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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第47話 共犯者の指定

「ソヨン」

低く短く呼ぶと、返事を待つまでもなく、控えめに開いた戸の向こうの気配が一瞬凍りついた。

今の声色だけで、呼ばれた側が何を感じたか、おおよそ見当がつく。

さきほどまでこの部屋には世子がいた。

その余韻が空気にまだ残っている以上、緊張しない方がおかしい。


「はい」


戸がさらに開き、ソヨンはすぐに中へ入り、畏まった動作で膝をついた。

頭を下げる角度も手の置き方も、普段より少しだけ固い。

肩にも余計な力が入っている。

世子を送り出した直後の部屋へ呼び戻されるのだ。

叱責を予想していても不思議ではない。


民娥はその様子を黙って見た。

目の前の女が怯えているのは分かる。

だが今必要なのは、慰めでも説明でもなく、まず従わせることだった。


「近くに来て。座って」


「こちらに、ですか」


「そう」


民娥は自分のすぐ脇を、指先で軽く叩いた。

卓を挟んで控えるのではなく、手を伸ばせば届く距離。

主従としては近すぎる。

普段ならまず許されない距離だ。


ソヨンは一瞬だけためらった。

視線がわずかに揺れ、確認するように民娥の顔を見て、それからすぐに伏せる。

命令と分かれば逆らう余地はない。

そっと身を寄せ、遠慮がちに腰を下ろした。


民娥はその動きが収まるのを待ってから、卓の上を指した。

そこには茶器と、食べ残された菓子が置かれている。

世子が口をつけ、自分も一口だけ食べ、それきり手を伸ばさなかった菓子だ。

形は崩れていないが、場の空気を吸って、もう見舞いの品という顔ではなくなっている。


「それを全部食べなさい」


「えっっ?」


ソヨンの目がわずかに見開かれた。

驚きは隠しきれないが、声を荒げることはしない。

まず戸惑い、次に理由を探ろうとする顔になる。

それでも民娥は説明を加えなかった。


「食べろって言ったわよ」


声は静かだった。

静かな分だけ温度がなく、拒みづらい。

言い含める調子ではなく、命じているだけの声音。

そのまっすぐな視線が、逃げ道を先に塞いでいた。


「ですが、これは・・・」


「余ったものは捨てるの?」


「い、いえ」


答えは反射に近かった。

宮中で菓子がどれほど手間をかけて作られるか、ソヨンはよく知っている。

材料も技も、庶民の口にはそうそう入らない。

捨てるなど、軽々しく口にできることではない。


民娥は内心で小さく息を吐く。

考えていたことは単純だった。


もったいない。


それだけだ。

毒でも呪いでもない。

ただの菓子で、食べられるものだ。

しかもこの時代では十分に高価な部類へ入る。

手をつけたからといって、残りをそのまま捨てる理由が民娥には分からない。

世子の残したものだから畏れ多い、などという感覚も、民娥の中では優先順位が低かった。


食べられるものなら食べればいい。

残すくらいなら片づける。

それが民娥の感覚であり、ここでは異質に映ると分かっていても変える気はなかった。


「食べなさい」


もう一度、低く言う。

今度は言葉に迷いがなかった。


ソヨンはためらった。

ためらいながらも、民娥の顔を一瞬だけ見て、すぐに視線を落とす。

断れる気配ではないと悟ったのだろう。

震える手で菓子をつまみ、口へ運ぶ。


小さく噛む。

飲み込む。

続けてもう一口。

その喉が上下するたび、民娥は何も言わず見ていた。

急かしもしない。

だが見ているだけで十分だった。

見られながら食べるという行為そのものが、命令の強さを何度も思い知らせる。


「全部」


「はい」


短い返事は、ほとんど諦めに近い。

ソヨンは文句を言わなかった。

泣き言も挟まない。

ただ命じられた通り、残っていた菓子を少しずつ口へ運んでいく。


食べる姿はどこかぎこちない。

遠慮なのか緊張なのか、味わう余裕はなさそうだった。

それでも手を止めないのは、止めれば次に何を言われるか分からないからだろう。

民娥はその慎重さを見ながら、この女は思ったより使えるかもしれない、と静かに考える。


最後のひとかけらが消え、喉が一度だけ鳴る。

それを確認してから、民娥はようやく口を開いた。


「いいこと?」


「はい」


「これから、あなたは私と必ず行動を共にしなさい」


命じられた瞬間、ソヨンの背筋が目に見えて強張った。

意味を飲み込むまで、ほんのわずか間がある。

それは単なる付き添いではなく、常時そばにいろという指示だ。


「外でも、部屋でも。例外はなし」


「承知しました」


返答は早い。

だが固い。

何を警戒すべきかまだ分からないまま、命令だけを受け取っている顔だった。


