第十二章 錆びた翼の修理士
それから、ひと月が過ぎた。
ロウ整備工房には、少しずつ客が増えた。
理由は単純だった。
リラがいるからだ。
彼女は、壊れた機械の異常を見つけるのが得意だった。
古い暖房機の故障。
荷車の駆動軸の歪み。
蒸気圧縮機の弁の摩耗。
彼女はそれらを見て、どこが悪いのかを的確に指摘した。
ガレスは、その助言をもとに修理を進めた。
おかげで、仕事の効率は大幅に上がった。
近所の人々は、二人をこう呼ぶようになった。
錆びた翼の修理士と、その小さな相棒。
ガレスは、その呼び名を嫌がった。
「……翼なんか、もう錆びついてる」
そう言うと、リラは首を傾げた。
「錆びているなら、磨けばいいと思います」
「……簡単に言うな」
「ガレスさんが、いつもそうしています」
彼は、返事に困った。
ある日、工房に一人の老人が訪ねてきた。
古い飛空艇の操縦士だった。
名前はオルド。
かつてガレスと同じ整備局にいた男で、今は小型貨物艇で地上と空中都市を行き来している。
「……久しぶりだな、ガレス」
「……オルドか」
「噂を聞いたぞ。なんでも、すごいアンドロイドを拾ったそうじゃないか」
「……どこからそんな話が広まるんだ」
「廃材区画は狭いからな」
オルドは、リラを見た。
「お嬢ちゃんが、その相棒か」
リラは、丁寧に頭を下げた。
「リラです」
「そうか。よろしくな」
「よろしくお願いします」
オルドは、工房の奥に置かれた模型を見つけた。
「……おや、これは」
彼は模型を手に取った。
「懐かしいな。グレイハウンドの試験機に、よく似ている」
ガレスの手が止まった。
「……何だと?」
「いや、船体の形がな。翼の角度も、昔の設計に似ている。誰が作ったんだ?」
ガレスは、リラを見た。
「……リラだ」
「ほう」
オルドは、模型を慎重に置いた。
「こいつは、よくできている。少し改良すれば、小型の実験艇くらいなら作れるかもしれん」
「……実験艇?」
「ああ。古いエンジンを使って、低空を飛ぶだけのやつだ。部品は必要だが、作れないこともない」
ガレスは黙っていた。
オルドは、彼の顔を見た。
「……まだ、空は怖いか?」
ガレスは、答えなかった。
オルドは、ため息をついた。
「無理にとは言わん。ただな、ガレス。おまえの腕は、まだ死んでいない」
彼は、工房の中を見回した。
「それに、いい相棒がいるじゃないか」
リラは、ガレスを見上げた。
琥珀色の瞳が、静かに光っていた。
ガレスは、窓の外を見た。
空は、今日も灰色だった。
それでも。
「……設計図を持ってこい」
彼は、そう言った。
オルドは、にやりと笑った。
「おう。任せとけ」
その日から、工房では新しい仕事が始まった。
古い飛空艇の設計図を探し、使える部品を集め、エンジンの構造を調べる。
リラは、図面を読み解くのが得意だった。
ガレスは、部品の加工を担当した。
オルドは、操縦系統の設計を手伝った。
少しずつ。
少しずつ。
工房の裏に、小さな飛空艇の骨格が組み上がっていった。
船体は古い貨物艇の廃材から作った。
翼は、使い古された気球船の骨組みを加工した。
動力炉は、壊れた暖房機の部品を大量に流用した。
見た目は、ひどいものだった。
船体は左右で色が違い、翼には補修跡が残り、煙突は少し曲がっていた。
だが、リラは気に入っていた。
「……かわいいですね」
「どこがだ」
「全部です」
「……そうかよ」
ガレスは、苦笑した。
船体の側面には、小さな文字が刻まれた。
リラ号。
名前をつけたのは、ガレスだった。
リラは、その文字を何度も指でなぞった。
「……わたしの名前です」
「ああ」
「この船も、リラです」
「そうだな」
「……うれしいです」
彼女は、そう言った。
