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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第62話 静かな水面の下

大妃の居所は、その日も変わらぬ静けさに包まれていた。

外の光はやわらかく障子を抜け、床の上へ淡い明るさを落としている。

香の匂いも強すぎず、ただ部屋の奥に薄く残る程度で、心を緩めるためというより、思考を乱さぬために整えられた空気だった。

ここでは余計な物音も、余計な色も、感情を散らすものとして削がれている。

静かであること自体が、この場所の秩序だった。


その正面、やや低い位置に、左議政であり錦城金氏の当主でもある男が控えていた。

背筋は伸び、袖の乱れもない。

視線は落としているが、気を抜いている様子はまったくない。

一族の中心として権勢を誇る立場にありながら、大妃の前では必要以上に大きく見せない。

その抑えた姿勢そのものが、彼の慎重さを示していた。


しばらくは、言葉がなかった。

だがそれは答えに窮しての沈黙ではない。

互いに、何が問題であるかをすでに知っている者同士の静けさだった。

今さら前置きで探り合う必要はない。

どこから切り出すかだけが問題だった。


先に口を開いたのは大妃だった。


「噂が、ずいぶん形を変えているようだな」


声は穏やかだった。

問いではない。

確認でもない。

すでに把握した上で、その認識を共有させるための言葉だった。


「はい」


左議政は短く応じる。

余計な飾りは入れない。


「奇行は続いておりますが、被害は皆無です。女官の教育の成果だという見方が、内の者どものあいだで広がっております」


大妃は目を伏せたまま、香炉のそばに置いた指先をわずかに動かした。


「女官が出る、か」


「はい」


「都合がよいな」


その言葉に、皮肉はほとんど乗っていなかった。

ただ構図を見ている声だった。


「責は下へ落ち、評価もまた下へ集まります」


左議政の返答にも感情はない。

誰が得をし、誰が表へ出るか。

それだけを見ている。

だからこそ、この男の思考は速い。

善悪ではなく、流れとして捉えているからだ。


大妃はしばし黙った。

外では風が枝先を揺らしたのか、わずかに葉のこすれる音がして、それもすぐに消える。

部屋の中は再び静けさを取り戻した。


「問題は、挨拶の噂だ」


低くそう言って、大妃はようやく視線を上げた。


「唐の娘が、ずいぶん悪く言われている」


「民娥が、丁寧すぎるほど丁寧に振る舞っているためです」


左議政の答えは簡潔だった。

そこに私見は混ぜない。

あくまで、今表へ出ている現象だけを述べる。


「民娥が」


その一語だけ、大妃の声にわずかな揺れが生じた。

ほんの短い反応だったが、それだけで十分だった。

意外だと感じたのだ。

だがその揺れもすぐ消える。

大妃は感情を引きずらない。


「順希は、変えなかったのだな」


「はい。礼の取り方は一貫しております」


「軽いままか」

「身分に応じた深さではありません」


それを聞いて、大妃は黙り込んだ。

指先が香炉の縁を離れ、床の上で静かに重なる。

思考がさらに内側へ潜った時の癖だった。


しばらくして、大妃が低く言う。


「池の件まで、結びついたか」


「はい」


左議政も同じ温度で返す。


「無視された唐の娘が腹を立て、池のそばで揉めた。そこから、唐の娘が突き落としたのではないかという噂まで出ております」


大妃の眉がわずかに寄る。

それは驚きではなく、愚かしさを見る時の反応に近かった。


「愚かだな」


その一言が誰へ向けられたものか、左議政には分かっていた。

唐順希自身なのか。

それとも、その程度の話を真実らしく膨らませる周囲なのか。

あるいは両方か。

大妃は説明を要しない物言いをする。


左議政は言葉を慎重に選んだ。


「大妃様、これは」


そこで一度区切る。

言葉の角度を誤れば、自らの立場を危うくする問いだった。


「こちらの想定通りと見てよろしいでしょうか」


大妃はすぐには答えなかった。

香炉から立つ薄い煙を見つめ、その揺れを目で追う。

煙は形を持たず、上へ向かって細く消えていく。

その流れを数えるように指先がわずかに動いた。


「想定より、静かだ」


やがて、大妃はそう言った。

左議政は顔を上げずに待つ。

この先が本題だと分かっている。


「血も出ぬ。物も壊れぬ。誰も露骨には責められぬ」


大妃の声は静かだった。

だがその静けさが、かえってこの事態への警戒を強くにじませていた。


「しかし、噂は確実に流れております」


左議政が応じる。


「それが厄介なのだ」


大妃ははっきりと言った。

そしてそのまま、左議政へ視線を向ける。


「指示した覚えはない。だが、指示したかのように見える」


その言葉に、左議政の目がわずかに細くなる。

一族の力が及ぶ範囲なら把握している。

だが今起きている流れは、確かに錦城金氏の意に沿って見えながら、誰がどの段で手を入れたのかが見えにくい。


「民娥自身の判断、とお考えですか」


その問いに、大妃は首を横へ振った。


