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第84話 調印式

 

 川が光っていた。


 秋の午前。ポンテソーレの石橋の上を、荷車が渡っていく。荷台に積まれた木箱。赤い旗印の商会の幕。二百年かけて育てられた国境交易の流れが、今日も変わらず動いていた。


 橋のたもとに、石造りの商会館がある。


 その二階の広間に、今日は見慣れない顔ぶれが集まっていた。エアルの役人。リミニの書記官。リミニ十人委員会のフィリッポと数名の委員。そしてナディールとエリザベート王女。


 テーブルの両端に、二人の男が向かい合って座っていた。


 一人は五十代。指先が落ち着きなくテーブルを叩いている。バルトロメオだ。


 もう一人は若い。背筋が伸びていて、眼鏡の奥の目が真剣だ。フェルディナント・ハルト。財務卿代理。半年前までは王宮の書記官だったこの男が、今日、エアル王国を代表してここに座っている。


 窓の外、川面が揺れている。橋を渡る商人たちの列が、二階から見下ろせた。その反射光が、テーブルの上でゆらゆらと踊っていた。


 ◇


「こういう形で再開できるとは」


 バルトロメオが言った。指がテーブルを叩く速さが、いつもより遅かった。興奮と緊張が半々になっている。「これほど嬉しいことはありません」


「ええ」フェルディナントが頷いた。「これが始まりです。十年後、ここから見る景色は様変わりしているでしょう」


 窓の外の川を、二人は少しの間、黙って見ていた。


 一週間。あの計算に明け暮れた日のことを、フェルディナントは思い出していた。バルトロメオが精鋭二十人を引き連れてエアルに乗り込んできた。その日から七日間、数字を積み上げ、互いの計算書を照合し、一リルの誤差も許されなかった。あの七日間がなければ、今日はなかった。


 バルトロメオも似たようなことを思っていたのかもしれない。


「お互い、良い仕事をしましたね」


 静かな言葉だった。指が、止まっていた。


 書記官が二人の前に出た。「そろそろお時間でございます」


 フェルディナントとバルトロメオが立ち上がった。広間の中央に設けられた壇上へ、向かい合いながら歩いていく。テーブルの上に、分厚い契約書が置かれていた。エアルの紙がが何十枚も綴じられた、重みのある束だ。


 要人たちが見守っている。


 フェルディナントは羽ペンを取った。手が、わずかに震えているのが分かった。震えを、意識して抑えた。眼鏡の奥の目が、署名の欄を見定める。


 オットー財務卿が失脚した後、誰もいない財務卿の席に一人で座り続けた。横領の帳簿を整理し、国庫を立て直し、銀行を回し続けた。肩書きはなんでもいい。数字が正確であればそれでいいと思っていた。


 しかし今日——この一行を書くために、あの日々があったのかもしれない。


 ペンが走った。


 バルトロメオも署名した。二人が契約書を持ち上げ、来客たちに向かって掲げた。


 拍手が巻き起こった。


 川の反射光が、広間の天井を揺れながら流れていった。


 ◇


 祝宴が始まった。


 ゴールデンフィールドが注がれ、料理が運ばれ、各国の来客たちが思い思いに語り合っている。エリザベート王女が金色の髪を揺らしながら、リミニの委員たちの間を飛び回っていた。その笑顔に、場の空気が柔らかくなっていく。


 ナディールがその光景を眺めながら、グラスを傾けていた。


 「ルートヴィヒ」


 隣から声がした。エリザベートが、いつの間にかそこにいた。


「リミニの方たちって——いつもこんなに親切なの?」


 ナディールが眉を上げた。


「どういう意味ですか」


「ううん、何でもないわ」王女が少し首をかしげた。何かを言いかけて、それからにっこりと笑った。「とっても素敵なお式でしたね」


 そして、また別の客の方へ歩いていく。


「でも、何か匂いますけど」


 声が、人混みの向こうに消えていった。


 ナディールはその後ろ姿を見送った。


 匂う?


 この王女がそう言う時——大抵、本当に何かがある。


 ◇


 数日前。エアル国立銀行の一室。


「穴あけ機は何とでもなりますが、手回し計算機は調整に時間がかかりますよ。そう何台もは」


 職人が困り顔で言っていた。


 アルヴィンが頭を掻く。「そうだよなぁ。不具合が出たら使い物にならないし」


「どうしたんですか?」


 廊下を急ぎ足で通りかかったフェルディナントが、書類を抱えたまま顔をのぞかせた。


「よっ、財務卿代理!」


 アルヴィンが声をかける。廊下の奥からヴィトゥスが口笛を吹いた。


「茶化さないでください」フェルディナントが眉をひそめた。「こっちは調印式の準備で手いっぱいなのです」


「それだよ」アルヴィンが腕を組んだ。「南街道の共同開発が決まったのなら、リミニに計算機を売らない訳にもいかないだろう。アルカディアにも迷惑をかけたし」


「……それはそうですね。友好の証として、ぜひ」


「売るなら出来るだけ高く売りたい。理屈が分かれば自分たちで作るだろうから、最初のロットはたくさん作って高く売る」


「だからそんなにたくさん作れませんって」職人が即座に返した。


「そこを何とか」


「何とかなりませんよ」


 アルヴィンがまた頭を掻いた。フェルディナントが呆れたような顔で廊下に戻っていく。ヴィトゥスの口笛がまだ響いていた。


 ◇


 南街道の開発が始まった。


 人が集まり、資材が運び込まれた。秋の収穫期が近づいていたが、屯田兵契約で雇われた傭兵たちが各地に溢れているこの国では、労働力の心配はなかった。「農業をしているだけ」の彼らが工事現場に動き始めると、一日で道の形が変わっていく。


 人が集まれば、商売が生まれる。工事現場の近くに、食事を提供する屋台が立ち、宿の看板が出た。まだ工事の槌音が続く中、小さな町が芽吹こうとしていた。


 南街道が国に血を巡らせようとしていた。


 ところが、その頃から、銀行の数字が少しずつおかしくなっていった。

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