その声を聞きながら、ガレスは最後のボルトを締めた。
かちり。
金属が、確かに噛み合った。
やがて、試運転の日が来た。
工房の前には、近所の人々が集まった。
子供たちは目を輝かせ、大人たちは半信半疑の顔をしていた。
「本当に飛ぶのか?」
「さあな」
ガレスは答えた。
リラは、船体の横に立っていた。
彼女の右脚は、以前よりもずっと滑らかに動くようになっていた。
「……ガレスさん」
「なんだ」
「飛ぶでしょうか」
ガレスは、船体を見た。
不格好な翼。
古いエンジン。
継ぎ接ぎだらけの機体。
どれを取っても、最新の飛空艇には遠く及ばない。
だが、彼は知っていた。
この船は、二人で直したものだ。
何度も失敗して。
何度もやり直して。
そのたびに、少しずつ形になった。
「……飛ぶさ」
ガレスは言った。
「俺たちが直したんだからな」
リラは、ゆっくりと頷いた。
「はい」
エンジンが始動した。
蒸気が噴き出す。
歯車が回る。
古い動力炉が、低い音を立てた。
船体が、少しだけ揺れた。
それから。
ゆっくりと、地面から浮き上がった。
十センチ。
二十センチ。
五十センチ。
リラ号は、ふらふらと空へ浮かんだ。
人々が歓声を上げた。
リラは、両手を胸の前で握りしめていた。
「……飛びました」
「ああ」
「……飛びました!」
「聞こえてる」
ガレスは、操縦席に座っていた。
手が震えていた。
長い間、握っていなかった操縦桿。
懐かしい感触。
胸の奥で、何かが軋んでいた。
恐怖。
後悔。
悲しみ。
そして。
ほんの少しの、喜び。
リラ号は、ゆっくりと高度を上げた。
工房の屋根を越え、崖の上へ。
灰色の街並みを見下ろし、雲の切れ間へ向かって進んでいく。
ガレスは、窓の外を見た。
空が広がっていた。
青い空。
白い雲。
遠くに浮かぶ、空中都市。
彼は、操縦桿を握り直した。
「……リラ」
「はい」
「……空だぞ」
リラは、窓に顔を近づけた。
琥珀色の瞳に、青空が映った。
「……はい」
彼女は、静かに答えた。
「きれいです」
ガレスは、少しだけ笑った。
「ああ。きれいだな」
リラ号は、ゆっくりと空を進んだ。
錆びた翼が、風を受ける。
古いエンジンが、懸命に回る。
完璧ではない。
速くもない。
高く飛ぶこともできない。
それでも、二人は空にいた。
ガレスは、窓の外を見つめた。
そして、胸の奥で、長い間止まっていた何かが、静かに動き始めるのを感じた。
失ったものは戻らない。
ミアも、エリナも、帰ってはこない。
それでも。
この空の下で、また誰かと生きることはできる。
そのことを、彼はようやく受け入れ始めていた。
リラは、隣の席で小さく呟いた。
「……ガレスさん」
「なんだ」
「また、飛びましょうね」
ガレスは、操縦桿を握ったまま頷いた。
「……ああ」
リラ号は、雲の切れ間を抜けた。
陽光が、船体を照らした。
継ぎ接ぎだらけの翼が、金色に輝いた。
その翼は、錆びていた。
傷だらけだった。
それでも、確かに空を飛んでいた。
そして、空の下には、まだ直すべきものがたくさん残っていた。
壊れた機械。
失われた記憶。
傷ついた人間。
誰にも拾われず、廃材の山に埋もれているもの。
ガレスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……さて」
彼は、隣の少女を見た。
「帰ったら、次はどこを直す?」
リラは、少しだけ考えた。
それから、窓の外を指さした。
「……あの、向こうの空中都市へ行ってみたいです」
「……そりゃ、ずいぶんと大きな仕事だな」
「だめですか?」
ガレスは笑った。
今度は、ちゃんと笑えた。
「……いや」
彼は、操縦桿を軽く傾けた。
「相棒の頼みだからな」
リラ号は、ゆっくりと進路を変えた。
