7曲目3
――ガタンッ
「えっ!?」
突然の物音に驚いたシロが、廊下の角を曲がった。
「あっ、モヤシちゃん!」
モヤシちゃん。
百瀬ヤスシ。
彼に聞かれていたのだ。
その事実に、アオは死にたくなる。
「何ぼさっとしてるンだ! 早く追いかけろ!」
「む、無理だよ」
「いいから行け!」
「無理だ。ボクには、追いかける資格がない」
「うだうだ言ってねぇで――」
イナズマが飛び上がった。
ジャンピング頭突き。
「行け!」
「ぎゃっ!?」
目の中で火花がハジけた。
「何すん――」
怒りにかられたアオだったが、
「いってぇえええええええ!」
頭突きした方のイナズマが転がり回っているのを見て、かえって冷静になってしまった。
「……ありがとう。行ってきます」
♪ ♪ ♪
恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい!
俺の心はぐちゃぐちゃになっていた。
やっぱり嫌がられていた。
気持ち悪がられていたんだ。
なのに俺は、『先輩の笑顔は俺だけのものかも』なんて気持ち悪い勘違いをして。
ダサい。
最悪だ。
消えてしまいたい……。
「お前、モヤシか」
最悪な気分に追い打ちをかけるように、世界で一番聞きたくない声が耳に飛び込んできた。
「あ……」
心臓がぎゅっとなって、息が上手くできなくなる。
夏野太陽。
俺の恐怖の象徴。
「何か変わったな、お前。小洒落たシャツにシルバー。髪もちょっといじってるのか。けど」
夏野が鼻で笑う。
もう一生見たくないと思っていた、嗜虐心に満ちた笑み。
人をいたぶるのが大好きな、夏野らしい笑みだ。
「多少オシャレになったが、そのお寒いモヤシ顔は変わらねぇな。屋内だってのに、なぁに汗かいてんだ? 冷や汗か、お? ちゃんと俺の目を見ろよ。アイコンタクトもまともにできないとか、小学生かよ」
オシャレして、『俺』なんて言って粋がっていたけど、俺――『僕』の本質は、何一つ変わっちゃいなかった。
夏野にちょっと詰められただけでガラガラと崩れ去る、弱々しいモヤシ野郎のままだ。
「お、俺は、その」
「俺ぇ? ははっ、モヤシな僕ちゃんが、何勘違いしてるんだ。ホント、キモいな。ウザい。消えろよ」
本当に、消えてしまいたい。
アオ先輩にも嫌われて、この世界に僕の居場所なんて、もうどこにも――。
視界が狭まっていく。
心臓の音が、不快な音が、うるさい、うるさい、うるさい。
眼の前が闇に覆われていく。
僕の世界が、閉じていく。
消えていく。
「やっちゃん!」
そのとき。
そのとき、世界で一番大好きな声が、ハジけた。
途端、視界を覆い尽くしていた闇が、ぱっと晴れた。
僕の――『俺』の世界が、晴れた。
アオ先輩だった。
アオ先輩がものすごい勢いで駆け寄ってきて、俺の手を掴んだ。
引っ張ってくる。
俺は訳も分からず手を引かれ、先輩と一緒に走る。
「あっ、おい、海野――」
夏野の声は、もう耳に届かない。
先輩の手の平が、熱い。
「っ」
痛みに気付いて見てみれば、先輩の、碧のネイルが載った爪が、俺の手指に食い込んでいた。
力加減もできないほど全力で、必死に手を握ってくれているんだ。
どれほど走っただろうか。
気が付くと、俺たちはいつもの部室裏に来ていた。
アオ先輩が、肩で息をしている。
俺も肩で息をしている。
二人の呼吸が混じり合う。
俺はもう、たまらない。
この世界に二人っきりだ。
「好きです!」
気が付けば、俺は告白していた。
「好き。大好きです。ごめんなさい、先輩が嫌がることは、もう二度としません。だから、捨てないでください。先輩専属のドラマーのままでいさせてください!」
「こ、こちらこそ」
先輩が、泣いている。
ぽろぽろ、ぽろぽろと泣いている。
「すまなかった。キミに、つらい思いをさせてしまった。それに、今までずっと『モヤシちゃん』だなんて、キミを茶化すようなあだ名で呼んでしまっていたことも」
「好きです。俺、アオ先輩のことが好きなんです」
