プロローグ
ガランドの記憶を持つ者はいない。
その地は、この世とあの世の狭間に浮かぶ、我らの世界の双子の片割れ。
地球の空が戦火に焼かれるとき、ガランドの空もまた硝煙に咽び、地上の人が新たな翼を産み落とすとき、異界の骨もまた新たな牙を剥く。
二つの世界は同じ痛みを分け合う双生児でありながら、地上の我らはその魂の共鳴に気づかぬまま、ただ同じ戦火を繰り返す。
ゆえに、次元の裂け目からこぼれ落ちたガラスの精霊が、かつて未帰還となった一人の男の生き様を、静かに語る次の物語を伝えよう……。
一九四一年十二月八日、未明。
ハワイ沖、太平洋の上空は、世界の始まりのように深い群青色に染まっていた。
日向太郎海軍一等飛行兵曹の視界の先、朝靄の真珠湾は、すでに地獄の業火に包まれていた。急降下爆撃隊が放った爆弾が米戦艦の巨躯を震わせ、黒煙が天を衝く。
その乱戦の最中、タロの駆る銀翼――零式艦上戦闘機二一型は、あまりにも手痛い一撃を喰らっていた。
ガンッ! と、鈍い金属音が機体を揺らす。
米軍の放った対空機関砲の破片が、零戦の美しい主翼と、胴体タンクを冷酷に引き裂いたのだ。
「……チッ!」
タロはすぐさま燃料計に目を落とした。目盛りの針が、目に見える速さでゼロに向かって落ちていく。キャノピーの外を見れば、機体の後方へと激しく吹き出す白いガソリンの霧。
帰投不可能。
長距離を飛んできた母艦へ還るだけの血(燃料)は、もうこの愛機には残されていない。二十一歳のタロの脳裏に、冷徹な現実が突きつけられた。
だが、彼の心に動揺はなかった。
操縦桿を握る手の力を抜き、深く呼吸する。タロの視線が、燃料計のすぐ隣に糊付けされた一枚の白黒写真に落ちた。大島紬の着物を着て、お守りを握りしめた許嫁――香山静の姿。
『必ず、生きて還ります』
出撃の朝に交わした誓いが、栄エンジンの爆音の底で、静かに反響した。
(すまない、静……。だが、日向太郎、ただでは死なぬ)
タロの精神は、急速に凍りつくような「明鏡止水」の域へと達していく。あらゆる死への恐怖が消え失せ、脳が極限まで研ぎ澄まされる。
祖父から叩き込まれた一刀流の剣理――『一の太刀』。
引くことは叶わぬ。ならば、この命のすべてを乗せた初太刀を、敵の心臓へ突き立てるまで。
「――応ッ!!」
タロは獰猛に叫ぶと、操縦桿を限界まで前に押し込んだ。
零戦が急降下を始める。狙うは眼下、燃え盛る米海軍の巨大な戦艦の甲板。
地上のあらゆる対空陣地、そして戦艦の対空機銃が、決死の覚悟で突入してくる一羽の「鉄の鳥」に向けて一斉に牙を剥いた。
凄まじい密度の対空砲火が、容赦なく零戦の機体を刻んでゆく。外板が弾け飛び、計器のガラスが割れてコックピットに散る。
夜明け前の薄暗い空に、無数の曳痕弾が描き出す「光のトンネル」が形成された。タロはその死のトンネルの真ん中を、全速力で突き進む。
百メートル、五十メートル――迫り来る、鉄錆びた戦艦の巨大な艦橋。
静の写真が、激しい振動の中で剥がれ、コックピットの闇に舞った。
「一の太刀、通すッ!!!」
タロが最期の突撃の咆哮をあげ、米戦艦へと激突する、まさにその刹那。
カッと、視界のすべてが、硝煙の赤をも塗りつぶす圧倒的な「白」に染まった。
対空砲火の爆発ではない。次元の薄膜が引き裂かれるような、強烈な閃光と、空間のねじれ。
突入の衝撃も、爆発の轟音も来なかった。
ただ、チリン……と、冷たいガラスが触れ合うような奇妙な音が、永遠のように引き伸ばされた静寂の中に響き渡っていた。
それが、未帰還となったエースパイロット日向太郎が、双子の異界「ガランド」の空へと引きずり込まれた、因果の始まりの瞬間であった。
不定期投稿です。
作者の「好き」を詰め込みました。




