第一章 雨の降る廃材置き場
雨が降ると、空の色がわからなくなる。
雲の上に浮かぶ都市では、雨は珍しいものだった。蒸気機関の排煙が雲を厚くし、空を覆うからだ。だから、地上に雨が降る日は、空中都市から落ちてきたものが増える。
壊れた歯車。
焼き切れた配管。
翼を失った小型艇。
そして、ときには、人間だったもの。
男は、油布のフードを目深にかぶり、泥水の溜まった道を歩いていた。
名前はガレス・ロウ。四十七歳。職業は飛空艇修理士。かつては空中都市連合の第三整備局に所属し、軍用輸送艇の主任整備士を務めていた。
今は、都市の外縁にある廃材区画で、拾った部品を直しては売り、売れ残った部品でその日をしのいでいる。
立派な経歴は、今では何の役にも立たない。
第三整備局は六年前に解体され、軍用艇の設計図は上層市民の資産になり、ガレスの右脚には古傷が残った。
何より、彼は空を飛ぶことが嫌いになっていた。
それでも修理士をやめられないのは、ほかにできる仕事がなかったからだ。
「……今日はハズレか」
ガレスは錆びた隔壁を蹴った。
ガン、と鈍い音がした。
廃材置き場は、旧時代の採掘坑を利用した巨大な窪地だった。空中都市で不要になった機械が、貨物エレベーターを通じてここに投棄される。
地上に暮らす者たちは、それを拾って暮らしていた。
まともに動く部品があれば、パンが買える。
高性能の圧力弁なら、ひと月分の家賃になる。
軍用の制御核でも見つかれば、人生が変わるかもしれない。
ただし、そんなものが落ちてくるのは、十年に一度あるかどうかだった。
ガレスは泥に沈みかけたコンテナの隙間を覗き、使えそうな配管を一本引きずり出した。
肉厚は十分。腐食は表面だけ。蒸気圧にも耐えられる。
悪くない。
彼がそれを肩に担いだとき、何かが聞こえた。
かすかな音だった。
雨音に紛れてしまいそうな、短い電子音。
ピ。
ガレスは足を止めた。
もう一度。
ピ、ピ。
「……ネズミか?」
この辺りのネズミは、たいてい機械の配線を食う。旧時代の生体改造で妙に賢くなった連中もいる。人の手から食べ物を奪い、時には小型の発電機まで巣に持ち帰る。
だが、この音は違った。
規則的すぎる。
ガレスは配管を地面に置き、音のする方向へ歩いた。
崩れた壁の奥。潰れた搬送機の下。そこに、黒い防水シートが半分ほど埋まっていた。
シートをめくる。
人間の腕があった。
小さな、白い腕。
「……おいおい」
ガレスは思わず息を吐いた。
腕の先には、細い指が五本。手首には真鍮の接続リング。肘の内側には、旧時代の製造規格を示す刻印があった。
アンドロイドだ。
しかも、かなり小さい。
ガレスは周囲を確認した。
子供型の機械人形は、今でも上層市民の家庭で使われている。だが、それらは高級品だ。ここに落ちているようなものではない。
まして、こんなに小さい個体は。
「おい。聞こえるか」
返事はない。
ガレスはシートをどけ、周囲の廃材をひとつずつ取り除いた。
現れたのは、少女の姿をしたアンドロイドだった。
年齢に換算すれば、七歳か八歳ほどだろうか。
銀灰色の髪は泥に汚れ、額の左側が大きく割れている。片方の瞳は失われ、もう片方は琥珀色のレンズが剥き出しになっていた。
胸部装甲はひしゃげ、腹部から伸びた配線は何本も切れている。
右脚は膝から下がなかった。
それでも、少女の左手だけが、かすかに動いていた。
指先が、何かを探すように空を掻いている。
ピ。
ガレスは、その手を見つめた。
「……まだ動くのか」
機械の生命維持系統は、電力が尽きれば停止する。長時間停止した個体は、記憶領域の損傷を免れない。
この状態なら、普通は廃棄処分だ。
部品として売るにしても、回収費用のほうが高くつく。
ガレスは立ち上がった。
雨がフードを叩いていた。
今日は食事を二回抜くつもりだった。家賃の支払いも遅れている。修理工房の暖房機は壊れたままで、冬が来る前に直さなければ凍えることになる。
こんなものを持ち帰る余裕はない。
そう思った。
思ったのだが。
「……まったく」
ガレスは腰を屈め、少女の背中に手を差し入れた。
想像していたより、ずっと軽かった。
まるで、中身が空っぽの人形みたいに。
「拾い食いするなって、親に教わらなかったのか」
当然、返事はない。
ガレスは少女を油布で包み、背負い上げた。
壊れた配管は、その場に置いていった。
パンが買えるはずだった金額が、雨水と一緒に遠ざかっていく。
彼は振り返らなかった。
ただ、背中から聞こえた小さな電子音を、もう一度だけ確かめた。
ピ。
それは、何かに似ていた。
ずっと昔、まだ自分が整備士になりたてだった頃。
初めて動力炉に火が入ったときの音に。
世界のどこかで、何かが目を覚まそうとする音に。




