王女と侍女の出会い
本編よりも十年近く前のお話。
サイシェイはやさぐれています。
「第二王女殿下付きの侍女が公募されている。今すぐ、提出資料を整えて試験を受けるのだ」
家に帰るなり待ち構えていた父の第一声。肩からバッグを下ろそうとしていた少女は、あんぐりと口を開けて父をぽかんと見上げていた。
「……お父様? えっと、それはどういう……」
「我が国の第二王女であられるシスティナ様の侍女になれと言っているのだ」
父はイライラしたように繰り返し、外で遊んできたばかりで埃っぽく、艶のある黒髪もぼさぼさな娘を玄関から一瞥する。
「これもいい勉強だと思え。既に城の方には話を通している。後はおまえ直筆の書類をしたためるだけだ」
「は……ちょ、えっと、待ってよ」
「待たん」
「待てっつってるだろこのクソジジイ!」
「クソジジイとは何だ! それが親に対する物言いか!」
「ああそうだよ! ハゲ散らかした分際で勝手に私の進路を決めるな!」
「どうしても嫌だというならばこの父親を倒していけ!」
「おう、歯ぁ食いしばりな!」
誤解される前に説明しておこう。
この会話は、医師を多く輩出する名家、ミシェ家の様子である。繰り返す。グラディール王国の貴族である名家、ミシェ家の父と娘の日常である。
「合格通知……はぁ? 本気なのこの試験監督?」
数週間前に父と娘が殴り合いのケンカをした、ミシェ家の玄関にて。
郵便屋から自分宛の手紙を受け取った娘は、その場で封筒を空けて中の書類を見る成り、素っ頓狂な声を上げた。それもそうだろう。先日冷やかしで受けた侍女採用試験にあろうことか合格してしまったのだから。
「あんなダラッダラな態度で受けた面接が通るなんて……グラディールの未来は暗いわ……」
「あら、サイシェイ」
娘がブツブツ呪いの言葉を吐きながら玄関をくぐると、ちょうどエントランスの花を生けていた母が振り返った。いくつになっても若々しくて美しい母を見る度に、サイシェイはなぜ自分が父親似なのだろうかと苦悶することになるのだ。
そんなことは露知らず、母親は笑顔で生花の向きを変えつつ、手紙を手にしたまま呆然と立ちつくす娘を見た。
「どうしたの、そのお手紙。気になる男の子からのラブレター?」
「ラブレターは女の子からしかもらったことはない。……そうじゃなくて、これ、この前の試験結果」
「あらま、希望通りに落ちたの?」
「いや、受かった」
「あらま」
母親はくいっとカスミ草の向きを変えると、満足そうに微笑んで胸の前で手を合わせる。
「受かってしまったものは仕方ないわね。サイシェイ、すぐに侍女の準備を進めましょうね」
「……これ、さてはお父様が一枚噛んでたりしない?」
「さあね?」
「よいか、セイシェール。システィナ様は内気なお方だ。おまえが普段の家のように振る舞って暴走して、王女様を困らせてみろ、おまえが嫌がる例の薬屋の息子と見合いさせてやるからな」
「はいよ」
「返事を改めろ! ここはもう王城だ。城内では、私のことをお父様ではなく、イゴール様と呼ぶように」
「了解、イゴール様」
「うむ、では侍女としての職務に励むように!」
「はいよ」
「……返事!」
「はいはい」
なおも後ろからガミガミ言ってくる父親にチッと舌打ちを返し、サイシェイはぼりぼりと首の後ろを掻きつつ王女の部屋に向かう。おろしたての侍女服は、素材が固くて袖周りや首周りがチクチクと痒くなる。さっきまで袖から反対側の手を突っ込んで掻いて父親に叱られたばかりだ。
サイシェイはふん、と王女の部屋のドアを睨み付ける。
第二王女だか何だか知らないが、とんでもないことに巻き込まれてしまったものだ。まぐれで試験に受かるものだから、今まで城下街で気ままに遊んで暮らしていた日々があっという間に奪われてしまった。
合格通知を受け取ったその日から今日まで、楽しくもおもしろくもない侍女修行の毎日。やる気もない、とりわけ才能があるわけでもない十歳の少女は、勤務初日からやさぐれモードだった。
第二王女なんて、名前すら怪しいくらい影の薄いお姫様だった。ティーリア王女と違って人前にも出ないし、内気で泣き虫だという。いっそのこと王女を泣かせて自主退職してやろうか。そして薬屋の息子との見合いの場でも、トレイを投げるなりして派手に破談させてやろうか――
先ほどから、背中にチクチクと巡回の騎士の視線を感じる。「さっさとノックしろよ」と視線で語られ、サイシェイは渋々、ドアをノックした。
「システィナ様、いらっしゃいますか。本日よりシスティナ様の専属侍女となりました、セイシェール・ミシェでございます」
返事はない。予想はしていたが、ものの見事な無音である。
