想いはどこに
湯屋の裏手でお湯の温度を管理している若旦那のユールさんのところに着いた。
「お、ハートか。久しぶりだな」
「こんにちは、ユールさん。今日はちょっとお話があって」
モモンちゃんと二人で周りに誰もいないかを確認する。
特に白い狼さんの姿がないかを確認しているのだ。
「うん?、なんだ??」
ユールさんが怪訝な顔になる。
立ちっぱなしの若旦那にと、モモンちゃんが椅子を引きずって来た。お互いに譲り合っていたが、最後には二人で仲良く座っている。
私はそこらへんに置いてあった木箱に腰掛ける。
「実はしばらくの間、仕事を休むことになったのです」
嵐がいつ来るかはまだわからない。
不穏な風が吹いて来たら黒獏先輩が教えてくれることになっている。
白狼さんは事情を知っているけど誰にも話せない状態なので、先に私から謝っておく。
「そうか、まあ、事情があるなら仕方ないな」
「はい。だから白狼さんが私のことを辞めさせたいわけではないので」
意地悪しているのではないと伝えたかったのだ。
「わかってるよ。白狼はそんなことする奴じゃない」
心配症だがな、と三人で笑い合う。
「しかし、せっかく客が増えたのに、ハートが仕事を休むのはもったいないなあ」
ユールさんは私の一番最初のお客さんになってくれた人だ。
商売人だからこそ、私の仕事のことを心配してくれている。
私はまだまだ獣人の町の常識を知らない。何かやる時は彼に相談することにしていた。
「お休みしている間に、お手紙とか書いてみようかなと思ってます」
「うん?。招待状とか、あんなやつか?」
山沿いの町の上のほうには高級な住宅街がある。
裕福な家庭ではお茶会や食事会などに人を呼ぶ時は、ちゃんと家族に承認されているという証の招待状をやり取りするという習慣があった。
下町でも紙は割と流通しているが、庶民はあまり手紙のやり取りなどしないようなのだ。
「まあ、この町は小さい。伝言なら走って伝えに行ったほうが早いからな」
郵便というものが発達していない。招待状などはその家の使用人などが届けるからだ。
「いえ、ほんの少しだけ、こう四角い紙に日常の小さなことを書いて送るんです」
ハガキとか、カードとか、そんな感じで、時候の挨拶くらいでいいと思う。
また店に復帰したら会いに来てもらえるように。
うーん、とユールさんが目を閉じて唸っている。
「これはただ単に考えているときの癖だから気にしないで」とモモンちゃんが小さな声で教えてくれた。
「また新しいことをやる気なんだな。わかった。何か出来ることがあるか、考えてみよう」
「ありがとうございます」
頭はなるべく下げないよう、首を少し傾げるくらいで微笑んでおいた。
ペコペコするのが癖になっているので、日頃から気を付けることにしたのだ。
次の店のお休みの日。
私はモモンちゃんと行った高級商店街の隅にある雑貨店へ行った。
下町の店では取り扱っていない紙やインクを探すためだ。
「こんにちは」
「あら、いらっしゃいませ」
兎のようなかわいらしい獣人のおばあさん店主と、笑顔で挨拶を交わす。
「今日は何をお探しなの?」
私はインクと小さな紙を探していることを告げる。
おばあさんがカウンターに色々と並べてくれて、それを吟味していく。
「あ、これキレイ」
私は青いインクが目に留まる。それと、ハガキ代の大きさの紙を数枚購入する。
この紙は私が知っている招待状の紙よりも少し劣るが、子供用の招待状に使われる物だそうだ。
それを持って、私は自分の部屋に戻った。
少し生成りの色の紙の表面は思ったより凸凹していて、ペンを押し付けるとじわりと滲む。
いつも使っている店の帳簿用の安い紙と違って上質だが、書き難い。
最初の一枚はもう諦めて練習用にした。
フォルカさんに以前、帳簿の練習用にもらった黒いインクと赤いインクもあるので、私はそれも使って文字を書く。
「私を忘れないでくださいー」
決して文字には出来ないけど、その気持ちを込めて。
作業は思ったより時間がかかった。
一日では終わらず、翌日も営業時間ギリギリまでハガキもどきを書いていた。
何度も同じ字を書く。でもどうしても気に入らなくて結局何枚か無駄になってしまった。
キレイな青いインクが紙にポタリと落ちて、小さなシミはまるで花びらのようだ。
「花、花言葉……」
私は紙の隅のシミを、小さな青い花にしていく。
「あ」
私の緊張する手に、あの夢の中で見た白い女性の手が重なる。
大丈夫。そう教えてくれている気がした。
それはただの青い小さなシミだけど、私には何故か懐かしい花。
すうっとゆっくりと息を吸い込むと、私の中にじんわりと暖かい想いが溢れてくる。
青い小さな花をたくさん咲かせる『忘れな草』のイメージが浮かぶ。
「……出来た」
無事に書き終えたのは三枚だけだった。
お客さまに贈るのには足りないので、今回は練習ということにして、身近な人に見てもらうだけにしようと思う。
私はインクの乾いたそれを一枚だけ持って、部屋を出た。
真っ直ぐに白狼先輩の部屋へ向かう。
二階の一番奥の部屋。そこが白狼さんの部屋。
先ほど外から戻って来て部屋に入ったのは確認している。
ドキドキしながら向かっていると、その二つ手前のドアが開いて黒獏先輩が顔を出した。
「あ、ハート君、ちょうどよかった。嵐、来るよ」
声から緊張している様子が伺える。
胸がドクンとなった。でも、その言葉を覚悟していた私はこくりと頷いた。
そして黒獏先輩はオーナーの部屋へ知らせに行った。
私の荷物はすでに片付け済みで、鞄一つですぐにでも店を出ることが出来る。
だけどその前に、精一杯の想いを込めて。
私はしゃがみ込むと、白狼先輩の部屋の扉の下の隙間にその紙を滑らせた。
残りの二枚はサナリさんと、湯屋の若旦那夫婦に宛てて、トラットに託そう。
白狼先輩が気づいて部屋から出てくる前にと、私は急いで店を出た。
見送りはいらない。そろそろ店の営業が始まる時間なのだ。
私が店にいたのはほんの二年くらいだったけど、振り返ると石造りの店が懐かしい。
「行ってきます」
私は嵐に向かって歩き出した。
~完~
お付き合いいただき、ありがとうございました。