第一話 買いなさい。
朝食を終えたアウレリア・フォン・アイゼンマルクは、いつものように東庭園を眺めていた。
色とりどりの薔薇は綺麗に咲き揃い、その間を白石の小道が縫うように伸びている。中央では大理石の噴水が絶えず水を噴き上げ、その奥に広がる池の水面には、庭木の緑が静かに映り込んでいた。
悪くない。
定期的に腕利きの庭師を集め、金も惜しまず手を入れさせているのだから、これくらいでなければ困る。
アウレリアは満足して、そのさらに向こうへ視線を移した。
そこに広がる領都もまた、彼女の自慢だった。
赤褐色の屋根が幾重にも連なり、その間を石畳の大通りが走っている。まだ朝も早いというのに、通りにはすでに荷馬車が行き交い、店を開く商人たちの姿も見えた。
領民たちは今日もよく働いている。
自分の領地なのだ。豊かで、美しく、活気があるに越したことはない。
しかし、だからこそ気に入らないものが一つあった。
「コンラート」
「はい」
応じたのは、コンラート・ヴェーバー。十二年以上アイゼンマルクに仕えている家令である。
アウレリアはその屋敷から目を離すことなく、静かに尋ねた。
「あれはいつから?」
「あれ、と申しますと……」
「あの趣味の悪い屋敷よ」
――趣味の悪い。
それだけで通じたらしい。
鮮やかな青の屋根に、黄色い外壁。いったい誰が決めたのか問い質したくなるような配色の大屋敷が、整った街並みの中でひどく浮いていた。
「一週間前でございます」
相変わらず、こういうことだけは恐ろしくよく覚えている。
コンラートは非常に優秀な男だ。領都で起きた細かな変化から、商会の取引、人事、屋敷の改築まで、一度目を通した情報を忘れることは滅多にない。
もちろん、アウレリア自身も記憶力が悪いわけではない。むしろ大抵の人間よりはよほど優れているという自負がある。
それでも、情報を整理し、必要な時に即座に引き出すという一点だけは、この男に敵わない。
「そう。私が視察に出ている間ね。気づかなかったわけだわ」
小さく息を吐き、傍らのティーカップへ手を伸ばす。
白磁のカップを指先で持ち上げ、窓の向こうを眺めたまま紅茶を一口含んだ。
青い屋根は嫌でも目につく。
朝の光が窓から差し込み、結い上げた濃い赤髪の端を照らしているのが視界の隅に入った。
もう一口。
それから、カップを静かにソーサーへ戻した。
「色を変えさせなさい」
コンラートが、ほんの一拍だけ黙った。
「……屋敷の、でございますか」
「他に何があるの?」
小さなため息が聞こえた。
「閣下。個人の屋敷の色がお気に召さないという理由だけで領主権限を行使なさるのは、いささか外聞がよろしくありません」
「外聞なんて今さらでしょう」
アウレリアはようやく屋敷から視線を外し、コンラートを見る。
四十を過ぎた男は、今日も寸分の乱れもなく家令服を着こなしている。きっちりと整えられた髪に、感情の読みにくい落ち着いた顔立ち。アウレリアにとってはもはや見慣れすぎた顔だった。
「それは否定いたしませんが」
「でしょうね」
相変わらず、主人への遠慮というものがない男だ。もっとも、その程度で腹を立てるようなら十二年も傍に置いてはいない。
アウレリアは窓の外へ視線を戻した。
青い屋根に、黄色い外壁。
やはり気に入らない。
「でもそうね、あなたがそこまで気にするのなら――」
個人の屋敷の色を変えさせるのが問題だというのなら、答えは簡単だった。自分の領内にある土地や屋敷の相場くらい、当然頭に入っている。
あの立地、あの大きさ。
全くもって問題がない。
「買いなさい」
今度は、はっきりとコンラートが黙った。
「……屋敷を、でございますか」
「だから、他に何があるの?」
◆◆◆
それから三日後。
