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黒き悪魔、ウナク。


 その名は、ある男がウナクの長の座に座ったとき、砂の大地にもたらされたものである。


 もともと、ウナクはどこにでもあるような、弱小に属する部族でしかなかった。ただ異なるのは、弱者が強者の襲撃に脅えるように、彼の部族は臆する事をせず、むしろ自ら滅びを招こうとするように、他部族に戦を仕掛け、南で水源を拡大してきたということである。


 ウナクは、負けるという言葉を知らなかった。


 それは一重に、ウナクを率いる長の類い稀なる機知と戦略によってもたらされるものであり、族の者たちが彼を「戦の神」と誉め称えた時も多きを数えたという。


 彼は、ウナクを砂漠の王として君臨させることを夢見ていた。


 いつの世になるかは知る由もない。存命のうちに成し遂げられるとも、思わない。だが、小賢しい戦を繰り返し、互いの血を求めることだけに目を光らせているままではならないと、彼はそういう考えの持ち主であった。しかし、勇猛さで知られる彼、ヤエフアも、すでに八十の齢を迎えようとしていた。


 彼は「黒き悪魔」と言う呼称の、人に与える効果を利用はした。だが、その言葉そのものは彼にとって心外であったのかも知れない。


「レノ・ランセ。お前はどう思う」


 燃えた天幕の残骸と、燻り続ける煙の、そして濃い血の匂い。僅かに緑が萌えた地のうえに、幾つもの屍が転がっている。辺りに満ちる悲鳴は涸れることが無く、それは耳を塞いだとしてもどこまでも追ってくるように思えた。


 何度、こういう場面を目にしたか。


「どうとは?」


 老いた老人の嗄れた問いに、それとは対照的に若々しい男の問う声が続いた。老人は、しわで埋め尽くされたような顔を、向かいに座した若い男のほうに傾けた。


 ここは、滅びたひとつの集落。砂の竜を神として崇めていた部族である。燃え残った天幕の布地に、ウーカの実で染めた赤糸で刺繍した砂の竜を、レノ・ランセは見つけていた。それにも増して、北方で金髪碧眼といえばキハルしかいない。


 死体が無造作に転がる場所から、少し距離を置いた場所に、新しい天幕を組み立て、老人とレノ・ランセは二人きりでここにいた。ほかのウナクの男たちは、燃え残った天幕で、水源の木の茂った場所で、女達を抱いているだろう。勿論、キハルの女を。


 敗れた部族に残された道は、従うことしかない。そうでなければ、死があるのみ。誇り高いキハルの民は、レノ・ランセがキハルの長の首を刎ねたとき、その屍が地に沈んだとき、狂ったように自害した。あるものは自らの喉を、動きを制するためウナクの男が手にしていた剣で突き、またあるものは舌を噛んだ。


 キハルの柱たる男の死は、計り知れなく大きいことだろう。部族の長を失うことは、部族の命も終わる時。そこにいたのは、キハルの女のみ。長の娘は人質として生かしてある。キハルの男は、子供を除いて皆死んでいた。


 これはウナクの作戦勝ちだった。キハルにしてみれば卑怯な行為とされるだろうが、使える手は使ったものが勝つ。


 ウナクの戦士は、東から定期的に集落に訪れる商人隊に変装し、キハルの油断を招いたのだ。何の愉しみもない砂の大地のこと、緑豊かだという東方の果てからやって来て、歌や踊りを披露したりもする商隊の存在を、歓迎しないものは一人とてない。


 これを提案したのはレノ・ランセだった。作戦は予想以上に功を成し、武器を求めて走るキハルの男を背中から切りつけるだけで事はすんだ。こちらの損害は実に少ない。


 「キハルの長、ハルマは我らウナクの申し出た和議を蹴った。それは即ち、  我らに戦を仕掛けると同じこと。少しは警戒すべきだったな。


  たった一人の娘を寄越すことさえ拒んだ、その愚かな男も、最早死の床についた。  賢いものは、今すぐウナクの男に身を預けろ。ウナクの子を宿せば、ウナクの民として迎えよう」