空中都市の巨大な影が、遠くに見えていた。
その先に何があるのか、二人にはわからない。
危険が待っているかもしれない。
新しい敵が現れるかもしれない。
リラの失われた記憶が、二人を思いもよらない場所へ導くかもしれない。
それでも。
今は、ただ飛べばよかった。
錆びた翼で。
小さな相棒と一緒に。
雲の上にある世界へ。
そして、まだ見ぬ明日へ。
終章 工房の灯り
その夜、リラ号は無事に工房へ戻った。
飛行時間は、わずか二十三分。
最高高度は、地上から百八十メートル。
途中で圧力弁が二度詰まり、左翼の固定ボルトが一本抜けかけた。
帰還後、ガレスは三時間かけて点検を行い、翌日の修理箇所を記録した。
リラは、その隣で工具を片づけていた。
「……ガレスさん」
「なんだ」
「今日は、楽しかったですか」
ガレスは、工具を拭いていた手を止めた。
「……ああ」
「よかったです」
リラは、いつものように頷いた。
それから、作業台の隅に置かれた青いガラス片を見た。
拾った日のまま、少し欠けている。
隣には、乾燥した小さな花。
そして、その横には、ミアが作った古い模型が置かれていた。
ガレスは、それらを見た。
かつては、見るたびに胸が痛んだ。
思い出すことが苦しくて、触れることもできなかった。
だが、今は違った。
失ったものを忘れたわけではない。
悲しみが消えたわけでもない。
ただ、その隣に、新しいものを置けるようになった。
青いガラス片。
小さな花。
不格好な模型。
そして、リラ号の設計図。
ガレスは、ゆっくりと立ち上がった。
「……そろそろ寝るぞ」
「はい」
リラは、作業台の上に置かれた工具を片づけた。
ガレスは暖房機の火を弱めた。
工房の照明を落とす。
薄暗い室内に、窓から月明かりが差し込んだ。
リラは、いつものように作業台の隣に立っていた。
「……おやすみなさい、ガレスさん」
「……ああ。おやすみ」
ガレスは寝台へ向かった。
その途中で、ふと足を止めた。
「……リラ」
「はい?」
「……明日も、頼むぞ」
リラは、一瞬だけ目を丸くした。
それから、ゆっくりと笑った。
「はい、相棒」
工房の外では、夜の風が吹いていた。
遠くの空中都市では、巨大な歯車が回り続けている。
どこかで蒸気が噴き出し、どこかで機械が壊れ、どこかで誰かが助けを求めている。
世界は、相変わらず不完全だった。
それでも、廃材区画の片隅には、小さな灯りがともっていた。
壊れたものを直す男と、拾われた少女のアンドロイド。
二人の工房には、明日もきっと、誰かが訪れるだろう。
壊れた暖房機を抱えた老人。
動かなくなった荷車を押す母親。
部品の足りない小型艇を引きずる若い操縦士。
そして、いつか。
空中都市から落ちてきた、古い秘密を抱えた機械が。
そのたびに、ガレスは工具を手に取る。
リラは、隣で部品を並べる。
彼らは、すべてを救うことはできない。
世界を変えることも、過去を取り戻すこともできない。
けれど、目の前にあるものなら。
壊れた歯車ひとつ。
曲がった配管一本。
冷え切った誰かの心の、ほんの小さな部分なら。
直せるかもしれない。
工房の壁には、手書きの看板が掛かっていた。
ロウ整備工房。飛空艇、蒸気機関、その他なんでも。
その下に、リラが新しく書き足した文字がある。
相棒、います。
文字は少し曲がっていた。
インクも滲んでいた。
ガレスは、それを見て何も言わなかった。
ただ、翌朝、看板を直すとき。
その文字だけは、決して消さなかった。
錆びた翼は、まだ飛べる。
壊れた機械は、まだ動ける。
そして、誰かに拾われた小さな命は、もう一度、世界を好きになれるかもしれない。
灰色の空の下。
工房の灯りは、朝まで消えなかった。




