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先生あのね  作者: 速水詩穂
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13/43

12、9月9月(水)

 



 黄色のユニフォーム。思い出すのはいつも背中だった。

 単純に目にした頻度に比例して再現される訳だけれど、それでも尚「贅沢」

 思えば勝手に護られていた。


 コンコン、ガラッ。

「失礼しまーす」

 次の瞬間、強い摩擦の生じたつま先。自然、小さくなる語尾。普段コーヒーのにおいが立ちこめる中で、鼻先をなでたのは甘い香り。

 水彩透は先客の可能性を考えずに開けた戸に、冷たい汗がにじむのを感じる。しかしその後振り返った二人は、ともに面識のある相手だった。代わりに湧いたのは静かなノイズ。

「・・・・・・何の用?」

 江角恒星は半身を向けたまま応答する。

「こんなとこにいたんだな」

「何の用か聞いてるの。ここは先生の研究室。社会学部には関係ないでしょ」

「関係ある。とろうと思えばとれる授業だ」

「なら少なくとも、とってない今は関係ないでしょ」

「コーセーはぁ」

 水彩透は視軸をずらした。幼馴染みの男子学生より一回り大きい女性。身動きする度に立つ香り。その出所は彼女だった。いつも満ちているコーヒーのにおいが圧される。その真紅の唇が動いた。

「アナタに用があってここに来たんじゃなーい。分かってるクセにー」

 無表情。語尾の「に」の音が伸びるにも関わらず、厚みを失わない唇。

「・・・・・・誰ですか」

「初めましてぇー? 前にグランドで会ったケドー。あたしマリって言いまーす。四回だケドー全然タメ語とかでいいからーヨロシクねー」

 愛想のつもりだろうが完全に笑わない目元。だからつり合わない口調。

 前見たときと同じ、全身真っ黒の洋装。ロングスカートの質感はベロア。この暑いのに手袋までしてる。日焼け防止、というなら、惜しげもなく露出している肩から手首までは何だというのだろう。

 豊満な胸が、伸縮性の高いトップスの縦に走る縫い目を大きく湾曲させている。

「・・・・・・二年以上いますが、今まで一度もお見かけしたことがありませんでした」

「いや、真梨さんは通信だから」

 恒星が補足する。

 なるほど、この大学には通信学部がある。主に年配の方が当時学べなかった勉強をするためのもので、それなら見かけることがないというのも納得できた。

 通信学部の関連施設はグラウンドの北側、一方透達が講義で使うのは、その東側にある研究棟の南東に位置する教室棟だ。それこそよっぽどのことがない限り会うことはないだろう。

「もうっ! だからマリでいいって言ってるのにー!」

 マリ、と名乗った女性は、そうして不満を訴えると身体をよじった。その様子は、乏しい表情のせいで嫌に不気味だ。透は声を抑えて続ける。

「・・・・・・どうでもいいけど外でやりとりしてもらえませんか? 私は先生に用があってここに来ているので」

「その通りです。水彩さん、この二人を連れて出て行ってくれませんか?」

 この部屋の主であるにも関わらず、今の今まで存在感ゼロを保っていた講師がようやく口をはさむ。当然の事だが、女生徒は納得できない。

「・・・・・・聞こえましたよね? 私は先生に用があって来てるんです」

「俺も用があって来てるんだよ」

「じゃあマリもー」

「・・・・・・ここは遊び場じゃありません」

「いえ、私はただ先生と」

「遊びになんか来るわけねぇだろ。こんな辛気くせぇ部屋」

「じゃあマリもー」

 透はこのカオスすぎるやりとりにめまいを覚えた。

 そのため自然と、自分の後ろに続く芋づる式の芋たちを『蜘蛛の糸』のごとく蹴落としてやりたい衝動に駆られる。結果、

「出なさい。隣の研究室の先生に迷惑です」

 蜘蛛の糸は原作に忠実に、女生徒の上で切って落とされた。


 不本意で追い出された廊下は、残暑を孕もうとどこまでも冷たい。無言のまま研究棟の階段を下りて、まっすぐ玄関に向かう。その後中央のロビーに出ると同時に、女生徒は怒りを爆発させた。

