22 魔女は涙を浮かべる
そっと触れるだけのキスだが、サンソンはいつまでも離そうとしない。
アーリアデットは、ショックのあまり放心している。
頭の中が真っ白どころか、様々な思考がぐちゃぐちゃに混在して、顔など茹ったように真っ赤に染まっている。
初恋もまだのアーリアデットにとって、今キスをするということは、つまりはファーストキスとなる。その大事な初めてを、こんな形で失うということだ。
固まったまま動けないでいるアーリアデットの瞳に、自然と涙が溜まっていく。
それを見て、同じく放心していたヘクトが我に返った。サンソンのジャケットの背中を引っ張り、アーリアデットから力ずくで遠ざけると、尻もちをついたサンソンの頭を鷲掴みにする。
「お~ま~え~は~な~に~を~!!」
地の底から響くようなドスの利いた声を出すヘクトに対して、サンソンは悪びれた風もなく答える。
「だから、依頼を成し遂げてくれたお礼と、これからよろしくっていう親愛の証も込めて、ちょっとベーゼを…………これじゃダメだった?」
「ダメに決まっているだろっ!」
「でもアーリーは、どんな物でも文句は言わないって」
「だからといって相手の了承もなく――――というか、金品ですらねぇっ! 普通に物にしておけよ! 好きでもない相手のキスがプレゼントって、なんの罰ゲームだよ! おい、アーリアデットもなにか言えって!」
と言って、ヘクトは振り返るが、そこにいたアーリアデットの様子がおかしいことに気づく。
アーリアデットは直立不動になっている。
それだけならばそんなに不思議ではないが、瞳から涙が止めどなく流れ落ちている。ただ泣き止まないという次元の話ではなく、出しっぱなしの水道のようにだらだらと出ているのだ。このままでは脱水症状になるのでは、と心配になるレベルだった。
ぎょっとしたヘクトは、アーリアデットの肩を掴んで揺する。
「なっ……だ、大丈夫か? いくらなんでも泣きすぎ――――うわっ!?」
言っている間に、突然アーリアデットの体が蒸気となって霧散した。
気づけば、ヘクトは何もない空間を掴んでいた。何が起こったか理解出来ないまま、唖然としていたが、
「あ……危なかった……っ!」
聞こえてきた声に、雷に打たれたように振り返る。
ヘクトとサンソンがいる場所から、テーブルを挟んで反対側にアーリアデットの姿があった。見るからに気分の悪そうな顔をして、口を手の甲で何度も拭っている。
首を捻るヘクトの隣で、サンソンが息を弾ませて訊ねる。
「アーリー、凄いよ! どうやって一瞬にして移動したんだい?」
サンソンは目を輝かせてカラクリを知りたがるが、テンションは違えどヘクトもまた同じ思いでいた。
アーリアデットは苦り切った表情で、しかしちゃんと説明してくれる。
「瞬間移動したんじゃなくて、そもそもあなた達が見ていた場所に、私はいなかったのよ。あなた達が私と思っていたのは幻影。で、その幻を作り出していたのがこれ」
アーリアデットが取り出したのは、先刻つけていた香水だった。
ポピーの花がデザインされているぐらいの、特に変わったところのない香水瓶で、香水自体の香りも控えめなものだ。
「この香水は私が作ったもので、庭にある泉の水を精製した物を使っているの。簡単に言えば、魔法の香水ね。私の魔力でちょっと手を加えることで、これを使ったところの周囲にいる人に、思うままの幻覚作用を起こすことが出来るって優れものなの」
話している内に得意げになってきたアーリアデットは、少し機嫌が良くなってきた。
それに若干水をさすようだったが、ヘクトが怪訝な顔で訊ねる。
「それは分かったが……。なんで、その香水を使ったんだ?」
「ヘクトも玄関でのこと見たでしょ? また同じようなことがあったらと思ったから、護身よ護身!」
疎ましげにアーリアデットはサンソンを睨めつける。
一方サンソンはというと、アーリアデットの視線など物ともせず、それどころか感服したような晴れ晴れとした顔をしている。
「いやはや、これは参ったね。魔女ってそんなことまで出来るんだね。……あれ? それなら、口づけたのは幻ってことかな?」
「そう! よって、今のは無し! ノーカンよ! ノーカン!」
と、アーリアデットは必死に否定する。
実際、キスしたのは自分ではないし、幻影が体験したものは術者には感触も何も伝わらない。
傍から見ていて、思わず自分の口を拭きたい衝動に駆られるぐらいには不快だったわけだが、何はともあれ無事にファーストキスは守られたのだ。勘違いされても困るのだから、それを主張しないわけがない。
アーリアデットの話を聞いてサンソンは落胆したようで、見るからに肩を落とす。
「それは残念無念……。あ、だったら今からやり直そうか?」
「二度もやらせるかっ!」
動き出そうとしたサンソンを、ヘクトは肩を掴んで取り押さえる。
ヘクトのジト目を受けて、サンソンはやれやれとでも言うように首を振った。
「分かった、引き下がるよ。ヘクトくんだっけ? 君、随分と過保護だね」
「一応こいつの執事なもんで。主の身を守るのも、仕事のうちなんだよ」
(まあ、それでなくても不愉快だし……)
それは口に出さず、ヘクトは昂然と胸を張ってみせる。
アーリアデットを主として認めているというよりは、主を立派に支えられる優秀な自分に自信を持っていた。以前からカエルの中でも優れていると自負していたが、人間になってからは更に出来ることが増え、その思いに磨きがかかっている。
さっきは油断したが、もう同じ過ちは犯さないという、執事としても男としてもプライドがあった。
サンソンの体から力が抜けたのを感じて、ヘクトは手を放した。
二人の動きを見て、こっそりと嘆息するアーリアデットを流し目で確認しながら、ヘクトはサンソンに問いかける。
「泊まっていくんだろ。部屋は、二階のゲストルーム使ってくれ。案内する」
「アーリーと同じ部屋は――」
「当然ダメだ」
「だろうね」
サンソンも、ダメ元か冗談で言っただけのようで、すんなり退いた。
(あんな依頼人、初めて……。話せないわけじゃないけど苦手かも。人間って色んなタイプの人がいるんだな……)
普段、鏡越しに遠目でしか人間を見ないアーリアデットにとっては、驚きであり発見でもあった。
更に、無条件の愛というものに慣れていない身としては、どう対応していいか分からない。避けるぐらいしか思いつかなかった。それだけでなく、自分の悩みを思うと、サンソンのように会って間もない相手に好意を寄せられるのは不思議で仕方がない。
(人間だけじゃない。愛の形も、人それぞれってことなのかな。じゃあ、私のヘクトに対する想いも――――)
アーリアデットの中で、何かしらの結論が出そうな、そんな光明が見えた気がした。
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