第108話 対策案
尹怜は私邸の自室へ戻ると、灯火の下に静かに腰を下ろし、
ヨリから渡された紙を、皺を作らぬよう丁寧に広げた。
そこに書かれていた文字は、驚くほど簡潔だった。
“二日後と指示されたら、当日回答を持っていく”
“二日後では遅い”
尹怜は紙を持ったまま、しばらく視線を動かさなかった。
淡々とした文字の奥にある切迫感だけが、静かに胸へ沈んでいく。
尹怜はしばらく黙ったまま、その紙を見つめていた。
遠い昔、女医に言われた言葉を思い出していた。
(二日後急変して間に合わなかった場合はどうするの?)
責めるような口調ではなかった。
だが、その言葉は長い年月を経てもなお、心の中に残り続けていた。
尹怜はゆっくりと紙を折り直し、静かに袖へ収めた。
* * * *
翌日、東宮殿の池のほとりにある四阿には、左副承旨・尹怜と、弘文館校理・朴紘範の姿があった。
水面を渡る風は涼しく、簾がかすかに揺れている。
だが周囲に人の気配は薄く、密談には都合の良い場所だった。
やがて世子が姿を現し、二人の前へ静かに歩み寄る。
「疫病を優先に、噂にならぬよう動け」
穏やかな声音だったが、その言葉には明確な警戒が滲んでいた。
「東宮と街の市井の酒屋が頻繁に結びつけば、余計な口実を与える」
尹怜と朴紘範は同時に深く頭を下げる。
「心得ております」
世子はわずかに頷き、続けて問う。
「家が見つかるまで、どのくらいかかりそうだ」
尹怜は静かに答えた。
「十日から二週間ほど必要かと思われます」
「その間、定期的に様子を見に行け」
「かしこまりました」
朴紘範が短く応じる。
世子はそこでわずかに視線を落とし、次の言葉を置いた。
「基準を作れ」
二人は同時に頭を垂れる。
「素案を整え、二日後に持ってこい」
「承知いたしました」
「さっそく動け」
二人は礼を取り、その場を後にした。
池のほとりを歩きながら、尹怜は袖の中の紙を思い出していた。
“二日後では遅い”
あの短い文字が、妙に頭から離れない。
尹怜は足を止めぬまま、隣を歩く朴紘範へ静かに告げた。
「二日後では遅いかもしれない。素案は昼過ぎまでに作る」
朴紘範は驚いた様子も見せず、淡々と応じる。
「では素案をいただいた後、邸下へ見せる案を本日夕刻までに整えましょう」
「頼む」
「では後ほど」
二人は互いに一礼し、それぞれの仕事場へ足を向けた。
* * * *
その頃、白俊とヨリは、酒屋のついた宿へ荷を移していた。
部屋へ荷物を置き終えると、二人はすぐ裏庭へ出る。
ヨリは庭の隅に群れて生える草を、じっと見つめていた。
白俊はその視線を追い、草の正体に気づく。
「キイトルソウか。
ここにも大量にあるんやな」
ヨリは帳面を取り出し、さらさらと文字を書きつける。
“刈っても刈ってもすぐ生えてきます”
“キイトルソウを刈りたいと伝えてもらえませんか?”
“刈った草は、使わせてください”
白俊は紙を見て頷くと、そのまま酒屋の女将のところへ向かった。
「あの草、どうしてるんです?」
女将は顔をしかめる。
「邪魔で困ってんだよ。
刈ってもすぐ生えてくるしねぇ」
白俊は人懐こい笑みを浮かべた。
「ほな、自分らで刈りますわ。
処分もこっちでやるんで」
女将の顔がぱっと明るくなる。
「ほんとかい? そりゃ助かるよ」
「礼を言うんはこっちや」
白俊は軽く手を振りながら戻っていく。
ヨリの姿を見つけると、両手を頭の上へ丸く上げた。
許可が出た、という合図だった。
ヨリは首を縦に二回振った。
そしてすぐ、黙々とキイトルソウを刈り始めた。
根ごと抜くものもあれば、根の近くから刈り取ったものもある。
二人はほとんど言葉を交わさぬまま、一刻ほど作業を続けた。
やがて背負い竹籠二つ分の草が積み上がる。
二人は水場へ向かい、キイトルソウを丁寧に洗った。
宿へ戻ると、干すものと塩漬けにするものを手際よく分けていく。
白俊は草を広げながら、小さく笑った。
「雑草いうんは、ほんま強いなぁ」
ヨリは答えず、黙々と葉を並べ続けていた。
* * * *
その頃、承政院では尹怜が机へ向かい、紙を広げていた。
隔てる基準。
症状の強さ、接触の有無、同居の関係。
食器と衣服の分別、水場の分離。
書き損じを出さぬよう、呼吸を整えながら筆を走らせる。
午前のうちに素案を書き上げると、そのまま弘文館へ向かった。
尹怜は部屋へ入るなり、無言で紙を朴紘範の前へ差し出す。
朴紘範は静かに受け取り、その場で読み始めた。
しばらく紙面へ視線を落としていたが、やがて顔を上げる。
「夕刻までに整え、お持ちします」
「頼む」
短い応答だけで十分だった。
昼の日差しが障子越しに差し込む中、
二人の間で次の一手が静かに形になっていく。
* * * *
未の刻を過ぎた頃、朴紘範が承政院へ姿を現した。
尹怜の作業場のそばまで来ると、袖から一枚の紙を取り出す。
「左副承旨殿の素案に、手を入れてきました」
尹怜は静かに受け取り、紙面へ視線を落とした。
そこには、自分が書いた基準が、現場で使える命令の形へと整え直されていた。
隔てる基準として、症状の強弱に応じて患者を段階的に分け、接触の有無と同居関係を明確に記録すること。
食器と衣服は完全に分別し、水場も共用せず、使用後は必ず熱湯と焼酎で処理すること。
軽症者と重症者を混在させず、看護に当たる者も区分し、屋敷内の動線を分けること。
無駄がなかった。
自分の考えを崩さぬまま、
実行可能な形へ静かに組み替えられている。
尹怜はしばらく紙を見つめ、それから短く言った。
「感謝する」
それ以上の言葉は必要なかった。
朴紘範もまた、静かに頷く。
二人はそのまま紙を携え、再び世子の元へ向かった。




