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先生あのね  作者: 速水詩穂
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11、8月19日(水)夏休み【2007年志堂回想続き】

 





 夏休みが明けると、その肌は随分いい色に焼けていた。さぞかし休みを満喫したことだろうと思ったが、海に行ったのは部活の合宿の時だけだという。

「特に軟骨魚類の鮫やエイは、排泄物である尿素を捨てずに蓄えることで、体内の浸透圧を海水とほぼ等しく保っています」

 九月十三日、水曜の四限。

 見ると、前から三列目、窓際を定位置にしている明るい髪色の男は、珍しく下を向いて携帯をいじっていた。指名してやろうかと思うものの、他の生徒の性質上、変則は危険と判断した。

 ようやく上がった顔は、しかし一分も経たないうちに再び手元を向く。あごから口元を覆った手のひら。その端にはみ出した口角。男はひとしきりやりとりを楽しんだ後携帯をしまうと、真っ白な壁しか映らない窓の外を見やった。研究室に戻って聞けば、地元の友人とやりとりをしていたという。

「人が一生懸命講義をしているというのに、いいご身分ですね」

「いや、ちゃんと聞いてた」

 思わず顔をしかめる。ぐうの音も出ない、というのはこういう時でも使えるのだろうか。困ったことに、この男の試験の成績は非常に良く、消去法でも「優」をつけざるを得ない。

 自由科目である「生物の多様性」は、後期「生命科学」に変わる。講義の名前自体違うのだから、内容に変化はつけるものの、派生させるほどの深さを持てない以上、ほどんど同質と言って良かった。そして相も変わらずあの男は教室の定位置にいる。

「あなたも暇ですね。地元にいる彼女に連絡でもしたらどうですか」

 嫌味のつもりで言うと、思いのほか熱を帯びた声が返ってきた。

「いや、控えてる。会いたくなるから」

 その返答に、自分で聞いておいて動揺する。確かに分からなくはない。物理的な距離。どうしたって会えないのだ。そうしてこの時、初めてこの男が挨拶以外の言葉を発した時のことを思い出した。

 〈恋は罪悪だと思うか〉

 その横顔。それは携帯をしまった後、何も映らない窓の外を眺めている時と同じ表情だった。

 そうか。あれは「魂合ひ」が故か。

「・・・・・・意外と一途なんですね。あなたならよりどりみどりでしょう」

「いや、」

 その目は遠く一点を見つめたまま。駄目だ。完全に出払っている。

 僕は引き出しを引くと、研究資料を取り出した。手元の明かりをつけると、筆記具を手に取る。

「・・・・・・ダメかと思った」

 顔を上げる。やはりその目は同じ一点を見つめたまま。

「・・・・・・ダメだったらどうしようと思った。マジで。失望して、なくして、いつもと同じルート辿って、そしたらもう俺には何もねぇって」

「・・・・・・。・・・・・・失望することが怖かったんですか?」

「・・・・・・いや、結果的になくすことだな。もし同じもん返されて一瞬でも受け身になったら、他の女と同じように拒絶しちまうんじゃねぇかって。それで関係が終わりになるかもしんねぇって。むしろ俺の方がびびってた。勝手だよな。そうやって燃やすもんがなくなるのが怖かった」

 火はテメェだけで燃えらんねぇだろ。と言うと、男は自嘲気味に笑った。少しだけ胸が引き攣れる。

「でも、結果的に駄目じゃなかった」

 行き交う感情。目の前にいる男の苦しさが伝播するようだった。その目がさらに細まる。眉間に寄った(しわ)