執務机に積まれた書類へ目を通していたアウレリアは、向かいに立つコンラートの報告に手を止めた。
「買えない?」
「はい」
予想外の報告をしてきた家令の顔は、いつもと変わらぬ無表情だった。
「まさか、今すぐ動かせる金では足りなかったの?」
「いいえ」
「では、何?」
「売るつもりはない、と」
アウレリアはしばらく黙った。
そういう人間がいること自体は、別に不思議ではない。売りたくない理由があるのだろう。
「なぜ?」
「はい?」
「売らない理由よ。本人は何と言っているの?」
コンラートが、わずかに言い淀んだ。
「……閣下には売りたくない、と」
アウレリアは眉を上げた。
「私に?」
「はい」
「なぜ?」
「覚えておられませんか。五年前、閣下が処刑を命じたハインリヒ・バウアーという男を」
名前を聞いて、記憶を探る。
しばらくして、一人の男の顔が浮かんだ。
「ああ」
思い出した。
「いたわね」
あの大嘘つきだ。
罪を犯したこと自体は、まだいい。罪人など珍しくもない。
だが、あの男は証言の場で何度も嘘をついた。証拠を突きつけても、次から次へと見え透いた嘘を重ね、そのたびに無実を訴え続けた。
実に往生際の悪い男だった。
本来なら、死刑以外の判決も十分あり得た。
だが、その態度があまりにも気に障った。
だから死刑にした。
「屋敷の所有者、オットー・バウアーは彼の甥でございます」
「なるほど」
それなら嫌われていて当然だ。だから私には売りたくない。筋は通っている。
だが――だから何だというのだろう。
「それで?」
コンラートがわずかに眉を動かした。
「……それで、とは」
「私を嫌っていることは分かったわ」
アウレリアは何でもないことのように続けた。
「だから、いくらなら売るの? 三倍? 五倍?」
「……ですから、閣下には売らないと明言しております」
「それは聞いたわ」
「オットー・バウアーは、いくら積まれても閣下には売らない、と」
「いくら積まれても?」
「はい」
アウレリアは机に肘をつき、指先で頬を支えた。
嫌いな相手に売りたくないだけなら、相場の何倍も出せば心が動くかと思っていたが、どうやらそういうことではないらしい。
私が嫌い。
叔父を殺した相手に屋敷を売りたくない。
そこまでは分かった。
なら、次に知るべきことも自ずと決まる。
「呼びなさい」
「……どなたをでしょう」
「オットーよ」
何を聞いているのだ、この男は。たまに察しが悪くなるのは欠点だ。
「本人が売らないと言っているのでしょう? なら本人と話すのが一番早いわ」
「お会いになって、何をなさるおつもりで?」
「聞くのよ」
「何を?」
「何なら売るのか。その条件よ」
コンラートはまた黙った。
最近、この男はよく黙る。
「……承知いたしました」
◆◆◆
オットー・バウアーが辺境伯邸を訪れたのは、その翌日の午後だった。
応接室へ通された男を見て、アウレリアはまず、思っていたより普通だと思った。
五十にはまだ届かないだろう。よく手入れされた焦げ茶の髪に、商人らしい上等な衣服。派手さこそないものの、その仕立てを見れば、それなりの財を築いていることは分かる。
ただし、その表情だけはひどく硬い。
アウレリアを見る灰色の瞳には、隠そうともしない敵意があった。
「座りなさい」
「結構です」
即答だった。
アウレリアはわずかに眉を上げた。
用意された椅子に視線すら向けず、オットーは立ったままこちらを見ている。
「そう。なら好きになさい」
別に座らせることが目的ではない。
「屋敷の話をしましょうか」
「その件でしたら、すでにお断りしたはずです」
「聞いたわ」
オットーの眉間に皺が寄った。
「では、なぜ私をお呼びになったのです」
「あなたが何なら売るのか、それを聞くためよ」
「……何なら?」
「ええ。金では駄目なのでしょう?」
