第1話 「撤退しろ」と言った雑用係
天井の亀裂を見た瞬間、俺は剣を抜くより先に叫んだ。
「撤退しろ!」
声は、迷宮の最深部に虚しく響いた。
目の前では、三つ首の巨獣――ケルベロスが鎖を引きちぎろうとしている。赤黒い涎が石床へ落ちるたび、煙が上がった。
けれど、俺が見ていたのは魔物ではない。
天井を走る細い亀裂。そこから落ちてくる白い砂。足の裏に伝わる、一定間隔の震動。
前世で山岳救助隊員だった頃、雪崩の前にも似た音を聞いたことがある。
山が崩れる時も、迷宮が崩れる時も、最初は小さな音しか立てない。
「ガレス、聞こえなかったのか! この部屋はもたない!」
「聞こえているさ、雑用係」
大剣を構えたガレスが、振り返らずに笑った。
金色の獅子を刻んだ鎧。A級パーティー《金獅子》の隊長。王国で名を知らぬ者はいない英雄だ。
「だから何だ? 目の前には未討伐の階層主。ここで引けば、先に攻略した連中に栄誉を奪われる」
「栄誉と命を天秤にかけるな。揺れの間隔が短くなってる。長くても十分だ」
「十分あれば足りる!」
ガレスが大剣を振り上げる。
槍使いのロルフも、神官セシルも続いた。後衛の魔術師エマだけが、不安そうに俺と天井を見比べている。
「ユアン、帰還点は生きているの?」
「入口の石碑に固定してある。だが、俺の《撤収》で連れて帰れるのは一人だけだ」
俺が成人の儀で授かった固有スキル、《撤収》。登録した仲間一人を伴って、あらかじめ設置した帰還点へ移動する。
攻撃力は上がらない。傷も治せない。魔石や宝箱だけを運ぶこともできない。
おまけに、対象が心から帰還に同意しなければ発動しない。
だから評価は最低のF級。
《金獅子》での俺の役目は荷物持ち、罠の確認、食事の用意。そして、誰か一人だけを逃がすための保険だった。
「また逃げる話かよ」
ロルフが槍の石突きで床を叩いた。
「お前は前世でも、そうやって逃げていたのか?」
転生者だと知られてから、何度も浴びせられた言葉だった。
俺は腰の短剣を抜いた。
「逃げるんじゃない。帰って、次を考えるんだ」
「同じことだ!」
ガレスが地を蹴った。
大剣がケルベロスの右首を捉え、火花のような血を散らす。ロルフの槍が左目を貫き、セシルの聖光が二人を包んだ。
強い。
この三人なら、本当に十分で倒してしまうかもしれない。
その期待を打ち消すように、足元が大きく跳ねた。
天井の亀裂が、一気に壁まで走る。
「違う……ボスが暴れて崩れているんじゃない」
崩落は、部屋の外から近づいていた。
誰かが迷宮そのものを壊している。
「ガレス! 戦闘をやめろ! もう十分もない!」
返事の代わりに、ケルベロスの咆哮が響いた。
そして俺たちが入ってきた背後の通路が、轟音とともに潰れた。
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