言いながら、俺は戸惑う。
こんな話、するつもりじゃなかった。
すべきじゃなかったんだ。
俺は先輩を困らせたいわけじゃない。
「あっ、そのっ、でも、先輩が俺をドラマーとしか見ていないというのも理解しているつもりです。だから、これ以上先輩を困らせるつもりはありません。『スーパーモヤシモード』も、俺一人で起動できるようになんとかするつもりで――」
「待って!」
先輩が、俺の手を握った。
「違う、違うよ、やっちゃん。ボクは嬉しい。キミの気持ちが嬉しいんだ。ほら」
俺の手を、心臓に押し付ける。
「こんなにもドキドキしているだろう?」
本当だった。
今まで何度も触らせてもらったが、こんなにも激しく脈打っているのは、初めてのことだった。
思わず、俺の指がぴくりと動く。
「んっ」
アオ先輩が、甘酸っぱいと息を漏らす。
すごく色っぽい。
可愛い。
愛おしい。
欲しい。
先輩の全部を俺のモノにしたい――。
「でも」
先輩は、泣き止まない。
「その気持ちを受け取ることはできない。ボクにはその資格がない……」
「資格? 人を好きになることに、資格なんて――」
「明日になれば、すべてが分かるよ。キミは絶対、ボクのことを嫌いになる」
「そんなこと、絶対にあり得ません!」
「いいや、キミは絶対に、ボクを嫌うよ。ボクはキミに隠し事をしているんだ。本当に……本当にひどい隠し事をしているんだ。その内容を知ったら、キミはきっと――絶対に、ボクのことを嫌いになる。だから、キミの気持ちには応えられない」
先輩は頑なだった。
そんな先輩の心を解きほぐしたくて、俺は先輩の手をぎゅっと握る。
真夏の屋外だというのに、その手は驚くほど冷たい。
緊張しているのだ。
可哀想なほどに。
「俺は、先輩を嫌いになんてなりません。絶対に。誓います」
「そう……かい」
アオ先輩の、泣き笑い。
「そう、だね。明日になって、キミがボクの醜悪な隠し事を知って、それでもなお、ボクのことを許してくれるのなら。ボクの醜い本性を見て、それでもキミの気持ちが変わらなかったなら、そのときは」
アオ先輩が、微笑んだ。
精一杯。
「付き合おう」
「!」
「とは言え」
アオ先輩が、俺から離れる。
「まずは、くれなゐを何とか説得しなきゃだけどね。バンド内恋愛禁止令を出したのは、他ならぬボクなんだし。あぁ、どうしたものか」
「私が、何ですか?」
「「ひえぇぇぇえええええええええええええええええええええええっ!?」」
二人して飛び上がった。
部室裏にくれなゐ先輩が現れたからだ。
「何を二人でコソコソと。ナ・ニをしていたんですかねぇ?」
「アッエットソレハ」
「ナ、ナンデモナイヨ!?」
アオ先輩まで俺みたいにキョドってる。
「とにかく、もう練習始まりますよ」
そのとおりだった。
アオ先輩はそそくさと部室に入っていってしまった。
一方の俺は、困った。
くれなゐ先輩の登場で、心がすっかりフラットな状態に戻ってしまったからだ。
つまり、『スーパーモヤシモード』ではない、通常モードなのだ。
今さらアオ先輩を呼んで部室裏に連れ込むのは無理がありすぎるし、『嫌がることはもうしない』と誓ったばかりでもある。
「モヤシくんも、早く。いよいよ明日は本番。もう、一分も無駄にはできないんですから」
「アッハイ」
くれなゐ先輩に背中を押されて、部室に入る。
イナズマちゃん先輩とシロ先輩は、もうスタンバっていた。
俺はドラム椅子に座る。
どうしよう、どうすれば――
「……あれ?」
気が付けば、272bpmで貧乏ゆすりできていた。
『スーパーモヤシモード』になれていた。
準備をしているアオ先輩の顔を、見る。
ただそれだけのことで、胸が幸せな気持ちでいっぱいになり、自然と『スーパーモヤシモード』が発動していた。
俺は、スティックを振り上げる。
カウント代わりのハイハット四回。
リズムは、抜群に安定していた。
こうして俺は、図らずもパイレス・スーパーモヤシモードをマスターした。