「断定はできぬ」


すぐに否定しないのは、可能性を捨てきれないからだ。

左議政もそこを読み取る。


「だが、女官の教育だけで、ここまで均整の取れた変化は起こらぬ」


奇行は残る。

だが害は消える。

立場は崩さぬ。

その上で、相手だけが噂の中で崩れていく。


露骨ではない。


血も流れない。

誰かが命じた痕跡もない。

それでいて結果だけは確実に出ている。

大妃は短く言った。


「賢すぎる」


左議政は黙った。

その一言の意味は重い。

賢いという評価でありながら、同時に警戒だった。

使える駒は便利だ。

だが、考える駒は時に盤そのものを乱す。

大妃が見ているのはそこだった。


「賢い女は、扱いづらい」


その言葉には苛立ちよりも、計算を狂わされることへの冷えた警戒があった。

左議政は大妃の意図を読み取りながら、次に問うべきことを選ぶ。


「では、婚礼は」


最も重要な確認だった。

ここで流れを止めるのか、進めるのか。

その判断ひとつで、周囲の見方も変わる。


大妃は迷わなかった。


「進める」


即答だった。


「流れはこちらにある。今止めれば、余計な疑念を呼ぶ」


正室候補の話がここまで動き、民娥に関する噂も、唐順希に関する噂も広がったこの段で婚礼を止めれば、誰もが理由を探し始める。

なぜ今なのか。

何を隠すのか。

その疑念の方が、よほど厄介だ。


大妃は静かに結論を重ねる。


「民娥が何を考えていようと構わぬ。使えるうちは、使う」


左議政は深く頭を下げた。

その返答には一瞬の迷いもない。

一族にとって必要なのは、感情ではなく配置だ。

使えるなら使う。

それは彼自身の考えとも一致していた。

だが、大妃の言葉はそこで終わらなかった。


「ただし」


低く、きっぱりと付け加える。


「一線を越えたら、切る。それは以前と変わらぬ」


その声音に曖昧さは一切なかった。

民娥が賢く立ち回ろうと、役に立つように見えようと、使うに値する限度がある。

その線を越えれば、ためらいなく切る。

それが大妃という人間だった。


静けさが戻る。


だが先ほどまでの静けさとは違う。

今この部屋にある沈黙は、結論の後に残るものだった。

決まった方針が空気に沈み、その重みだけがその場を満たしている。


左議政は頭を下げた姿勢のまま、内心で流れを整理していた。

婚礼は進む。

民娥は切られない。

少なくとも今すぐには。

だが、信用されたわけではない。

むしろ以前より注意深く見られることになる。


唐順希についても同じだった。

今この場で名指しの断罪が下るわけではない。

だが噂がこのまま育てば、周囲の目は確実に変わる。

正室候補へ軽い礼を続けた娘。

池の件に影を落とす娘。

その印象は、一度つけば薄くなりにくい。


大妃は再び香炉の煙へ視線を戻していた。

煙は相変わらず細く立ち上り、形を変えながら消えていく。

それは噂に似ていると、大妃は思ったかもしれない。

見えているようで掴めない。

手で押さえようとすれば、むしろ散る。

だが放っておけば、部屋全体へ染みる。


「本当に恐ろしいのは」


そう口にしかけて、大妃は途中で止めた。

わざわざ言わずとも、左議政には通じると判断したのだろう。

その沈黙の先を、左議政も理解していた。


恐ろしいのは、水面に見える波紋そのものではない。

波を立てた者でもない。

水の下で、どこから流れを変えているのか、その手が見えぬことだ。


民娥なのか。

誰か背後にいるのか。

錦城金氏の思惑と偶然重なっただけなのか。

今の段階では、まだ掴みきれない。


大妃も、左議政も、そこまでは見通せていなかった。


だが見えぬからといって、何もできぬわけではない。

進めるべき流れは進める。

止めるべき時だけ止める。

それがこの場で下された結論だった。


外で風が少しだけ強くなった。

障子に落ちる木の影が揺れる。

部屋の中の静けさは崩れない。

ただ、見えぬところで空気が動いていることだけが分かる。


左議政はようやく顔を上げた。

大妃の表情は変わらない。

静かで、柔らかく、何も乱れていない。

だがその内側では、すでに次の配置が組まれている。


民娥を使う。

婚礼を進める。

だが越えたら切る。


簡潔だ。

そして残酷なほど明確だった。


左議政は再び深く頭を下げる。


「承知いたしました」


その声が消えると、部屋はまた静寂へ戻った。

香の匂いも、光の柔らかさも、先ほどと何も変わらない。

けれど、その静けさの底にはもう、はっきりとした警戒が沈んでいる。


噂は水面に広がる波紋のように見える。

だが本当に見るべきは、その下だ。


誰が流れを読んでいるのか。

誰が流れを使っているのか。

そして、誰がまだ姿を見せずにいるのか。


その答えを、大妃も左議政も、まだ手にしてはいなかった。

だからこそ、今は止めない。

静かに進める。

その先で、正体の見えぬ手がもう少し輪郭を持つまで。


* * * *


民娥は今日も棒を振り続けるのだった。

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