「それから・・・・」


民娥は少しだけ身を乗り出した。

距離をさらに詰めると、ソヨンの肩が無意識にこわばる。

その反応を見届けてから、民娥は声を落として続けた。


「いつもなら暴れるところになったら、教えなさい」


「え?」


今度の驚きは先ほどより大きかった。

意味を飲み込めないまま、視線だけがわずかに上がる。

それでも民娥は言葉を止めない。


「そして躊躇なく止めること。私が怒りそうになったら、部屋に戻ってからにするよう促しなさい」


「ですが、それは」


「迷わないこと」


声を重ねて、ソヨンの言葉を切る。

説明の主導権を渡す気はない。

今ここで必要なのは理解そのものより、まず従うことだった。


「いつも通りに見せるのは、あなたの役目」


その言葉で、ようやく少しだけ伝わったらしい。

ソヨンの表情に、戸惑いとは別の種類の緊張が浮かぶ。

民娥が求めているのは単純な補佐ではない。

人前での振る舞いを整える補助役だと気づいたのだ。


民娥は内心で整理していた。

寝込んでいたあいだは静かにしていればよかった。

だが、ずっとそれでは不自然になる。

快復したあとも大人しくしている方がよほど怪しい。

少しずつ元の荒さを戻し、人に見せる顔を整えなくてはならない。


そのためには、一人では足りない。

周囲へ見せる流れを支える相手がいる。

荒れそうな空気になれば、その兆しを拾う相手が必要だ。

強く出かけた時には、その場を切る役も要る。

人前で崩れかけても、途中で引かせる方が自然だった。


そして、いちばん都合がいいのがソヨンだった。

民娥の側にいても違和感がなく、細かい指示にも従わせやすい。

怯えはあっても、口が軽そうではない。

少なくとも今のところは。


沈黙のあと、ソヨンは小さく頷いた。


「分かりました」


その返事を聞いて、民娥はそこで初めて少しだけ力を抜いた。

満足でも不満でもない、ただ次へ進めると判断した顔で頷く。


「よろしい」


そして間を置かず、次の指示を出す。


「棒を一本。適当なやつでいいから持ってきて」


「棒、ですか?」


「早く」


「はい」


ソヨンは慌てて立ち上がった。

膝をついていたせいで一瞬だけ足がもつれそうになり、それでもすぐに体勢を立て直して戸口へ向かう。

余計な問いを飲み込んだのが後ろ姿だけで分かった。

戸が開き、閉まる。

音は控えめだったが、静まり返った室内ではそれでも十分に響いた。


一人になると、民娥はようやく深く息を吐いた。

肩をゆっくり回す。

首を左右へ傾ける。

固まっていた筋肉をほぐすように動かし、そのつど可動域を確かめる。


身体に問題はない。

熱もない。

痛みもない。

寝込んでいたふりをしていたせいで、むしろ余計な力みが抜けたくらいだ。


立ち上がる。

数歩、部屋の中を歩く。

足裏にかかる重みを確かめ、膝を曲げ、腕を振る。

肩から先の動きも滑らかだ。

足を踏み鳴らしてみても、ふらつきはない。


「外から見たら」


小さく息を漏らし、独り言のように呟く。


「一人で暴れてるように見えるかもね」


言葉は軽いが、頭の中では次の場面がすでに組み上がっていた。

どこで声を荒げるか。

何を理由にするか。

誰の前でなら自然か。

病み上がりの不安定さを残しつつ、元の性質が戻ったように見せるにはどう動くべきか。


民娥は部屋の中央で立ち止まり、卓の上を一瞥する。

菓子はもうない。

茶器だけが残り、さっきまでの見舞いの名残をかろうじて示している。

その静かな室内で、民娥の思考だけが先へ進んでいた。


弱って見せる時期は終わりつつある。

次は戻る時期だ。

ただし、戻り方を誤れば不自然になる。

急に以前のようになれば芝居臭い。

大人しすぎても疑われる。

だから段階がいる。

揺れがいる。

きっかけがいる。


ソヨンに棒を持ってこさせたのも、その準備の一つだった。

別に誰かを本気で打つつもりではない。

だが手に持つものがあるだけで、動きには説得力が生まれる。

苛立ちを形にする小道具として十分だ。

放り出すのか、床を打つのか、ただ握るだけにするのかはその時決めればいい。


民娥は自分の手を見下ろした。

指先は震えていない。

冷静なままだ。

だからこそ使える。

感情で荒れるのではなく、荒れて見せることができる。


外から足音が近づく。

ソヨンが戻ってくるのだろう。

民娥は表情を少しだけ崩し、わずかに苛立ちを帯びた顔へ切り替える。

静かなだけの顔では足りない。

次に始まるのは、快復とともに棘を取り戻した民娥の姿だ。


そうやって一つずつ、人に見せる顔を整えていく。

誰にも悟らせず、違和感だけを消していく。

民娥は戸の方を見やりながら、次の演技の輪郭を静かに固めていた。


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