嵐の訣別1
撤退戦。それはあらゆる戦いの中でも、最も苛烈で、最も精神を摩耗させる地獄だった。
背後には、圧倒的な物量で追いすがるギド帝国の遠征軍五万。 前方には、傷ついた将兵と、家を焼かれ、着の身着のままで逃げ惑う避難民の群れ。 彼らを抱えた行軍の速度は、乾いた大地を這うカタツムリのように遅々として進まない。
だが、絶望の淵に立たされた彼らにも、唯一の幸運があった。 ジギ王がその身を賭して敢行した、凄絶な肉弾攻撃である。 一国の王が火薬樽を抱えて敵陣へ突入するという、騎士道をも踏みにじる必死の強襲は、ギド軍の物資集積所を粉砕し、侵略の総指揮官であるドクター・バグ自身を負傷させるという、奇跡的な戦果を挙げていた。
それから三日。 ゴバ王国へと続く一本道の街道を進む一行は、未だ道半ばにいた。 この七十二時間、タロと女騎士ゾガの二人は、一度も大地を踏みしめて眠ることはなかった。
昼夜を問わぬ二交代制。 タロの駆る『ガル』と、ゾガの『ガダイン』が、代わる代わる上空へと舞い上がり、後方の空を睨み続ける。 交代を告げ、翼を休めるわずかな時間でさえ、馬車の荷台で泥のように意識を失うだけだ。 夢を見る暇さえない、極限の三日間だった。
「……食い物も、さすがに堪えてくるな」
狭隘なガルのコックピット内で、タロは乾いた喉から声を絞り出した。 配給されるのは、この世界の主食である、乾いた麦に似た土着の穀物を練ったもの。 そして、酸味ばかりが際立つ麦酒に似た酒と、増加食とされる、喉を刺すほど塩辛い肉の干物だけだ。
贅沢を言える立場でないことは、誰よりも軍人であるタロ自身が理解している。 大日本帝国海軍の軍人として、地方人よりは肉や洋食に親しんできた自負はあった。 だが、一度その味を知らぬまま数ヶ月が過ぎれば、脳が、そして身体が、ある特定の感覚を渇望し始める。
炊きたての白飯。 その甘やかな香りと、口の中で解ける瑞々しい弾力。 タロはこのガランドに来てからというもの、一度も「米」を口にしていない。
「米だよ、ギギ。あと味噌と醤油……。それさえあれば、俺たち日本男児は、どんな不毛な戦場でも戦い抜けるんだがな」
計器盤の隅で、タロの独り言に応えるように白い光が明滅した。 タロの飛行服の胸ポケットから、ガラスの精霊ギギがひょっこりと顔を出す。
【コメ? ミソショーユ? なんだかわかんないけど、それがタロの故郷の料理なのね?】
ギギの身体を構成する透明なガラスの奥で、好奇心を示す純白の光が細かく波打つ。
「ああ。料理というか、命の根源だな。……日本に帰ったら、静の作る料理をうんと食べるんだ。あいつの作る卵焼きは、それはそれは美味しいんだぞ。出汁の香りが鼻を抜けて、ほんのり甘くてな……」
【大丈夫だよ、タロの脳内のイメージは、私にはちゃんと伝わってるから! 私も食べてみたいな、そのタロの故郷の料理。……まあ、私はガラスだから、食べても喉に詰まるだけなんだけどね!】
ギギのいつもの軽口が、狭い操縦席に響いた。 その瞬間だった。
ガルの計器盤の一角に移植された、かつての愛機――零戦二一型の残骸。 その一部が、物理的な衝撃を伴う不規則な振動を始めた。
タロの背筋に、氷のような冷徹な直感が走る。 「――ギギ! ポケットに掴まれ!」
タロの視線が、遥か後方の地平線へと突き刺さった。 陽炎の立つ乾いた大地を揺るがし、猛烈な土煙を上げて肉薄する影。 二足歩行の獰猛な爬虫類に跨り、鉄の槍を掲げたギド軍の騎馬軍団だ。
「数は五百といったところか。……追撃戦にしては、絶妙に嫌な数だ」
この数を相手にするのは至難の業だ。 タロは即座に、拡声機能を使った。 鋼骨騎の巨躯から発せられる轟声が、街道を喘ぎながら進む馬車集団へと叩きつけられる。
『敵襲! 後方より騎馬五百! 会敵まで約三十分』
その声は、絶望に沈んでいた将兵たちを弾かれたように立ち上がらせた。
『ゾガさんを起こしてガダインを直掩に! ゼグ、お前はセゼ王女の盾となれ! 近衛騎士団長、ただちに迎撃の陣形を敷け! 割り切れ、ここが正念場だ!』
タロの切迫した指揮に、地上は悲壮な活気に包まれた。 ゼグがセゼ王女の乗る馬車の前に立ち塞がり、騎士たちが抜き放った剣が鈍色の光を放つ。
だが、本当の地獄は地上だけではなかった。 遥か後方、ジギ城の方向から押し寄せる重苦しい雲海を裂いて、二つの黒点がぬうっと姿を現した。
「バガロが二機……。あのドクター・バグの紛い物め」
タロの指が、操縦桿を強く握りしめる。 現在、タロの駆るガルは満身創痍だった。 ジギ城での激戦により脚部が大破し、ガラダインの部品を強引に移植した応急処置。 下半身の神経伝達系には致命的なズレが生じており、思い通りの機動には程遠い。
だが、引くわけにはいかなかった。 ここで自分が折れれば、後ろにいる彼女も、仲間たちも、すべてがギドの軍靴に踏みにじられる。
タロは沸き上がる「血の昂り」を、明鏡止水の心で凍りつくような冷徹な集中へと変換した。 ガルの腰に吊られた大太刀が、鋭い金属音とともに引き抜かれる。
抜刀の余韻が空気を震わせる中、タロは迫り来る鋼の群れを見据え、静かに呼気を吐き出した。
「一の太刀、通す……!」




