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第四話 うつつの胡蝶(三)

 道中は無言だったが、目的地である離れに到着すればすぐに口は開かれた。


「ねぇ、蝶って何の話?」

「ああ、それはここでの私の名前ですよ。正確には蝶仙という名前」

「……あのさ、さっきから出てくる名前が俺でも聞いたことがある名前ばかりなんだけど。聞き違い?」


 そう顔を引きつらせている静傑に、烑香はほほ笑んだ。


「多分間違ってませんよ。この妓楼の頂点の朱瑾。そして姿を見せず指名もできない妓女、蝶仙。まあ、妓女というのは便宜上に過ぎないんですけど、事情がありまして」


 烑香が嫣紅館に来たのは菊水の紹介だった。

 自分の奏でる音楽を耳にした人の反応を聞いてみたいと菊水に相談すると、彼女は嫣紅館を紹介した。

 烑香としては菊水の店で弾きたかったのだが、練習ならともかく金が取れそうなら稼いで来いと彼女は言った。

 菊水が選んだ聞かせる相手とは客ではなく、妓女だった。

 最初はなぜだと思ったが、その妓女……朱瑾は、人の音楽を聴き気分を休めたいという希望があったが、自分と同格以上の奏者でなければ納得できないと常々遣り手婆に零していた。遣り手婆と仕事上の繋がりがあった菊水がその話を覚えていたので、烑香を紹介したということだった。

 もっとも、その菊水とて駄目で元々だと考えていたらしく気に入られるのは想定外だったらしいのだが。


 そうして何度か朱瑾のもとに通っているうちに宴会に呼ばれるようになった。一応朧家という立場上姿を隠したまま演奏していたが、それが逆に謎の妓女として噂になった。朱瑾のいる席にしか現れないが、必ず現れるというわけではない。ふわふわと舞い現れるさほど蝶のような、もしくは突然現れる仙女のような、という表現がなされるようになり、やがて『蝶仙』の名をつけられた、という話だ。

 朱瑾とそのうち二蝶の改良についても相談する仲だ。その結果、嫣紅館でも二蝶を弾くようになった。

 そしてその音が今や蝶仙の名をこの妓楼の代表格にまで上り詰めた理由となった。


「……というわけなんですけどね。まあ、時折座敷の時間以外も弾いて、噂を広げるよう婆が小細工をしていたことはありますけども」

「小細工」

「噂なんて作るものでしょう、と。後宮とはやり方が違いますけど。おかげで私にも給金が想定より多く入りました」

「まあ、否定はできないけど……」


 歯切れが悪い静傑は、後宮の状況など烑香より知っているはずだ。

 何を言い淀んでいるのかと思っていると、静傑は「あー……」と実に言いにくそうに、しかし意を決したように口を開いた。


「……それより、俺、さすがに今の手持ちは朱瑾に会えるほどじゃないんだけど、平気?」

「え、そこを気にします? 大丈夫ですよ。今日の貴方様は壁みたいなものでしょう?」

「壁」

「ごめんなさい、護衛でしたね」

「設定が雑じゃないか?」

「でも、今の貴方様を丁寧に扱うのはちょっと」


 身分の関係でと含ませれば、静傑はぎりぎり納得したような表情を見せた。

 もっとも丁寧に扱った記憶は烑香にはなかったが。


「しかし、菊水も大胆だな。ダメ元だったとはいえ、そんな売り込みをするなんて」

「まあ、翻訳の紹介もあったんでしょうけどね。ここの妓女、珍しいものをもらうことが多いので。貰った本の話ができれば客との話が弾みますし、知識にもなりますから」

「なるほど」

「まあ妓女といえない程度の妓女で出入りも自由にさせてもらってるのは、翻訳の仕事ができるからですね。やっぱりなかなかいませんし」


 ある程度裕福な家庭でなければ文字を読むこともままならない中、翻訳ができる者など代わりを探すのも大変だ。烑香としても国外の知識を得やすいので、仕事を受けることに利益を感じている。なにせ普通はその国外の本など手に入りにくい。だから両者両得というものだ。

 そうして話していると離れに近付いてくる足音が烑香の耳に届いた。

 人差し指を顔の前に立てた烑香は、話は一旦お終いだと動作で静傑に伝えた。


 間もなく、離れに迦陵頻伽(カリョウビンガ)とも呼ばれる美しい声が響いた。


「蝶、来ていたのね」

「朱瑾姐さん、いつも通り突然でごめんね」

「いいのよ、貴女はそういう子。それより、ちょうどよかったわ。翻訳してほしい本があるの。挿絵から察するに、医学書だと思うのだけれど」


 ずいぶんな厚みのあるそれを受け取った烑香は、中身をぱらぱらと捲った。普通に読むだけでも時間があかるだろう分厚さを翻訳でとなれば、そう簡単に終わりはしないだろう。


(ましてや後宮に持ち帰ってやるとしても……って、案外時間はあるか)