あと二回、同じことを繰り返して反応がなかったら帰ってやろう。そう思って二度目の挑戦をするべく、拳を上げた。
「……だれ?」
かなり遅れて、返事があった。内心チッと舌打ちをしつつ、サイシェイは上品そうな声を出す。
「ミシェ家の娘、セイシェールでございます。本日より姫様の侍女となりましたので、ご挨拶に伺いました」
できることなら、このご挨拶が最後のお別れの挨拶になればいいのだが。
サイシェイがぼんやり思っていると、内側からドアが開いた。おや、とサイシェイは首を捻る。普通、こういう時は「どうぞ」と許可を得てから、サイシェイの方がドアを開けるものなのだが。
少しだけ開いたドア。その隙間から覗く、一対の澄んだグリーンの目。その目は、サイシェイが思っていたよりもずっと下の位置にあった。
「……セイシェール?」
「はい。よろしければ、サイシェイをお呼びください」
「……サイシェイ」
口の中で繰り返す王女。そんな彼女を見、サイシェイは笑顔の下で心を凍り付かせる。
確か第二王女システィナは、サイシェイより二つ年下だったはずだ。となれば、歳は八歳。それにしてはこの王女はあまりにも小さすぎた。
サイシェイは王女に促されて、部屋に入った。その部屋の殺風景さに息を呑むと同時に、改めて間近で見てみた王女の出で立ちに、ぞくりと背中を嫌な汗が流れた。
王女システィナは、慎重がサイシェイの胸の辺りまでしかない。いくら小柄とはいえ、これは異常だ。おまけに、異様に手足が細い。姉王女のお下がりとおぼしきよれたドレスの裾からは、木の皮のように肉が落ちた手の平が覗いている。
そして何よりも、この目。
明るいグリーンの目は、濃い紫色の目のサイシェイからすれば神秘的で羨ましいばかりなのだが、その目の覇気と生気のなさに、言いしれぬ恐怖が沸き上がってくる。この目は、本当に八歳の王女が持つような目なのだろうか。
眼差しは虚ろで、怯えるようにきょときょとと視線も定まらない。サイシェイを前にして何を言えばいいのか分からないらしく、指先でもじもじとドレスの裾を弄り、そうしつつも足はサイシェイから逃げるようにじりじりと後退している。
この王女は、ひょっとして――
ずきんと、胸が痛い。
居たたまれず、サイシェイはその場に膝を折った。こうすることでやっと、王女の顔をしたから見上げることができた。
「……システィナ様」
「……」
何も言わず、これといった反応も示さない王女。
ちょっと前までのサイシェイだったら反応内相手に対してイライラしただろうが、今はこの小さすぎる王女に対して怒ろうという気持も湧いてこなかった。
サイシェイは逃げ腰になる王女を見つめ、自分にできる限りの優しい声を出す。
「システィナ様、お好きなものはございますか?」
「……?」
王女は首を傾げる。初めての反応らしい反応に、サイシェイはほっと息を吐き出す。
「ご趣味です。絵を描くこととか、お裁縫とか、歌ですとか。何かありませんか?」
「……」
王女は困ったように、目線を泳がせる。まさか、無趣味ということはないだろうが。
サイシェイは改めて、王女の部屋を見回した。必要最低限の家具しか置いていない、薄汚れた部屋。八歳の王女なら使うのではと思われるようなおもちゃや本の類が、一切ない。
本……そういえば。
「システィナ様。実はわたくしは、読書が好きなのです」
「どくしょ?」
王女の顔が上がる。
「どくしょ……本を読む?」
「左様です。わたくしの実家には流行の小説も多く揃えているのですが……いかがでしょうか、城下街でシスティナ様くらいの歳の少女に人気の小説、読んでみませんか?」
王女の緑の目が、丸くなる。そのまましばらく何か考えるように黙っていたが、やがてこっくり、頷く。
「……読む。読みたい」
「かしこまりました。では明日、必ず持って参りますね」
「……サーシェ?」
「サイシェイですよ、システィナ様」
王女は瞬きする。そうしてゆっくり、小さな手を持ち上げた。
薄っぺらな手の平が自分の肩に乗せられ、サイシェイは小さく息を呑んだ。
「サイシェイ……よろしく、おねがいします」
舌っ足らずな、それでも一生懸命言った、王女の言葉。
サイシェイは目を丸くした。そうして、ふっと微笑んで王女の前で深く頭を垂れた。
「……はい。わたくしがあなたをお守りします、システィナ様」
この日から、サイシェイは自分に誓った。
必ず、この小さな姫君を守るのだと。
王女に笑顔というものを教え、孤独な彼女の共となり、いつも側にいることを。
十歳の少女は、自ら主君と決めた小さな王女の前で、そう誓いを立てたのだった。