「邪魔しないで! 本当に迷惑なの!」

 応えるのは男子学生。

「違ぇよ、邪魔するつもりはない。俺はただお前が」

「あたしもーただコーセーと一緒にいたいだけなのにー」

 肉感たっぷりの赤がうるさい。身動きのたびにまき散らす、甘い香り。

「あなたこそ場違いじゃない。お願いだからよそでやって。あの場所には近づかないで」

 思わず言葉が荒くなってしまう。上った血が下がらない。けれども女性はきょとんと目を丸くすると、変わらぬ調子で「なんでー? スイサイサンにそんなこと言うケンリなくなーい?」と首を傾げた。

「マリはコーセーの好きなものを知りたいしーコーセーがナニを大事にしてーナニに興味があるか知りたいだけなのにー」

 人差し指がスライドする。

「だからー、スイサイサンが大事にしてるモノってーマリにとっても大事なのー」

 その目がしっかりと女生徒をとらえる。それは丁度両手をつかまれるのに似ていた。背筋を嫌な汗が伝う。まとわりつく、粘着質なナニカ。

 甘い香り。鼻先を振り払うようにして、女生徒は再び男子生徒を向き直った。

「とにかく私は」

「なんでー」

 遮られる。

「スイサイサンはー志堂センセーがいいのー?」

 ゆるやかに弧を描く、それはリボン。その側面にきらめくは、研ぎ澄まされた刃。

 その大きな目は、不審な動きを許さない。

「・・・・・・・ほっといてよ。関係ないじゃない」

「ほっとけないよー。だってー、それでコーセーはアソコに行かなくて済むようになるかもしれないじゃなーい? そうすればマリも行かなくていいからー、スイサイサンの望むようになるしー」

 思わず目を伏せる。透の頬を恒星の視線が焼く。少しの思案の後、女生徒が発したのは、真梨の求める答えとは別のものだった。

「気を付けて」

「何がー?」

「・・・・・・先生・・・・・・・『志堂先生』って呼ばれるの、すごく嫌がるから」

 ゆっくりまばたきをする。廊下がシン、と鳴った。


【透回想】


 あれは丁度今年の春。ラウンジのコピー機の調子が悪かったため、たまたま通りかかった先生に助けを求めた時のことだった。細身になで肩、猫背に丸メガネ。身長百七十五前後の、典型的な研究者の外見をした講師は、ため息一つやってきて、

「あなたは複写機の原理を知っていますか?」

 と聞いた。フクシャキ。慣れない単語に戸惑って、すぐ反応できずにいると、

「まず感熱紙に原稿の像を投影して、静電気の像をつくる。次にそこに粉末状のインクをかけて、感光紙上にインクの像をつくる。その後それを紙に移してから熱で粉末のインクを溶かして紙に付ける」

 と続けた。続けながらコピー機の側面の扉を開け閉めする。

「複写機自体は誰の模倣をする訳でもなく、良識をも問わず、複製を量産し続けています。この機械の生みの親は、きっとより多くの人に一つの作品や考えを広げたかったんでしょう」

 ざわりとする。そこまで聞いて初めてたしなめられていることに気付いた。

「違うんです。これは先輩に頼まれて」

 講師は身体を起こすと「これは失礼」と言って、中央広場へつながる廊下に向かった。

「先生、志堂先生!」

 用を忘れて慌ててその後を追うと、振り返ったその表情はひどく険しかった。メガネの真ん中を指で押し上げる。

「志堂先生、と呼ぶのはやめていただけますか?」

 丁寧な話し方は変わらない。変わらないが、その静かな声が、ドンとお腹にぶつかるのを感じる。講師はそのまま中央広場を抜けて研究棟に向かった。

 数分後、痛風に悩まされ続けている大町教授が、いつも通り左足をかばう歩き方をしながらやって来て、いじること数分、コピー機は再び動き出した。大げさな音を立てて吐き出される紙。

 その様子をじっと見つめる。まばたきすらせず、じっと。

  辺り一帯に響く音に、自身の鼓動が重なった。ゆっくり目を閉じる。まぶたの裏に残った用紙の角の白。

 私は知らない。何故「先生」は良くて「志堂先生」はダメなのか。でも、


 細身になで肩、猫背に丸メガネ。身長百七十五前後の、典型的な研究者。

 ・・・・・・。・・・・・・ごめんね先生。

 本当は「たまたま通りかかった先生に助けを求めた」訳じゃない。

 知ってた。もっと前から。

 先生の存在も、先生が毎週この時間にここを通ることも。

 全部全部、知ってたんだよね。






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