コンラートには、いくら積まれても売らないと言ったらしい。
ならば、求めているものが金ではないというだけの話だ。
「条件を言いなさい」
オットーはしばらく何も答えなかった。
やがて、その口元がわずかに歪む。
「叔父を殺した相手に、自分の屋敷を売りたいと思うとでも?」
「思わないでしょうね」
アウレリアはあっさりと認めた。
何かが予想外だったのか、オットーの表情が一瞬止まる。
「……ならば」
「でも、それはあなたが私を嫌っている理由でしょう?」
「何が仰りたいのです」
「私が聞いているのは、どうすれば屋敷を売るのかという話よ」
オットーの顔から、わずかに血の気が引いたように見えた。
次いで、その頬が怒りに歪む。
「あなたは――」
声が低くなる。
「あなたは、本当に何とも思っていないのですか」
唐突に話が逸れた。
「何を?」
「叔父を殺したことをです!」
今度は随分とはっきり言った。
なるほど。そういう話か。
「後悔しているか、という意味なら、していないわ」
オットーの拳が強く握られる。
「叔父には罪があった。それは私も認めています。ですが、死刑になるほどのものではなかった」
「ええ」
即答すると、オットーが言葉を失った。
「……え?」
「死刑以外の判決も選べたわ」
「それを……認めるのですか」
「事実だもの」
先ほどまでの怒りはどこに行ったのか、オットーは随分と間の抜けた表情でこちらを見ていた。
認めるも何も、私は最初からそういうつもりで判決を下したのだ。
「あの男は何度も私に嘘をついたわ。証拠を突きつけても認めず、最後まで往生際悪く見え透いた嘘を重ね続けた」
ああ、思い出すだけでも腹立たしい。
「だから、選べる中で一番重い刑にしたの」
応接室が静まり返った。
オットーは、まるで理解できないものを見るような目でこちらを見ている。
「……そんな理由で」
「そんな理由?」
「人の命を何だと思っている!」
「何って、人の命でしょう?」
それ以外に何だというのか。
オットーが息を呑む。
アウレリアは椅子の背へ身体を預けた。
「あなたが私を恨む理由は分かっているわ。叔父を殺されたのだもの。好きになれと言うつもりもない」
「なら――」
「でも、屋敷の話とは別でしょう?」
「別ではありません!」
初めて、オットーが声を荒らげた。
なるほど。
どうやら彼にとっては、そこが同じらしい。
ならば、その感情も含めて条件にすればいい。
「では、その恨みを晴らせるなら売るかしら?」
オットーが黙った。
アウレリアはその顔を見つめる。
「何かあるのでしょう? 私にさせたいことが」
しばらくの沈黙のあと、オットーが口を開いた。
「では――五年前の裁判について、領民に公表してください」
オットーはアウレリアを真っ直ぐに見据えた。
「叔父が罪を犯したことも。本来なら死刑以外の判決もあり得たことも。そして――あなたが、叔父の態度が気に入らないという理由で死刑を選んだことも」
アウレリアは瞬きをした。
「それでいいの?」
「……はい」
「それを公表したら、屋敷を売るのね?」
今度はオットーが言葉に詰まった。
だが、やがて頷いた。
「売ります」
「そう」
何を要求されるのかと思えば、随分と簡単な条件だった。
「コンラート」
「はい」
壁際に控えていたコンラートが、すぐに応じる。
「五年前のハインリヒ・バウアーの裁判記録を出しなさい」
「承知いたしました」
「判決に至った経緯も含めて、すべて公表するように。私があの男の態度に腹を立てて、選べる中で最も重い刑を選んだことも隠さなくていいわ」
「かしこまりました」
あまりにも当然のように話が進んでいくのを見て、オットーが口を挟んだ。
「……待ってください」
「何?」
「本当に、公表するおつもりなのですか」
