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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第63話 交わらぬ思惑

婚礼が決まった。

その事実は、誰かが高らかに告げたわけでもなく、どこか一か所で明確に宣言されたわけでもない。

けれど、宮中という場所では、決定とは常にそういう形で広がる。

上でひとたび定まれば、下は自然にそれを察し、それぞれの持ち場で必要な準備を始める。

口にされる前から空気が変わり、まだ書面が届かぬうちに、人の足取りと視線が少しずつ変わっていく。


その日の朝も、外の空気は穏やかだった。

風は強くなく、庭木の枝先がかすかに揺れる程度で、日差しもきつくない。

だが、静かな宮中のあちこちで、人の動きだけが目に見えぬ速さで変わり始めていた。

女官たちは必要以上に言葉を交わさず、それでも互いの表情から何かを読み取っている。

内官たちもまた、命が正式に降りる前から、どの帳簿が動き、どの倉が開くかを頭の中で並べていた。


婚礼が進む。

その前提が共有されるだけで、場はもう後戻りしない。


最初にその決定を確かな形で持っていたのは、大妃と左議政だった。


大妃は感情で婚礼を決めたわけではない。

民娥という娘に対する情や期待など、最初から判断の中心には置かれていない。

あるのは、使えるか使えぬか、その一点だけだった。


奇行は続いている。

棒を振る姿は今でも目撃される。

声を上げることもある。

けれど、その一方で怪我人は出ない。

壊れる物もない。

以前のように付人が泣きながら逃げることもなくなった。

周囲に残るのは、奇妙だという印象だけで、害そのものは薄れている。


噂は荒れている。

だが、その矛先は錦城金氏へ向かっていない。

女官の教育がよくなったのだという話になり、あるいは唐順希の礼の取り方へ目が向く。

民娥の荒さがそのまま一族の恥になる形では流れていない。


それは、大妃にとって都合がよかった。


表向きに問題が減り、しかも責任が自分たちの上へ積み上がらぬ。

この時点で流れを止める理由は薄い。

むしろ止めることで、なぜ今止めたのかという別の疑念を生む。


だから大妃は迷わなかった。


「婚礼を進めよ」


その一言は、感情ではなく配置だった。

流れを固定するための判断であり、今ある曖昧さを制度の中へ押し込むための命でもある。


今ここで婚礼を進めれば、民娥は正室候補という曖昧な位置から、一歩先へ進む。

まだ婚礼前であっても、もはや単なる候補ではなく、正室となる女として扱われる時間が増える。

それは守られる側へ移ることを意味した。


守られるということは、同時に勝手な処分がしづらくなるということでもある。

気に入らぬから切る、都合が悪いから退ける、その判断が以前ほど容易ではなくなる。

だが大妃は、それでもよいと考えた。


使えるうちは使う。

線を越えれば切る。

その順序が崩れぬ限り、大きな問題ではない。


一方で、左議政である錦城金氏当主の思惑は、より露骨だった。


民娥は駒だ。

出来が良かろうと悪かろうと、王家と結びつく駒であることに変わりはない。

それだけで価値がある。


だが最近、その駒の動きが妙に整っている。


奇行は残る。

だが無駄がない。

暴力はない。

それでも周囲は動く。

女官の評価が上がり、唐順希への目が変わり、池の件まで別の形で語られ始める。


偶然にしては、出来すぎていた。


左議政はその変化を完全には信じていない。

だが否定もしきれない。

もし民娥が考えて動き始めているなら、それは危うい。

読みづらい駒は盤の上で予測を外す。


だからこそ婚礼を進める。


王家に入れてしまえば、自由は減る。

名目は祝福でも、本質は拘束だ。

婚礼とは人を飾る儀式であると同時に、逃げ道を閉じる制度でもある。


家にいるより、宮中に入った後の方が、見る目も手も増える。

誰と話し、何を考え、どこへ視線を向けたかまで、以前より細かく拾われる。


左議政にとって必要なのは、民娥を守ることではない。

逃げ場をなくすことだった。


もし賢くなり始めているなら、なおさら外へ出すべきではない。

王家という形へ結びつけてしまえば、動く範囲は狭まる。

