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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第48話 太さが足りない!

障子がそっと開き、ソヨンが戻ってきた。

先ほどよりもさらに慎重な動きで、戸が軋む音さえ立てまいとしている。

両手で抱えるように持っているのは一本の棒だった。


細く、まっすぐで、表面はきれいに磨かれている。

木目は整い、余計な節もない。

軽そうで、手に取ればしなりもありそうだった。

武具というより、物を指したり、軽く払ったりするための道具に近い。


「これで、よろしいでしょうか?」


遠慮がちな声だった。

命じられた通り急いで探してきたのは分かる。

だが何に使うのか理解しきれぬまま持ってきたことも、その声色だけで伝わる。


民娥はすぐには答えなかった。

棒へ視線を落としたまま、ほんのわずか沈黙を置く。


この間が大事だった。

言葉より先に、相手へ不安を広げる。

返答を待つ時間が長いほど、持ってきた側は自分の判断を疑い始める。


民娥はやがて、ゆっくり顔を上げた。


「細すぎる」


「えっ?」


短い返答が漏れる。


予想していなかったのだろう。

褒められるとも思っていなかっただろうが、即座に否定されるとも考えていなかった顔だ。


「細いって言ったの!」


民娥は棒を指で示す。


声音は低い。

低いが、そこに冷えた刃のようなものを混ぜる。


「何に使うと思って持ってきたの?」


問いの形を取っていても、答えを許す空気ではない。


それでもソヨンは沈黙を選ばなかった。

口ごもりながらも、正直に答えようとする。


「ふ、ふくらはぎを・・・・叩くのに・・・・ちょうどよいかと・・・・」


その言葉を聞いた瞬間、民娥の眉がわずかに動いた。


「はぁ?」


声になりきらない短い音だけが落ちる。


ふくらはぎ。


つまり、立たせて叩くことを想定した。

しかも軽く響かせる程度の棒だと思っている。

その発想自体が、この宮の空気をよく表していた。


命じる側の理不尽を、受ける側がすでに前提として理解している。

だから用途を問われても、自然にそう答える。

民娥は一瞬だけ、思考の奥で別のものを拾い上げる。


(ああ)


(そうだった)


(この器・・・・)


思い返せば、周囲の怯え方がそれを証明している。

言葉一つで女官が硬直し、視線だけで空気が止まる。

少し強く出れば、それだけで相手は打たれる前提で考える。


つまり普段からそうなのだ。


棒を持ってこいと言われた瞬間に、叩く用途を想像するくらいには。


その認識が一瞬で腑に落ちた。

次の瞬間、民娥は迷わず演技を切り替える。


「こんなの使えるわけないでしょっっ!」


怒声が部屋に響いた。

先ほどまで低く抑えていた声を一気に跳ね上げる。

音量だけではなく、角度も変える。


真正面からぶつけるように放つと、狭い室内では想像以上に響いた。


ソヨンの肩が目に見えて跳ねる。


体が反射で縮む。

民娥はその反応を見ながら、棒をひったくるように手に取った。

軽い。

確かに軽い。


これでは見た目の迫力が足りない。


そのまま床へ向けて振り下ろす。


ガン、と乾いた音が鳴った。


床板へ棒が当たり、響きが一拍遅れて返る。

室内の静けさがあった分、その音だけが妙に大きく感じられた。


ソヨンの呼吸が止まる。


「やり直し!」


吐き捨てるように言う。


民娥はその勢いのまま立ち上がった。

寝込んでいた者の動きではない。

だがそれも計算のうちだった。

病み上がりの苛立ちで勢いが戻る、そう見せれば不自然ではない。


「もっと太いの持ってきなさい」


さらに声を荒げる。


「これじゃ話にならない!」


怒りの理由は理不尽でいい。

理屈が通っていなくても構わない。

むしろ通りすぎる方が民娥らしくない。


ソヨンは完全に固まっていたが、命令が重なると反射で体が動く。


「は、はい」


声は裏返りかけている。

顔も青ざめている。

だが足は止まらない。


頭を下げる余裕すらなく、棒を置いたまま踵を返し、ほとんど逃げるように戸口へ向かう。

裾が少し乱れ、手が戸に触れる角度まで焦りが見える。


障子が閉まる音が、今度は先ほどより大きく響いた。


静けさが戻る。


民娥はその場で深く息を吐いた。


胸の奥に残るのは怒りではない。

むしろ冷静さだった。


(よし)


(今のは、合格)


声量。

動作。

理不尽さ。

どれも十分だった。


少なくとも外で聞いていた者がいれば、ああ戻ったと思うだろう。

寝込んでいた民娥が、少し元気を取り戻した途端に棘も戻した。

その程度の印象は残る。


床へ転がった細い棒を見下ろす。


軽くて、細くて、頼りない。

持った瞬間にそう感じた通りだった。


だが足りないのは棒だけではないと、民娥は内心で静かに思う。


(太さが足りないのは、棒だけじゃない)


(覚悟も、認識も。全部)


ソヨンはまだ分かっていない。

自分の側へ置かれる意味も、これから求められる役も、半分も理解していない。


命じられたから従う。

怖いから従う。

今はその段階だ。

だが、それだけでは足りない。


民娥のそばに置くなら、空気を読み、合図を拾い、人前で自然に動けなければならない。

少しずつ慣らす必要がある。

そのためにはもう少し派手でもいい。


小さく整えるだけでは周囲の記憶に残らない。

戻ったと印象づけるには、耳にも残る方が早い。


次はもう少し強く。

そう決める。


民娥は立ったまま肩を軽く回した。

さっき棒を打ちつけたときの反動を確認する。

腕は問題なく動く。

握力も戻っている。


寝込んでいたふりを続けたせいで、逆に関節の動きがよく分かる。

不調はない。

だからこそ、荒れた演技にも余裕がある。


卓の上には茶器だけが残っていた。

菓子はもうない。

ソヨンに食べさせたから当然だ。


さきほどまで世子がいた痕跡も、今は静けさだけになっている。

その静けさの中で、自分だけが次の場面を組み立てていた。


棒一本でここまで怯えるなら、まだ扱いやすい。

問題は、この怯えをどう使うかだ。


ただ恐れさせるだけでは長く持たない。

怯えすぎれば動けなくなる。

少しだけ先を読ませ、少しだけ安心させ、そのうえで揺らす。

その方が人は離れにくい。


民娥は床の棒を拾い上げ、軽く振ってみた。

やはり細い。

しなりが強く、見た目ほど響かない。


これでは見せる道具として弱い。

床へ打つ音も軽い。

迫力が足りない。


もっと太いもの。

少し重みがあり、床へ落としただけで響くもの。

それくらいの方が、周囲へ与える印象は強い。


戸の向こうで足音が慌ただしく近づく気配がした。

ソヨンが戻ってくるのだろう。

今度は急いで探した分、呼吸も乱れているかもしれない。


民娥は棒を床へ戻し、表情を切り替える。


静かな顔から、少しだけ苛立ちを含んだ顔へ。

眉をわずかに寄せ、口元の力を抜かない。

視線は戸へ固定する。


次に入ってきた瞬間、どう言うか。

どこまで強く出るか。

それを一呼吸のあいだで整える。


快復した民娥。


だがまだ機嫌が不安定で、理不尽さも戻っている。

その像を少しずつ濃くする。


違和感なく、自然に。

人が勝手に昔の印象へ寄せてくれるように。


戸口へ目を向けたまま、民娥は静かに待った。

次の棒と、次の反応を。


その先で必要になる次の演技まで、すでに頭の中では並び始めていた。

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