 レノ・ランセは何度吐いたか知れない言葉を、ただ機械的に口から押し出した。女達の眼には、畏怖が覗く。忌まわしい者を見るときの、もしくは憎悪の込められた眼が、レノ・ランセを貫く。


 彼がその場を去ったすぐ、高い悲鳴と泣き叫ぶ声が滅びた集落にこだました。死ぬこと適わなかった女たちが、ウナクの男たちに足を、髪を掴んで天幕やら木陰やらにひきずりこまれるのである。


 レノ・ランセの思考を、嗄れた声が不意に遮った。


「儂のすることが正しいとは、誰も言わぬ。間違っているともな。儂は老いた。昔のように、澄んだ頭に考えが巡るということも、今ではもう稀だ。


 レノ・ランセ。お前のような機知ある男の考えが聞きたい」


「戦のヤエフア


 レノ・ランセは赤茶けた黒髪と青き眼の男だった。ヤエフアの末の息子で、彼が略奪した南方の部族の娘に産ませた子だ。まだ二十歳をいくつか過ぎて間もない齢であろうか。


 ウナクのみの血の交わりでは決して生まれない、青き眼は澄んでいて、俊敏な動物のそれのようだった。


「あなたのような賢い者が、わたしのような何も知らぬ愚か者に、考えを求めるのですか」


 レノ・ランセの整った口許からは、澱みなく言葉が流れ出てくる。青い眼は真っすぐにヤエフアを見て、その視線にさえ、父に対する敬意はあっても、親しみは無かった。


「・・・愚かなわけではあるまい。息子よ、お前は儂を略奪者と呼ぶか。途方もない夢を見る、呆けた老人だと」


「どうしました。いやに弱気ですね」


 レノ・ランセは答えに窮した。父が、レノを他の何人もの異母兄弟よりも一際、慈しんでいるのは自覚している。だが、それは誇りであっても時には重荷になる。


 ヤエフアはレノにとって理想を具現できうる、偉大な男だった。この広大な砂漠を一つにし、そのために今敢えて行っているこの行為を、正当化してくれているのが父、ヤエフアだ。


 他の問いかけには的確に答える自信はある。だが、その質問だけは、答えられない。この略奪行為が正しいと、レノは言い切ることができない。しかし、間違っていると言えば畏敬する父を否定することになる。


 ヤエフアは、物を見ることも難しくなった、老人らしい水色の眼で、息子を見つめていた。ややあって、言葉を噛み締めるようにゆっくりと紡ぐ。


「儂の若いときは、ただ前のみを見つめて後ろを振り返ることなど考えなかった。・・・だが、この齢にもなるとそうはいかなくなった。昔殺した人間の悲鳴が、奪った女の哀願が、耳にこびりつく。毎夜、儂をさいなむ」


「・・・ヤエフア」


レノは、青き眼に複雑な表情をちらつかせた。老いた父親に、どのような言葉を掛けるべきか、彼には検討もつかない。というより、レノにはヤエフアが父親であるとは、どうしても思えない。父のような身近な存在というより、ヤエフアはレノの教師であった。生きる道を示唆する教師というほうが、ある意味正しい。


「あなたの決断は、ウナクの決断です。


 兄をこの手で殺したわたしの命を永らえさせ、このようにお側においてくださるあなたの寛大さは、このレノだけではなく、部族の者なら皆が承知しています。


 ヤエフアの決断はいつも正しいのではないのですか。兄殺しをしたわたしに、そうおっしゃってくれたのはあなただ。あなたがわたしを生かせと言わなれば、わたしはとうに死んでいたでしょう。


 あなたは、わたしにおっしゃった。前を見よ、後ろを向くなと。それはそう昔のことではありません。それとも、本当にヤエフアはそれを忘れてしまわれたのか」


 知らずのうちに、己の右手が左の脇腹をまさぐるのを、レノは苦々しく思った。衣服で隠れているとは言えど、そこには完治はしたものの、深い太刀傷があるのだ。今でも、その時のことを思い出そうとすると、古傷が痛む。そして、いつもその傷の痛みと戦ううち、思い出すことを止めてしまうのだった。


