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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第109話 雑草の味

未の刻を半分過ぎた頃、左副承旨・尹怜と、弘文館校理・朴紘範は、まとめた案を携え東宮殿へ向かっていた。


午前中と同じ場所で、二人は静かに姿勢を整え、世子を整え待っていた。


やがて護衛を伴った、世子が姿を現した。


朴紘範は前へ進み出ると、整えた文書を両手で差し出す。


世子は受け取り、静かに目を通していった。


風が池の水面を撫でる。


紙をめくる音だけが、小さく響いていた。


しばらくして世子が顔を上げる。


「明日、正式な文書に整え、便殿へ出せ」


視線は尹怜へ向けられていた。


尹怜は深く頭を下げる。


「かしこまりました」


世子はさらに問う。


「この後はどう動く」


尹怜は答えた。


「白俊と弟子見習いが滞在している宿の状況を確認してまいります」


「定期的に見ておけ」


「承知いたしました」


世子は短く頷いた。


二人は礼を取り、その場を後にする。


池のほとりを歩きながら、朴紘範が静かに口を開いた。


「少し顔色が戻りましたね」


「そう見えるか」


「午前よりは」


尹怜は答えなかった。


だが足取りは、確かに朝より軽かった。


 * * * *


宮廷を出た後、尹怜は一度私邸へ戻った。


官服のままでは目立つ。


簡素な外出着へ着替えると、そのまま白俊たちの滞在する宿へ向かった。


白俊とヨリの部屋へ入ると、なんとも穏やかな雰囲気だった。


二人が卓に向かって、布製の碁盤を卓の上に広げ、黒と白の石で遊んでいたのだった。


疫病対策の真っ只中、二日後では遅いと言っておきながら、だ。


尹怜はその光景を見て、自然と眉間に皺を寄せていた。


よく見ると白俊は険しい顔をして、腕を組んでいた。


ヨリは盤上の最終形を帳面へ書き写している。


ヨリは最後の記録を優先しているようだった。


尹怜の片眉がぴくりと動き、明らかに不機嫌な顔になった。


あからさまに無視され、邪険に扱われた気がしたのである。


「もう一回」


白俊は、近くにいる尹怜などお構いなしに、そう言った。


部屋の中には石を置く音だけが響き、時間は淡々と進んでいく。


結果は、すべて白俊の敗北だった。

一度も形を崩せず、最後まで主導を握られたまま終わる。


白俊は盤を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。

ここまで完璧に打ち砕かれたのは、かなり久しぶりのことだった。


"勝つ気あるんですか"


ヨリは白俊に帳面を見せていた。


過去に二人、自分を同じようにうちのめした相手がいたことを思い出す。

記憶の中で、その声が自然と重なる。


「勝つ気ある〜?」


と笑いながら言う女医の顔。


「お前、勝つ気あるのか?」


と真顔で問いかけ、そのまま去っていった同僚の姿。


(二人ともおなじこと言うとったな)


白俊は小さく苦笑し、現実へと視線を戻す。


目の前ではヨリがすでに次の動作に移っていた。


石の配置を一つも崩さず、正確に記録し帳面へ丁寧に書き写している。


書き終えると、その帳面を白俊の前へ差し出す。


視線で内容を確認するよう促していた。


白俊はそれを見て、軽くうなずく。


「この通りや、間違いない」


ヨリはすぐに同じ頁を出し、白俊に署名を求める仕草を見せる。


白俊は一度だけ天井を見上げてから、観念したように筆を取る。


そのまま自分の名を書き入れ、静かに筆を戻した。


「加減っちゅうもん、知らんな」


白俊はそう言ってから、ヨリを見る。


口元には笑みが浮かんでいた。


白俊は、今尹怜に気づいた、そんなフリをして笑いながら声を出した。


「左副承旨殿、ご機嫌よう。

 この子、容赦ないですよ」


白俊の言葉を聞いて、尹怜の片眉が動いた。


ヨリは反応せず、ただ静かに帳面を閉じる。

その動きもまた整っていた。


ヨリは尹怜の姿を、確認し、そのまま立ち上がり、茶の準備を始める。

茶の他にも何か準備しているようだった。


湯を注ぎ、香りを確かめ、茶器を置く。


やがて尹怜の前へ静かに茶が差し出された。


続いて白俊、自分の前にも同じ茶を置いた。


白俊が湯気の立つ茶碗を手に取りながら言った。


「左副承旨殿もこれやりますか?」


尹怜は首を横に振り、無言で茶を口へ運んだ。


豊かな香りが広がる。


薬草臭さは薄い。


だが後味に独特の深みが残った。


(……悪くない)


