想いあふれて ~ No More Blues
ジャムズでは二人の新しい門出を祝福する声が響いていた。
シェフの前島は礼服からいつものコックコートに着替えて、張り切って調理場にこもっていたし、結香も広大も生き生きと、笑顔の人々の間を縫うように、グラスを配り歩いていた。
いつものジャムズに、いつもの客。いつもの喧噪、そして溢れる音楽。
違うのは主役の二人が、白一色に包まれていたことだけ。
誰もが笑顔だった。満面の笑みの花婿と、普段のクールな微笑みを浮かべる花嫁と。二人を知る誰もが、よかったね、と声をかけた。マスターの勇次は、多くの人のお祝いの声に頭を下げ続けていた。
ステージでは入れ替わり立ち替わり、常連のバンド連中がにぎやかなアップテンポのジャズを演奏していた。今日はお祝いだからね、小難しいモダンなんかやらないよ、ピアノの寺内がそう言いながらディキシースタイルを披露していた。
一樹がステージに上がる。
はやし声があちこちからかかって、いっそうにぎやかしさを増した。いつものとんでもなく速いテンポのスタンダードで決めてくるか、ハイノートでがんがん攻めてくるか。
皆の期待が高まる中、しかしリズム隊のメンバーたちが一人、また一人とステージから降りてきてしまった。
とうとう、一樹一人がステージに取り残された。
一樹はゆっくりサングラスをかけ直すと、何も言わずに楽器を吹き出した。
ジョリヴェのトランペットコンチェルト。
きっと誰にもわからないだろう、この曲が何という題名なのかも、作曲者が誰なのかも。
ただ、主役の二人と一樹を除いては。
今まで盛り上がっていた会場が、水を打たれたようにシーンとなった。
まるで場違いなクラシックのメロディーにとまどう表情の観客たちは、次第に一樹の奏でる美しい音色に引き込まれて、何も言わずに聴き入っていた。
一樹の演奏が終わっても、誰も何も言わなかった。一樹もまた、一言も発することなくステージを降りると、そのままドアを開けて出ていった。その背中を追いかけるように大きな拍手が会場を包んだ。そして、何事もなかったかのようにまた、ジャズらしい華やかな演奏が再開され、手拍子と口笛と、しゃべり声が戻ってきた。
耐えろ、一樹は自分自身に向かってそうつぶやいた。あと数時間、この場をやり過ごせ。どんなに胸が苦しくとも思いがこみ上げてこようとも、決して表情に出すな。笑顔で二人を祝福すると決めたのだから。
灰皿の置いてある廊下は、今は誰もいなかった。幾分ほっとしながら一樹はタバコをくわえた。火をつけるでもなしにそのまま廊下の壁にもたれかかる。泣くな、大の男がそんなことで泣くんじゃない。タバコの端を噛み締める。こんなに強く噛んだらフィルターがダメになるだろうな、頭の片隅でそんな心配をする。
トランペットコンチェルトを吹く間、桃子はじっと一樹を見つめていた。それまで桃子は、目を合わせようとはしなかった。声を掛けることもできなかった。ただ吹いている時だけ、見つめ合った。暗いサングラスのせいで他の誰もが気づかなかっただろう。持ってきてよかった、一樹は細い支柱を指で押すと、眼鏡のずれを直した。
かたん、どこかのドアが開く。一樹はあわててタバコに火をつけようとした。ライターがなかなか見つからない。焦ってポケットをまさぐる。ない。ケースの中か、ソフトケースを下ろそうとした時、一樹くん、と声を掛けられた。
篠原だった。
びくっとして一樹は声のする方を見やった。篠原がこちらに向かって歩いてきた。手にはグラスを二つ持っている。その一つを一樹の方に差し出す。
「懐かしかったよ、一樹くんのジョリヴェ。二次予選で吹いたんだよね」
水割りを受け取りながら頷く。あれ以来、初めて吹いたクラシックだった。
「君に出会ってから六年、か。あんなに小さかった少年が今では立派なミュージシャンだ」
「篠原さんのおかげだ。篠原さんにあの日会わなかったら、おれは今こうして生きていなかった」
「……一つ聞いていいかな」
ためらいがちに篠原が口にする。訊こうか訊くまいか考えあぐねているような口調だった。
だが意を決したように、篠原は一樹に向き合った。
「君は桃子さんのこと、どう思っているの?」
「どう、って」
一樹は目をそらし、片方の頬だけで無理矢理笑った。
「桃子さんはおれの大事な姉さんだよ」
「そうじゃなくて…」
幾分いらだち気味に篠原が続ける。それ以上訊くな、何かを口走ってしまいそうになるじゃないか。取り返しのつかない何かを。一樹は心の中で叫んでいた。
「桃子さんも君のこと」
「桃子さんは!」
篠原が続けようとするのを大声で遮る。はっとしたようにお互いが黙った。
「桃子さんは篠原さんを選んだんだ。そうだろ?」
「……一樹くん。」
「幸せに、してあげてよ」
一瞬の沈黙。一樹がそっとサングラスをはずす。顔を上げて真っ直ぐ篠原を見た。もう大丈夫、桃子への思いはこれで全部終わりにできる、そう自分に言い聞かせる。
「ああ、約束するよ」
篠原が微笑む。
失わずにすんだ、篠原も桃子も。これで、いいんだ。
一樹は篠原の肩にもたれかかると、気づかれないように涙をぬぐった。
#エンディング
都心には珍しく人のまばらな公園の小高い芝生へ座り、一樹は革のソフトケースからそっと楽器を取りだした。
手のひらで温めるようにマウスピースを握り、唇に押し当てる。そしてそれを銀色のトランペットに差し込んだ。いったん膝の上に楽器を置くと、今度は黒いプロテクターを左手にはめる。
空が高い。
ゆるやかな風を頬に受けて、一樹は目を細めた。
革のベルトを楽器にくくりつけ、アンブッシュアを作ってすうっと息を吸い込む。
ジャムズで聴いたあの曲を、擦り切れたレコードのノイズと共に聴いたトランペットのフレーズを、今は自分が吹いている。
『アイ・リメンバー・クリフォード』
柔らかく温かいそのメロディーを、優しく甘く、ささやくように心を込めて。
たとえこの先、何があろうとも、おれは吹き続けるだろう。音楽と共に生きることを選び、演奏し続けるだろう。たとえ何本の指が動かなくなろうと、命が尽き果てるまでは。
そしていつか、自分の音が誰かの心に届くまで。いつまでもいつまでも、人々の心の中で響き続けるまで。
形に見えない愛もある。手に取ることのできない愛もある。不器用で伝わりにくい、もどかしいほど不格好な愛も。
今の自分に、その愛に気づけとはとても言えない。心の奥底にあいてしまった空洞を埋める何かも、今は見つからない。
それでも、いい。
きっとこうやって奏で続けることで、おれは生きていける。
アイ・リメンバー・クリフォード。
僕はけっして、君を忘れない。
<FIN> (ご愛読ありがとうございました)
北川圭 Copyright© 2009-2010 keikitagawa All Rights Reserved
ジャズ好きの方ならおわかりのように、副題をスタンダードジャズで揃えてみました。
音楽が聴こえてくるような物語になりますように。
一樹の音楽ストーリーはまだまだ続きますが、vol.1はこの辺で。
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。深く感謝いたします。