 青い眼に若さと機知をみなぎらせ、そう言うレノは、ヤエフアに一人の女を思い起こさせた。


「レノ・ランセ。・・・お前は本当にあれに似ているな」


 やはり青き眼をし、栗色の髪も艶やかだった女。


 黒き悪魔を率いる男として、惧れられるヤエフアにさえ、物怖じせずに時には罵声さえ吐いた、その薄い唇。ヤエフアは息子を見るたび、その面影をまざまざと思い出すことができた。


「兄殺しなど、責めてはおらぬ。むしろ、決闘に負けたフムの方を恥にさえ思う。お前の剣は、無駄がなく舞のようでさえあるよ。儂の息子にはお前が一番相応しい」


「ありがとうございます、ヤエフア」


 恐縮して頭をたれる男を、「戦の神」は満足そうに見詰めた。


「ただし、儂が生きている限り、お前が儂の側を離れることは許さぬ。


 お前も、もういい年だ。妻を求め、腰を落ち着かせる気はないのか?」


 日に一度はもたらされる問いに、レノは困ったように目を伏せる。


「要りません。わたしには、欲しい女などいないのです」


「何を言うか。女はあって悪いということはないのだ。それとも、誰でも良いというか。なら、儂が適当なのを選んでやろう。・・・キハルの娘はどうだ?」


「・・・」


「誇り高く美しいキハルの娘とお前なら、さぞかし雄々しい男が産まれることだろう」


 確かにキハルは、男も女も美しいという噂は間違っていなかった。南を大方占し、北への出口にはキハルが欲しいところだった。とにかく、南の水源は乏しい。それに厳しい岩壁にやや四方を囲まれているため、水源と緑地豊かな北の砂漠に出るには、キハルがどうしても必要なのだ。


 苦戦して南砂漠の北東に位置するアムナを倒し、やっとキハルへと至ったときは、その緑地の美しさと水の豊富さに狂喜した。同時に、懐かしささえ湧き起こったのだ。やはり、水のある風景というものは安らぎをもたらすのだと実感した。


「あまり興味はありません」


 だが、それとこれとは話が別だ。キハルの女が美しかろうと、そうでなかろうと、レノには女への強い興味というものがもともと無い。勿論、女より男が好きなどということは無いのだが。


「・・・儂の息子にしては、随分と淡泊なことだな。


 お前がいつまでもその調子なら、やはり儂が取り計らってやろう。お前にはキハルの族長の未婚の娘を妻とする。それでいいか」


「それは、あなたが欲しがっていた女ではないのですか」


「・・・この齢にもなると、美しい女を見ても、眺めているだけで満足なのだよ」 ヤエフアは、実は初めからキハルの娘を息子の妻にしようと、手を回していたのである。膝を屈することを厭う、誇り高いキハルの部族とは、出来ることなら友族となりたかったのだが、どこまでもかたくなな族長の前に何度も断られた。業を煮やしてここに攻め入った訳だが、呆気なく敵長の首を取った後では、これ以上戦いを仕掛けるのは無意味なことだった。だが、向こうから戦いを仕掛けてきたときは別。


 長の首が取られたことを知れば、砂漠の数ある緑地帯に点在する、残された部族の者は、形はどうあれ、こちらからの和議を受け入れるだろう。数のうえではウナクが勝っている。それに、「黒き悪魔」と聞いただけで震え上がるものは少なくない。


 あくまで刃向かうのなら、キハルは誇りのみに執着する愚か者だ。ヤエフアは買いかぶり過ぎていたということになる。


「あなたの決定は絶対です、ヤエフア。


 あなたがそうする事を望まれるなら、レノは喜んで悪魔でも妻にしましょう」 

 顔色ひとつも変えず、そう答えるレノ・ランセだったが、その青き眼だけには、彼自身気づかぬほどの狼狽があった。


(キハル族長の娘)


 それが、レノの心に言い知れぬ不安をもたらしたのだ。古傷が痛みだすことも、少しだけ意外であった。


 しかし、理由はまだ、分かりそうもなかった。

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