「あなたがそうしろと言ったのでしょう?」
「そうですが――」
オットーはそこで言葉を切った。
どうにも歯切れが悪い。
「何?」
少し黙ったあと、オットーが口を開く。
「……あなたは、それを公にすることを何とも思わないのですか」
アウレリアには、問いの意味がよく分からなかった。
「別に。事実でしょう?」
「あなたが私情で人を死刑にしたという事実です」
「ええ」
「それが領都中に知れ渡るのですよ」
「だから?」
オットーが黙る。
どうやら、もっと嫌がると思っていたらしい。
「条件はそれだけでしょう?」
「……はい」
「なら、問題ないわ」
アウレリアはコンラートへ視線を戻した。
「明日までに」
「承知いたしました」
◆◆◆
翌朝、領都の各所に、一枚の布告が掲げられた。
五年前に行われたハインリヒ・バウアーの裁判について、その記録を公開するものだった。
ハインリヒが罪を犯していたこと。
裁判において、本人が繰り返し虚偽の証言を行っていたこと。
そして、本来ならば死刑以外の判決も選択できたにもかかわらず、領主アウレリア・フォン・アイゼンマルクが、その態度を不快に思ったことを理由の一つとして、最も重い刑を選択したこと。
何一つ伏せられていなかった。
オットー・バウアーは、再び辺境伯邸を訪れていた。
昨日と同じ応接室に、昨日と同じように彼は椅子へ座らず、ただ、その表情だけは昨日と違っている。
怒りでも憎しみでもない。なんとも形容し難い表情だった。
「公表したわ」
アウレリアはまるでなんでもないことのように言った。
「条件どおりでしょう?」
オットーは黙ったままこちらを見ていたが、やがて小さく頷いた。
それだけで十分だった。
「コンラート」
「はい」
「買いなさい」
控えていたコンラートが、用意していた書類をテーブルの上へ置く。
屋敷と土地の売買契約書だ。
オットーはそれに一枚ずつ目を通していった。
何度かペンを取っては止め、また書類へ目を落とす。そうしてたっぷりと時間をかけた末、ようやく最後の一枚に署名した。
署名を終えたオットーは、しばらく自分の名を見つめたまま、顔を上げなかった。
◆◆◆
――それから十日後。
朝食を終えたアウレリアは、いつものように東庭園の向こうへ視線を向けた。色とりどりの薔薇。白石の小道。朝日に水飛沫を輝かせる大理石の噴水。
そのさらに向こうには、赤褐色の屋根が連なる領都が広がっている。
そして、その一角。
かつて嫌でも目についた鮮やかな青の屋根は、もうどこにもない。
屋根は周囲に合わせた深い赤褐色へ。黄色かった外壁も、落ち着いた淡い灰色へと塗り替えられていた。
悪くない。
アウレリアは紅茶を一口含む。
「ようやくまともになったわね」
傍らに控えていたコンラートから返事はなかった。
「何?」
「……いえ」
「言いたいことがあるなら言いなさい」
しばらくの沈黙のあと、コンラートが口を開いた。
「五年前の裁判記録を領都中に公開し、ご自身の評判をさらに落とし、所有者と直接交渉して屋敷ごと買い取り、十日をかけて改装されたわけですが」
「ええ」
「そのすべては、あの屋敷の色がお気に召さなかったから、ということでよろしいのでしょうか」
この男は何を今さら。
「最初からそう言っているでしょう?」
「左様でございました」
コンラートが小さく息を吐いた。
アウレリアは再び窓の外へ目を向ける。
実にいい眺めだ。
「それに、屋敷ごと買って正解だったわ」
「と、申しますと?」
「あのまま他人のものだったら、また勝手に妙な色へ塗り替えるかもしれないでしょう?」
コンラートがまたしても黙った。
「私のものなら、その心配もないわ」
整えられた庭園。豊かな領都。
そして、自分の望む色に収まった屋敷。
実に良い朝だった。




