揺れ動く
春の行動に、教室は一瞬静まり返ったがすぐに喧騒を取り戻した。
ただ、春が大声を上げたのは珍しいようで、何人かの目線はこちらに向けられたままだ。
春のクラス内での立ち位置は分からないが、友達は少ないと言っていたからカーストは下の方だろう。
そんな人間が、いきなり大声を上げたら注目を浴びるのは仕方がない。
胃の痛みが少し、激しくなったような気がする。
少なくとも、クラスの何人かは自分と春の関係を記憶するだろう。
大っぴらに言える健全な関係ではない。
何かトラブルの火種にならなければいいが。
多感な学生のうちは、くだらないことでも尾ひれがついてひどい噂になったりするからな。
「芥お兄さん、私の席、あそこなんだよ」
自分の心配をよそに、春は少しはしゃいでいるようで青白い肌が紅潮している。
こちらの服の袖を引っ張って、先ほどまで座っていた最後列の窓際の席を指さしている。
窓からはグラウンドを見下ろすことができ、遠くの方を見れば雪化粧をした山々と青空を一望できる。
「一番いい席じゃん」
「そうなの?」
「考え事しやすいし、サボりやすいから」
自分が中学生の時は、退屈な時間は内職と言って他教科の宿題をやっていたが、今の子どもは何と言うのだろうか。
春に手を引かれ、席まで歩く。
結露した窓から、すきま風が漏れてきて寒さを感じる。
春の机と、後ろのカバンを入れる棚を見る。
漫画やドラマでよく見る、いじめられている子どもへの落書きや荒らしはないようで安心する。
体に目立った痣のようなものを見たこともないし、学校生活は穏やかに送れているようだ。
席に座った春を見下ろす。
50分間、ここで見ているだけで何もせず立っていなければならないのか。
少し、苦行だと思った。
学校から借りたスリッパはクッション性のかけらもなく、足裏が痛くなりそうだった。
「次の時間は、国語なんだ」
「へぇ、そりゃいい」
英語とか社会じゃなくて良かった。
まだ興味のある分野なら、耐えられそうな気がした。
春はまだ話したそうにしていたが、チャイムの音が鳴った。
それと同時に、白髪をキッチリと整えた真面目そうな50代ぐらいの男性が入ってくる。
立っていた生徒たちが慌てて自分の席に戻って行く。
乱暴に引かれた椅子が、床と擦れて甲高い音を立てる。
こういった光景はいつの時代でも変わらないらしい。
「あんまり後ろ向くなよ、授業に集中しろ」
「うん、分かった」
そう呟いたが、何も分かっておらずチラチラと後ろを見てきて恥ずかしい。
その様子に、隣に立っていた誰かの保護者がクスリと笑った。
恥ずかしくて、顔が赤くなるのを感じた。
始まって数分はクラス全体が浮ついた雰囲気であったが、段々と落ち着きを取り戻す。
談笑する声はなく、先生のよく通る声だけが教室に響いている。
前回の授業の振り返りの後、音読の時間になったようで、一文ごとに生徒が交代しながら文章を読んでいく。
少しして、春の番が回ってきた。
「この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い」
緊張しているのか、音読が苦手なのか。
消え入りそうな声は、いつもより上ずった調子だった。
読み終えるとすぐに、こちらの方を振り返る。
表情は褒めてほしそうに、期待の眼差しを向けている。
授業に集中してほしいが、何かしないと前を向かないだろう。
小さく目立たないように、腰の近くで手を叩く。
音もしない、形だけの拍手だ。
それを見て、春は満足そうに目を細めた。
こほんと先生の咳払いがして、保護者の方から控えめな笑い声が漏れた。
やり取りを見られていたようだ。
先ほどとは比較にならないぐらい、恥ずかしい。
顔から火が出るとは、こういう時に言うのか。
冬だというのに、汗が噴き出るほど体が熱くなった。
その後のことは、よく覚えていない。
とりあえず、家で説教だけはしようと固く誓った。
——————
授業が終わっても、国語の教科書を片づけることなく自分が読んだ一文を見つめる。
国語の授業は、あまり好きじゃない。
クラスメイトの意識が、自分の声に向けられるあの感覚が嫌いだからだ。
ただ、今日はそうではなかった。
私のすぐ後ろに芥お兄さんが立っていたから、クラスメイトのことなんてあまり気にならなかった。
いつもより緊張して上手く読めなかったけれど、芥お兄さんは拍手をしてくれた。
それだけのことが、とても嬉しかった。
芥お兄さんは授業が終わったら、「後で説教だ」と一言残してすぐに帰ってしまった。
説教されるようなことをした記憶はない。
後で、ということは芥お兄さんの家に行ってもいいということだろう。
貰った日から肌身離さず持っている合鍵を、ポケットの上から触って確かめる。
本当は取り出してじっくりと見たいが、誰にも見せるなと言われているから我慢する。
雪の降る日、2人だけの秘密と言ってくれたあの声が忘れられない。
