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幸せになれる薬

「これ、効くよ」


 


 そう言って、友人が小さな白い錠剤を差し出した。


 


「何これ」


 


「嫌なこと、忘れられる薬」


 


 


 冗談みたいだった。


 


 


「そんなの、あるわけないじゃん」


 


「あるんだよ。試してみなよ」


 


 


 軽い口調だった。


 


 


 私は笑って受け取った。


 


 


 その日の夜、飲んだ。


 


 


 どうせ何も変わらないと思っていた。


 



 


 次の日。


 


 


 目が覚めて、少しだけ違和感があった。


 


 


 何か、嫌なことがあった気がする。


 


 


 でも、思い出せない。


 


 


「……まあ、いいか」


 


 


 不思議と、気にならなかった。


 



 


 会社。


 


 


 いつもなら顔を見るだけで胃が痛くなる上司がいる。


 


 


 でも、その日は違った。


 


 


「あれ」


 


 


 何も感じない。


 


 


 嫌いだったはずなのに、


 


 


 その理由が、思い出せない。


 


 


 


 ――まあ、いいか。


 


 



 


 その日の帰り、また薬を飲んだ。


 


 


 特に理由はない。


 


 


 でも、


 


 


 飲んだ方が楽な気がした。


 



 


 数日後。


 


 


 明らかに、何かがおかしかった。


 


 


 スマホの履歴に、見覚えのないメッセージが残っている。


 


 


『もう無理』


 


『別れよう』


 


 


 送信者は、自分だった。


 


 


「……誰に?」


 


 


 思い出せない。


 


 


 恋人がいたはずなのに、


 


 


 顔も、名前も、思い出せない。


 


 


 


 でも、


 


 


 


 ――別にいいか。


 


 



 


 それからも、薬は飲み続けた。


 


 


 嫌なことがあるたびに。


 


 


 嫌な気分になりそうなときも。


 


 


 


 気づけば、


 


 


 考えることが減っていた。


 


 


 悩むことも。


 


 


 迷うことも。


 


 


 


 全部、軽くなった。


 



 


 ある日、同僚に言われた。


 


 


「最近、楽しそうだね」


 


 


「そう?」


 


 


「うん。前よりずっと」


 


 


 


 私は少し考えて、


 


 


「……そうかも」


 


 


 と答えた。


 


 


 


 本当にそう思った。


 



 


 帰り道。


 


 


 ショーウィンドウに映った自分を見る。


 


 


 笑っていた。


 


 


 理由は分からないけど、


 


 


 ずっと穏やかな顔をしている。


 


 


 


 それでいい気がした。


 



 


 ふと、思う。


 


 


 ――最近、何を失くしたんだろう。


 


 


 考えようとして、


 


 


 止めた。


 


 


 


 思い出せないものを、


 


 


 思い出す必要はない。


 



 


 ポケットから、薬を取り出す。


 


 


 白い、小さな錠剤。


 


 


 


 指でつまんで、


 


 


 しばらく見つめる。


 


 


 


 ――これを飲めば、


 


 


 


 また、楽になる。


 


 


 


 少しだけ、


 


 


 胸の奥がざわついた。


 


 


 


 何か、大事なものを、


 


 


 これで何度も消してきた気がする。


 


 


 


 でも。


 


 


 


 それが何かは、分からない。


 


 


 


 分からないなら、


 


 


 問題ない。


 


 


 


 私は、薬を口に入れた。


 


 


 水で流し込む。


 


 


 


 ざわつきが、すっと消えていく。


 


 


 


 安心する。


 


 


 


 何も気にしなくていい。


 


 


 


 何も思い出さなくていい。


 


 


 


 それでいい。


 



 


 ふと、ポケットの中に紙が入っていることに気づいた。


 


 


 取り出す。


 


 


 


 自分の字だった。


 


 


 


『これ以上飲むな』


 


 


 


 しばらく、その文字を見つめる。


 


 


 


「……なんで?」


 


 


 


 分からない。


 


 


 


 でも、


 


 


 


 ――きっと、大した理由じゃない。


 


 


 


 私は紙を丸めて、ゴミ箱に捨てた。


 


 


 


 その方が、楽だから。


 


 


 


 その方が、幸せだから。


 


 


 


 


 ――そう思った。

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