 侍女としての仕事も多少はあるが、基本は器楽の師だ。

 結婚即退職という状況だけに侍女としての仕事を教えるより、足りないところを手伝ってもらう程度にしていたほうが麗藍の侍女たちも楽なのだろう。


 それでも専門書で苦手な言語だと断らざるを得ないかとも思ったが、むしろ得意な言語でほっとした。とはいえ、やはりわからない単語も散見される。


「お母様が残してくださった辞書があればできなくはないと思うわ。辞書になければ、わからないところも多少は残るけれど」

「わかるところだけでも客は喜ぶわ。ありがとう」


 そう言いながら、朱瑾はここまで持ってきたらしい茶を淹れ始めた。

 朱瑾自ら入れた茶を飲むとなれば、本来いくら払わなければいけないのだろうなと烑香はぼんやり思った。


「ところで烑香、あなた、ずいぶん整ったお顔の殿方を連れてきたのね」

「殿方じゃない、壁。今日は壁」

「まだその壁って引っ張るんだ」


 壁じゃないけど、と言いながら静傑が苦笑した。


「客にはなれそうにないので名は名乗れませんが、壁である私がおもてなしを受けてよいものか迷います」

「壁がいずれ客になることもあるかもしれないでしょう」

「……朱瑾姐さん、こっちの人は狙わないであげて」


 もう客は充分でしょうに、と烑香が肩を竦めれば、くすくすと朱瑾は笑った。


「目の保養になる御方を口説いて損はないでしょう?」


 堂々とそんなことを言うあたり、口先だけの話だったのだろう。

 わかってはいるが、軽口をたたく朱瑾も相手が皇族だと知ればどんな反応をするのだろうかと思わざるを得ない。ただ、案外今と調子は変わらないかもしれないが。


「そうそう、今日はもうひとつ頼みがあるの。禿に稽古をつけてやってくれないかしら。私の琵琶を貸すわ」

「え? 今日?」


 約束もなしに来たのに、えらく突然だなと烑香は思ってしまった。

 普段なら朱瑾自身が教えているはずだ。それに、そのほうが禿も喜ぶ。


「お代代わりに烑香が愛用している高級松脂と弓を融通するわ」

「それは嬉しいけれど……どうしたの?」

「実は私、病み上がりなのよ。馴染みに文を書きたいのだけれど、しばらくあの子たちのことを放ってしまっていたから、見てやりたいのだけど」

「大丈夫? もちろん稽古は引き受けるけど、松脂と弓の代金は払うよ」


 取り寄せてもらうのではなく、目利きをして融通してもらうだけでも自身に利がある。菊水も手広くやっているが、楽器に関しては朱瑾に敵うはずがなかった。おまけに普段から相談にも乗ってもらっている相手だ。烑香とて便宜を図りたい。


「お金は気にしないで。蝶のおかげでかなり高価な薬を融通してくれた人がいたの。その人、私が病で引退でもすれば蝶仙もここを去ると思ってるのよ」

「つまり薬代だと」

「ええ」


 想像よりもしんどい状況にあったのだろうかと思いながら、烑香は「じゃあ遠慮なく」と返答した。


「ありがとう」

「こちらこそ。禿はこっちに来る? 私が行こうか?」

「あの子たちに楽器を持って来させるわ。壁のお兄さんはどうする? 私の都合で暇にさせるのだから、相手をする子を探してくるくらいはできるけれど」

「お気になさらず。壁はすでに非日常を見ていて暇はしていないからね」


 朱瑾の誘いを迷うことなく断った静傑に烑香は平気でもったいないことをするんだなと思った。別に色沙汰などなくとも朱瑾が紹介する妓女であれば、間違いなく芸事に秀でている。楽しい時間が過ごせるはずなのにもったいない、と烑香は思った。


(女性は見慣れ過ぎているからかしら。まあ、面倒という先行意識が生まれていても仕方がないと思うけど)


 ただ静傑が変な人だということは今に始まったことではない。

 それによく考えれば、彼自身の身分が明らかになってしまう可能性を下げるためには、下手に誘惑に惑わされないほうが良いに決まっている。


「……何? そんなにこっちを見て」

「いえ、貴方様はやはり面倒なお立場だなと思いまして」

「え、今?」


 人をさんざん壁って言っておいて? と言っているが、烑香は聞こえないことにした。


「それより朱瑾姐さん、一応は言っとくけど……さっきの本、この国の医学とは合わないよ。お客さん、気分を悪くしない?」


 この国の病は薬も用いるが、同時に祈祷を行い妖怪から受けた穢れを祓うといったことも行う。けれど、この医学書は冒頭に病は神から与えられた乗り越えるべき試練であり、贈り物であるから歓迎すべきという記載がある。

 もっとも、妖怪も神も信じていない烑香としてはどちらも適当だと思うのだが。


「あら、やはりそうなのね? 図解だけでもそうかなとは思っていたわ。けれど薬に関する記載だけでも役立つし、内容を知らないままでは判断できないから翻訳はお願いするわ」

「わかった」


 朱瑾の信条は直接聞いていないにせよ、彼女はきっと妖だろうが神だろうが、使えるものは使うと考えているんだろうなと思った。だからこそ、付き合いやすいのだろう、と。


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