その変化を見たのか、ヨリは茶と一緒に準備をしていた小皿を並べ始めた。


少量ずつ盛られた料理が、尹怜の前へ置かれていく。


横には紙。


“キイトルソウナムル”


“キイトルソウ味噌和え”


“キイトルソウすまし汁”


夕餉に響かぬ程度の量だった。


皿の配置が妙に整っている。


箸でつまみやすい盛り付けだが、美しく見えるように整えられている。


続いて白俊の前にも置き、自分の分も卓に置いていく。


白俊が笑う。


「左副承旨殿も食べてくださいよ。かなり美味いですよ」


尹怜は箸を取らない、いや取れない。


そもそも“雑草”という時点で気が引ける。


しかもキイトルソウという名前がさらに嫌だった。


白俊は気にせず食べ続けている。


「両班やからって、カッコつけてるから食われへんのやろ」


白俊はヨリを見る。


「下げてもええぞ」


ヨリは凍るように冷たい視線で尹怜を見つめながら、小さく形の整った布製の袋と紙を尹怜の前に差し出した。


"無理だと思った場合は、この袋に吐き出してください"


尹怜は静かに息を吐いた。


ここまで配慮されては立場が悪い、そう感じながら、箸を取り、まずはすまし汁へ口をつけた。


その瞬間、尹怜の目がわずかに細くなる。


出汁がよく効いていた。


塩加減も整っている。


キイトルソウの葉の香りが、汁に不思議と合っていた。


続いて味噌和え。


味噌の奥に、何か別の風味がある。


食欲を引き出す味だった。


最後にナムル。


塩加減が絶妙だった。


ヨリは尹怜が食べ始めたのを見ると、自分も食べ始めた。


「……悪くはないな」


食べ終えた時に、尹怜が呟いた。


ヨリは表情を変えない。


白俊だけが、妙に勝ち誇った顔をしていた。


それがまた腹立たしい。


尹怜は無言で茶を飲み干した。


ヨリは静かに片付けを始め、使用した食器を桶へ入れていく。


その後、焼酎を含ませた布で卓を拭いた。


さらに水で濡らして固く絞った布で、もう一度拭く。


終えると桶を持ち、そのまま外へ向かった。


白俊が尹怜を見る。


「一緒に来てください」


三人は連れ立って裏庭へ向かった。


裏庭では湯が沸いていた。


ヨリは食器へ熱湯をかけ、しばらく置く。


冷めた後、焼酎を振りかけ、丁寧に洗い始めた。


尹怜は周囲を見回す。


干された布は、使用前後で分けられている。


桶には印がつけられている。


汚れ物を洗う場所と、食器を洗う場所も離されていた。


湯を沸かす鍋の位置まで、人の流れを遮らぬ配置になっている。


昨日今日で整えたとは思えないくらい、異様なほど無駄がなかった。


尹怜は眉を寄せる。


「……お前が考えたのか」


白俊は即答した。


「まさか」


悪びれもしない。


「ヨリや」


ヨリは黙ったまま、干していた草の位置を直している。


白俊は肩をすくめた。


「俺は人と話す係や」


ヨリは、洗い終えたキイトルソウが入っている桶を指して、尹怜を見た。


「……俺に運べと?」


ヨリは表情を変えぬまま、こくこくと頷いた。


白俊が吹き出す。


「人手足りへんねん」


尹怜は眉間を押さえた。


「なぜ俺が」


「来たやろ?」


白俊が笑う。


「そういうことやな」


さらに続けた。


「嫌なら、洗い物してもええ言うてるぞ」


尹怜は深く息を吐いた。


白俊は楽しそうに言う。


「気に入られとるやん」


その後。


左副承旨・尹怜は、無言で洗い終えたキイトルソウを運ばされることになった。


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