「ああ。今は」

 自分が怖い。そう言うと、男は秀でた額をおさえた。

 驚く。

 その場にいるだけで空気を変える男が、圧倒的に無防備な姿でそこにいた。いつも感じる高揚感、が、別の鼓動を刻み始める。


 護らなければ。


 それは庇護欲。この男のこんな無防備な姿を、誰にも見せてはいけない。

 それは主人に誓う忠誠のようだった。講師という立場でありながら、一方でそれは我が子に抱く感情でもあるかのような。燃やすものがなければ、

「僕を燃やせばいい」

 男は顔を上げた。

「僕はあなたを一人にしない。僕はあなたをむやみやたらに詮索しない。僕ならあなたを」

 そうして笑った。

「何だそれ。お前何言ってるか分かってんのか」

 無邪気な笑顔だった。高揚する。あるもの全て与えたくなる。

「僕は志堂槙。好きに呼んでくれていい」

 男はあきれたように「今さらかよ」と後ろ手をついた。ゆるむ口元。

 既に出会ってから半年が経とうとしていた。

「その代わり僕も好きに呼ぶ。あなたは、そうだな」

 ナツ、だ。

 男は目を丸くすると、再び「何だそれ」と言った。

 春では優しすぎる。秋では大人しすぎる。冬では熱すぎる。何より

 日の光が似合う男だった。あきれる程にぴかぴかと輝く。まぶしくて手をかざす。会うのはいつも室内であるにも関わらず、その姿は容易に想像できた。

 男は慣れない呼び名にはにかむと、もう一度だけ「何だそれ」と言った。言っておいて立ち上がる。

「出かける」

「どこへ?」

 頭をかく。なかなか続かない言葉。

「・・・・・・。・・・・・・気分がいい。外だ」

 何だそれ、と今度は僕が思った。溢れんばかりの高揚感。この思いを一体何という。

 並んで立てば分かる身長差。

「お腹すきませんか?」

「ああ」

 腹に飼う獣、なだめ方の一つに

「少し早いですが食事にしましょう。狩猟本能は空腹によって刺激されます。ならば満たしてしまえばいい」


 車に乗り込むと、助手席の荷物を後ろへやる。

「テメェこそ色気ねぇな」

 なんだかんだで溜まる埃。適当にはたくと、図体も態度も大きい学生は遠慮もせず乗り込んだ。

 北門を出てすぐ、押熊方面に向かって坂を下ること五分。近くに学生御用達の洋食屋があった。Sサイズで成人男性の量だというのだから規格外だ。いい大人なら行かないところでも、腹を空かせた学生の胃袋を考えれば、適量な中での選択だった。

「Mで」

 だからおかしい。言わんこっちゃ無い。

 部活無いから、動いてないからMでいいんだと。どうなってるんだ此奴の胃袋は。当時の僕でもS頼んでたはずだぞ。いや、SSだったかもしれない。

「部活あったらLを頼んでいたんですか?」

「いや、LL。SSなんて頼んでたらマネージャーにも笑われるぜ?」

 世の中には張れる見栄と張れない見栄がある。僕は生物学上雌に分類される相手よりも自分の胃袋の方が大事だ。

 水に口をつけて時計を見ると、ナツがわずかに身体を起こした。

「わり。仕事あるよな。それに学生と食事してたら」

「遅くまで連れ回してはいけないと思っただけです。特定の生徒に対する()()(ひい)()と言われた所で、あなたが優秀なことに変わりはない。何ら後ろめたいことはありません」

 時刻は十七時四十五分。

「時間なら飲み会でオールもある位だ。気にすんな」

「立場が違います。仮にも僕は講師です」

 仮にも、とつけることで何だかしっくりきた。久しぶりに正直になれる気がする。まっすぐ人と向き合う事ができる。

 沈む夕日。店内の照明は決して明るくない。少しずつつ点き始めたのは外にある電飾。

「それに、この程度で支障が出るような量の仕事はこなしていません」

「いつも机にかじりついてるだろ」

「あれは・・・・・・研究です。仕事ではありません」

「教材作りとは違うのか。真面目だな」

 反射的に笑ってしまった。真面目なモノか。

「・・・・・・失礼。違うんです」

 ナツは不思議そうに眉をひそめると、続く言い訳を待つ。

 グラスの中の氷が動いた。外で点灯したライトに照らされて、その影もゆるりと動く。

「・・・・・・言ったでしょう。仕事ではないんです。・・・・・・同級生にいませんでしたか? 熱心に勉学に励んでいるかと思ったら、実は隠れて別の事をしていたような輩が」

 勝手に踊り出した心は、行き着く先も考えず言葉を紡ぐ。後から考えれば軽率な行動は、ナツ相手だから結果的に事なきを得た。それでも、そんなことより、何より、

 僕自身、ナツに正しく理解されたかった。

「・・・・・・少しだけ、僕の研究についてお話します」


 満ちる。

 自分にしか踏み込めない領域、距離感。

 まぶしい光の正面で、この空間を完結させることができる。切り取ってしまえる。

「ナツ」

 その後、何のことないように出されたもの全てをたいらげた男は、車に乗り込むと五分の距離でうたた寝を始めた。あっという間に着いた職員用駐車場。僕は背もたれに身体を預けると足を組む。

「あと五分ですからね」

 落ちかかった(たてがみ)。野生の生き物。

 その安らかな寝息に、胸が引き攣れる。


「この世をば 我が世とぞ思ふ 満月の かけたることも なしと思へば」


 丁度二日後は中秋の名月。膨らみきって落ちかかるより、膨らみきる一歩手前の方が最も明るい気がしてならない。だから僕にとっての満月は、月明かりさえ味方につけるこの男の横顔を見ているこの瞬間。

 この瞬間、最高明度を記録する。







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