猫のお巡りさんと壮大な迷子。
それは月に四度ある、私の休日のことだった。カイルも休みだったら良かったのだけれど、自警団の夜勤明け。疲れ切った顔で帰って来るなり、夕飯の買い出しまで寝ると言ってソファーに沈んでしまった。いつもは気配に鋭いカイルなのだけれど、よっぽど疲れていたのか一度も起きることなく静かに寝息を立てている。
自警団はつまり私の知るところの警察官みたいな役割を担っていて、その性質からも割りと忙しいらしい。この町の門のところでは入ってくる人たちの簡単な検査をしているし、町の中では揉め事があればすぐに呼ばれる。落とし物があっても自警団だし、迷子がいれば自警団。とりあえず、困ったことがあったら自警団なのである。犬のお巡りさんならぬ、猫のお巡りさんというわけだ。
しかし前職が何でも屋的な部分もあったとは言え、それは主に戦闘面においての何でも屋である。今までと違う、慣れない仕事に体力というよりも気力がついていかないのかもしれない。
「かわいい顔で寝ちゃって。まるで猫みたい」
思わず撫でたくなるような穏やかな寝顔だ。私の知っている猫の寝顔とは大きさがだいぶ違うけれど、それでも十分すぎるくらいに可愛いと言える。
大型の猫と言うと、動物園のライオンやトラもいつも寝ていたけれどあれともまた違う。ライオンやトラは野生とか見当たらなかったし。
「カイル、あたし買い物に行ってくるね?」
そっと近くに寄って声をかけてみるが、やっぱり起きそうな気配もない。ただ、彼の尻尾だけが無意識に動いて私の手に触れてすりすりと肌を撫でた。
疲れているカイルを起こすまでもないと思って、無理に起こそうともせずに書き置きをして家を出る。買い物に向かう場所はよく知っている場所だし、家からそう遠い場所でもない。その上、今はまだ明るい時間である。どこにも悩む余地はなかったのだ。何より、カイルをゆっくり寝かせてあげたかった。
「やっぱり、ソファーじゃよく眠れないのかなぁ」
カイルはリビングにソファーを持ち込んで、いつもそこで寝ている。一応我が家には小さいながらも物置部屋があって、そこを片付けようかと何度も言ったのだけれど、カイルがうんと首を縦に振らないのだ。しかし、その物置部屋を片付けてベッドを置いたら絶対にもっとよく眠れると思うわけで。
「なんでそこまで嫌がるかなぁ。家賃だって折半してるのに」
唯一ある部屋を私が使わせてもらっているので、私の方が多めに払っている。しかし、その分食事の量がカイルの方が圧倒的に多いので、食費を込みにすると同じ金額を払っているのだ。彼が遠慮する理由はない。
「――ん?ここ、どこ?」
ふと気が付くと、眼前には見知らぬ風景が広がっていたのである。
私はそこでここまでの道のりを思い出す。家からそう遠くない、近所の肉屋に向かった。家からは徒歩で五分程。壊滅的な方向音痴である私ですら迷う余地のないくらいの道のりである。
家からまっすぐ肉屋に向かう途中、花売りの女の子が立っていた。町外れから摘んできたという花や薬草、木の実を道端で売るのがこの町の子供たちのおこずかい稼ぎの方法である。
きっと花が食卓にあれば、それだけで部屋が明るくなるに違いない。私は垂れ耳の犬顔の女の子からそれを数本買い取って、ルンルン気分で歩みを進めた。
「――待って。そこでどっちに曲がったっけ?てゆうか、何で曲がっちゃったの……」
そうなのである。あの小道は曲がるべき場所では無かった。ただ真っ直ぐ進めば良いだけなのに、気が付けばそこで角に入り、小道に入り、そして今に至る。
「あれ。えーっと、どの道から来たっけ」
こういう時は来た道を通って来た通りにそのまま引き返せば帰れる。それは私にだってよく分かり切っている常識だ。だから私は引き返そうと、くるりと来た方向を振り返ってみたのだが、そこにあるのは三股に分かれた道。
一つ目は白の塗り壁の民家が並ぶ、白の道。二つ目は赤い煉瓦の家が目立つ道。三つ目はガーデニングに精を出す、緑の道。
そしてその道を一通り眺めて分かったことがある。それは買ったばかりの花を見るのに夢中で、周りの景色を一切見ていなかった私にはどの道も印象にないということだ。
つまり、完全なる迷子である。
「迷子になったらその場で待機って言われたけど、私の事を誰も探してくれない場合はどうなるんだろうなぁ」
自虐的な独り言が出てきて、私は一気に沈んだ。自分で言っておいてなのだが、誰かと一緒に出かけたわけでもない場合、一体誰が探してくれると言うのだろうか。ただでさえこの場所には知り合いらしい知り合いなんて、勤め先のダーナさん夫婦とあとはよく買い物に行く八百屋さんとお肉屋さん。それと、カイルだけだ。おまけにお店に来てくれる常連さんたちだろうか。
特に内向的な性格をしているわけでもないと思うのだが、いきなり無一文でこの町に投げ出されて、生活を整えて馴染むのに精一杯だったのだと思う。今はカイルも居てくれて、余裕はないが生活にゆとりができてきた。
そうなると精一杯に生きていたときよりも考える時間が生まれてしまって、自ずと今まで考えないようにしていたことがぐるぐると頭の中に巡ってしまう。