これまで何とも思っていなかった放課後が、今は待ち遠しく感じられる。
「春もそんな顔するんだな。今日来てた人、誰だよ」
「あ、ミィちゃん。今日は、学校来てるんだね」
「家に居てもオカンにどやされるからな。ゆっくり本すら読めやしない」
席に座っていると、声を掛けられる。
身長は私と大して変わらないが、がっしりとした体格のショートヘアの女子が話しかけてくる。
着崩した制服に、校則違反の金髪をしたミィちゃんだ
教室で他の人がたくさんいるのに声を掛けてくるのは珍しい。
後ろの方を見ると、ミィちゃんに襟首を掴まれたリンちゃんがいた。
後ろで一本に束ねた黒髪に度の強そうなメガネをしたリンちゃんは、ミィちゃんを睨んでいる。
「ミィ、離して欲しい。空いた時間は絵を描きたいんだ」
「あぁ? リンは気にならねぇのかよ。春にあんな知り合いがいるなんて聞いたことねぇだろ?」
「春さんから話すことだよ。僕たちから口出すことじゃない」
「春から話すの待ってたら卒業しちまうよ。たまにしか話さないんだからさぁ」
「ミィが学校にあんまりこないからだろ」
「お前だって結構サボってんだろうが」
「ミィちゃんとリンちゃんは、いつも仲良いね」
「おうよ、幼稚園からの付き合いよ」
「腐れ縁だよ」
不良のミィちゃんと人付き合いが嫌いなリンちゃんは、中学2年生になってからできた友人だった。
グループワークで余った私を受け入れてくれたのが、知り合ったきっかけだった。
『他の奴より変で面白い』
『静かだからいい』
それが私への評価だった。
そのグループワークから、たまにこうして喋るようになった。
いつもケンカするような口調で2人は話しているけど、表情は明るいから仲がいいのだろう。
「で、誰だよ? 最近妙にオシャレだし、これか? 神経質っぽいけど、まぁまぁイケメン捕まえたじゃんか」
「芥お兄さんは、小指じゃないよ?」
「……相変わらず、知識はないんだな」
「ハンドサインが常識だと思うのも、どうかと思うけどね」
「リンは黙ってろって」
「じゃあ離してくれよ......」
ピンと立てられたミィちゃんの小指の意味は分からない。
2人は通じ合っているから、知らない私が普通じゃないのかもしれない。
「今日来てくれたのは、芥お兄さんだよ」
「へぇ、春に兄貴いたんだ。てっきり、一人っ子だと思ってたわ」
「私、一人っ子だよ」
「ん? でもお兄さんって」
「芥お兄さんは、芥お兄さんだから」
「......春さんと、芥さんはどういう関係なの?」
「芥お兄さんは──」
口を開いて、固まる。
私と芥お兄さんは、どういう関係なのだろう。
血はつながっていないから、家族じゃない。
一方的に物を貰って、知らないことを教えてもらうだけで、私が芥お兄さんにできることは何もない。
そんな関係を、どんな名前をつければいいのだろう。
芥お兄さんは、私のことをどう思っているのかな。
(嫌いって思われてたら、どうしよう)
胸に冷たいものが走った。
あの居場所が無くなったら、私はどこに行けばいいのだろう。
また一人で過ごすだけの日々になってしまうのだろうか。
質問に答えられない私を見て、2人の表情が暗くなる。
「......リン、どう思うよ。悪い男に捕まってると思うか?」
「......春さん、騙しやすそう」
「......行くかぁ」
「......イヤだなぁ」
2人が私に背を向けてひそひそと喋っている。
声は聞こえていたが、会話の意味まではよく分からなかった。
芥お兄さんは、悪い男じゃないよ。
そう言おうとした時、ミィちゃんが振り返って私の肩に手を置いた。
先ほどとは違って、不自然なほど笑顔であった。
その後ろでリンちゃんは、肩をすくめながらメガネを拭いていた。
「春、今日な──」
——————
夕方、ピンポーンとインターホンが鳴る音がする。
どうせ春はインターホンなんて使わないから、セールスだと断定しスマートフォンをいじり続ける。
ピンポーン、ピンポーンと続けて鳴る。
しつこいと思っていたら、ドンとドアを叩く音がした。
近所迷惑だから辞めてくれ。
「芥お兄さん」
ドアでくぐもってしっかりと聞き取れなかったが、春の声がした気がする。
勝手に入ってこないとは珍しい。
それとも、合鍵無くしたのか?
最悪の想定に、顔が引きつる。
春ならやりそうだ。
重い足取りで玄関に向かって、鍵を開けてドアを開ける。
「おい、お前鍵は──」
春を問いただそうとして、絶句する。
春の後ろに、知らない制服姿の女子が2人いた。
「あのね、友達、連れてきちゃった」
胃に穴が開きそうだった。
連れてきちゃった、じゃないんだよガキが。
そう怒れるわけもなく、4人の間に沈黙だけがあった。
まだ、鍵を落としてもらった方がマシだった。
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