのストレッチをしますね」
私は、ハモンの前に立って、ドレス姿でもできそうなストレッチをすることにした。
肩回しのストレッチは、
① 背筋を伸ばして立つ。
② 両手を肩に添え、肘で大きな円を描く。
③ 前回し十回、後ろ回し十回。
これを、呼吸は止めず、痛みが出る方向へ無理に回さないようにして行う。
私がそれを続けていたら、
「もう良いですよ」
と言って、ハモンは手を動かし続けていた。
「見なくて大丈夫なのですか?」
私が肩から手を降ろしながらそう聞くと、
「覚えましたので」
と、あっさりと答える。その間にも、彼は鉛筆を動かし続けていた。
「こんな感じですか?」
そうして。
彼が見せてくれたのは、まさに、「肩回し」のストレッチ画だった。
「すごい……!」
私は、思わず感心してしまう。
これであれば、頼んでも大丈夫そうである。
「お気に召しましたか?」
「はい、素晴らしいです!」
私は、満面の笑みを浮かべて頷いた。
ハモンの「ストレッチの動きを見て、それを絵にする力」は、期待以上だった。
「それは、俺の力に満足したってことですよね?」
「はい、十分です!」
「ならば、一万イレンを希望します」
ハモンは、にやっと笑いながらそう言った。
一万レインは、庶民だと五年分の生活費に値する。
つまり、この仕事にそれだけの対価を払え、とのことらしい。
「ハモン様の滞在費と、画材等の道具類の代金込みであれば、大丈夫です」
とりあえず、私はそう返事をした。
本来ならばレイガに相談することになるが、「旦那に相談します」と言えば、多分、ハモンは「ではなかったことに」と言い出すだろう。
ハモンは、私が見る限りかなりの「イキリヒャッハー」だ。
簡単に言えば、人に対して、捻くれた態度を取るタイプだ。
「ただ、正式な金額は少し変わるかもしれません。夫にも相談はしないといけませんので」
けれど。
念押しも、しておいた。
一万レインは、アーマリア個人が出せない金額ではない。
仮にも、侯爵夫人でエーベルト公国の第三公女だ。
財産は、「有希」の私がうらやましくなるほどある。
でもだからと言って、「払えるから単独で判断します」と言うのは、「違う」のだ。
小麦の品種改良のことも、ストレッチの絵師を探すことも、レイガと二人で話し合って決めたのだ。
「旦那の許可が必要なのか? あんたが考えたこと何だろう?」
「発案は、私です。でも、夫と二人で話し合って決めたことですから、夫の意見も聞く必要はあります」
「そうだな」
私の言葉に、ルナマリアはため息を吐くように頷いた。
「では、このままそなた達に出した課題を、確認することにしよう」
「その時に俺、ここにいる必要ありますか?」
そんなアーマリアに、めんどくさそうにハモンが訪ねて来る。
「先にそなたの紹介をしてから、話をする。その紹介が終わったら、そなたは席を外すことになるから、しばらく待て」
ロベルトが眉を八の字にして注意しようとする前に、ルマナリアはそう言って、夫を止めた。
ここで説教が始まれば、またしても無駄な時間が流れてしまう、と判断したのだろう。
ロベルトも自分が注意すると長くなると言うのがわかるようで、妻が注意をすることに任せていた。
「そうしてください」
一方のハモンは、ルナマリアの言葉を聞いて、頭の後ろで手を組み、そのままソファにの背に体を預けた。
やはり、ふてぶてしい人だな、と私は思ってしまった。
とにもかくにも、ルマナリアが部屋の外に控えていた侍従を呼んで、レイガを連れて来るように言いつけたので、しばらくすると、書類を持ったレイガが部屋に現れた。
「ルマナリア公女様、お呼びとお聞きして、参上しました」
レイガはそう言って頭を下げたが、
「レイガ殿、ここは公式の場ではない。堅苦しい挨拶は不要だ」
ルナマリアはそう言って、私の隣に座るように、レイガを誘導する。
「書類を拝見する前に、紹介しておこう。そなた達が探していた、絵師の条件にぴったりだと思ってな。我が夫・ロベルトの異母弟になる」
ルナマリアがそう言いながらハモンに視線を向けると、
「ハモン・ベルです」
と、ハモンは立ち上がって頭を下げた。
「レイガ・フォレストだ。よろしく頼む」
レイガの方もソファから立ち上がり、頭を下げた。
その姿を見て、「有希」の意識の私は、「へぇ」と思った。
レイガは侯爵だから、身分的にはハモンよりも上だから、座ったまま挨拶してもマナー違反ではないのだ。
「奥様には、すでに一万レインは払っていただけると、了承していただいています」
しかし、ハモンは不躾にもそうレイガに言い放った。
「その価値はあるのか?」
それに対して、レイガは私に視線を向けて、尋ねて来る。
「はい。ですが、滞在費や材料費も込みでよろしいなら、とは伝えてあります」
それに対して、私は率直に答えた。
「なるほど。それでは、試して良いか?」
私の答えに、レイガは今度はハモンに向き直って、そう言った。