――私は……。
***
小さな通りの小さな古い教会。ようやく祭壇だけがあるようなその場所の前にある、小さな石段にぽつりと座っていると息を切らせた黒い影が現れた。
「――ったく、こんなところに居たのか」
「……カイル。ごめんなさい」
石段に座りこんだままの私の膝の上にあった手を掴んで、目の前に同じようにしゃがみ込んだ。そしてその手を自身の真っ黒な毛の生えた額に当てて、ふうと大きく息を吐く。
「だから買い物は一緒に行くって言っただろうが」
「カイル疲れてるみたいだったから、寝かせてあげたかったんです」
「余計に疲れたじゃねーかよ」
「……ご、ごめんなさい」
「あー。そうじゃない。……怒ってる訳じゃねーんだ。心配した」
私が声を震わせると、カイルは困ったような顔で首を振って私の手の甲を撫でる。大きくてごつごつした男の人の手がまるでガラスでも触るかのように優しく肌を滑った。
「ここの教会、見たか?」
「いいえ。外に居ないとカイルが来たときに見つけてもらえないと思って」
カイルの視線が私の後ろに建つ教会を見た。そこには古い小さな教会が建っているのだけれど、私はずっとここに居たので中は見ていないので首を振る。
「俺が来ると思ってたのか?」
「カイルなら探してくれるかなと期待してました」
「そういう時は信じてたって言うもんだぞ」
「あ、えと、信じてました!」
「まぁ、いいか。ちょっと中を見てこうぜ?せっかくだからな」
「はい」
カイルは小さく鼻で笑うと、そのまま私の手を引いて立たせて階段を上り始める。私もそれの後を追うように引っ張られて上がって行く。そして見えた教会にカイルはずんずんと入って行った。
「か、カイル。勝手に入って大丈夫なんですか?」
「ダメだったら閉まってるもんだろ」
「そうかもしれませんけど」
「花、もらうぞ」
教会の中には誰も居なくて、シンと清廉な空気が漂っている。こんなに小さな教会なのに、やっぱり厳かでそこに『何か』の存在を感じるような、そんな空気だった。
思わず尻込みしてカイルを見る私に、カイルはにやりと笑って祭壇の前まで引っ張っていく。そして私が持っていた数本の花のうち、一本を抜き取って祭壇の花瓶に挿した。
「カイル?」
カイルは私の手を放して、片膝を着いて胸に手を当てる。そして少しの間だけ目を閉じて、すぐに立ち上がった。
「これがこっちのお祈りの様式。人間の国じゃやり方どころか神さんも違うらしいが」
「じゃあ、私も。間違っていたら教えてくださいね」
カイルにそう断わって、私も見よう見真似のお祈りを捧げた。
私の知らない、異教の神に願いを一つ。叶いますように、と。
「カイルは何を祈ったんですか?」
願い事を終えて、隣に立つカイルに聞いてみる。いつになく真剣な顔をしていたから、どんな願いを祈っていたのだろうと興味が沸いたのだ。
「迷子がどこに居ても見つけられるように。……マリーは?」
「私も、どこに居てもカイルが見つけてくれるようにです」
「どこに居たって俺が見つけてやるさ。――さっさと帰って飯にしようぜ。買い物もまだだったんだろ?」
「はい。あ!今日は、牛肉のセール日なんですよ!急がなくっちゃ!」
私は離れていたカイルの手を捕まえて、急ぎ足で教会を出る。今日は花を買っただけで、肝心の食事の買い物はまだなのだ。
その上、今日は月に一度の牛肉のセール。これを逃すと、来月まで細切れ以外の牛肉が食卓に上るチャンスが無くなるのだ。これを逃すわけにはいかないのである。
そうして二人で並んで歩いていたその時。懐かしい香りがふいに鼻先を掠めた。
こちらに来てからは嗅いだことのない、懐かしい花の香りだった。それが香ってくる方向を見れば、家と家の間に細い道が繋がっている。その先にも視線を遣ったが、少し先からは暗くなっていて見ることができなかった。
「――桜……?」
その花の香りは間違いなく桜の香りだった。私もこの町に住むようになって数年。迷子になったり、カイルと一緒に出かけたりと小さな町のほとんどは行ったことのある場所になった。それなのに、懐かしい桜の木は今まで一度だって見たことがない。自分が方向音痴であるせいだろうか、何故かその道に呼ばれているような気がした。
「サクラ?」
「……いえ、何でもないです」
立ち止まって呟いた私にカイルは怪訝な顔で首を傾げた。それにゆるゆると首を横に振って答えて、カイルの手を握り直す。
「そうか?」
「はい。ほら、急ぎましょう!牛肉が売り切れますよ!」
「ああ。……って、そっちの道じゃねーよ。こっちだって」
「え?あれ?すみません!」
まだ納得しきれていないような顔をしているカイルにそう言って握った手を引っ張って歩き出すと、カイルが呆れた顔で逆方向に誘導する。まだまだ私の方向音痴は治りそうにないらしい。
でも、きっと。どこにいてもカイルが見つけてくれる。これからもずっと二人は一緒なのだから。
とりあえず、これで番外編完結です。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。