その判断に迷いはなかった。


そして、その決定を聞いた世子・龍義秀は、表情を変えなかった。


知らせを受けた場所は外だった。

池の近く、木陰の差す静かな一角で、風の音だけが遠くを流れている。

手元にあった文書へ目を落としたまま、世子はほんのわずかに視線を止めただけだった。


驚きもない。

喜びもない。

ただ胸の奥で、静かに一つ確認する。


やはり、そう来たか。


金民娥の最近の変化。

唐順希との対比。

噂の流れ。

そのどれもが、婚礼を進める理由にはなる。


だが世子には、それだけではないものも見えていた。


この婚礼は、安心のためではない。


誰かが急いでいる。

誰かが、早く形にしたがっている。


それが大妃なのか。

左議政なのか。

あるいは、その両方か。


流れを止めずに制度へ押し込む時、人はたいてい、見えぬ不確かさを嫌っている。

世子にはその匂いがあった。


目の前の結果だけを見れば、金民娥は以前より扱いやすい。

だが、それでも急ぐ。

それは、扱いやすくなったからではなく、変化の意味がまだ読めぬからだ。


その場には二人の側近もいた。


弘文館校理、朴紘範。

左副承旨、尹怜。


二人とも婚礼決定を聞いた時、表向きは何も変えなかった。

だが胸の内では、それぞれ別の線を引いていた。


朴紘範は、内心で眉をひそめる。


早すぎる。


政治として見れば合理的だ。

錦城金氏との結びつきを保ち、表向きの流れも乱さない。

だが金民娥の動きに変化が見え始めたこの段階で、あえて固定する。


封じに来た。


それが朴紘範の結論だった。


見え始めた変化を育つ前に枠へ入れる。

自由に観察するより、先に位置を決める。

その発想は、恐れがある時に出やすい。


朴紘範は金民娥を高く評価しているわけではない。

だが、最近の動きが単なる偶然で済むとは思っていなかった。

だからこそ、この婚礼決定は早いと感じる。


一方、尹怜は少し違う視点で見ていた。


逃がさないためか。


あるいは。


婚礼は拘束だ。

だが同時に、立場を与える。

名が決まり、位置が定まる。

それは守りにもなれば、武器にもなる。


もし金民娥が本当に考えて動いているなら、正室という位置は以前より強い足場になる。

何も持たぬ娘が礼を重ねるのと、世子の正室となる女が礼を重ねるのでは、周囲の受け取り方が変わる。


与えてよいのか。

それとも、与えたからこそ制御できると思っているのか。


尹怜はまだ答えを出していなかった。


世子は、二人の沈黙からそれぞれの考えが動いていることを感じ取っていた。

だからこそ、静かに言う。


「婚礼は決まった。だが、すべてが決まったわけではない」


短い言葉だった。

だが、それは確認であり、命令でもあった。


婚礼が決まったからといって、見るのをやめるわけではない。

むしろ、ここから先の方が重要だという意味だった。


大妃と左議政は、縛るために婚礼を進める。

世子は、見極めるためにそれを受け入れる。

朴紘範は、何が封じられようとしているかを見る。

尹怜は、与えられる位置が何を変えるかを測ろうとしている。


同じ婚礼という言葉を前にして、誰一人、同じ未来を見てはいなかった。


だが、それでも流れは止まらない。


宮中では、止める理由より、進める理由の方がひとたび整えば、それを覆すのは難しい。

しかも今回は、表向きに破綻がない。

金民娥は暴れながらも怪我をさせず、唐順希は礼を変えず、噂は自然に形を変えている。


誰かを強く責めるには材料が足りない。

だからこそ、制度だけが先へ進む。


風が枝を揺らした。

池の水面に小さな波が広がる。


世子はその揺れを見ながら思う。


止める者は、もういない。


だが、進むことと、定まることは同じではない。


婚礼は決まった。

しかし、その先で何が交わり、何が食い違うのか。

まだ誰にも見えていなかった。


水面の上では静かに輪が広がる。

その下で、それぞれの思惑は互いに触れぬまま、別々の方向へ流れ始めていた。


* * * *


民娥は棒を振り下ろす日々を繰り返している。


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