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襲来





 太陽に灼かれ、肌に耐え難い熱となった風が砂漠を吹き行く。


 赤茶、あるいは黄金ともつく、乾いた岩と砂と、僅かのオアシスのみの大地。多くの生き物は砂下や水源に逃れ、その影すらも見せることを拒んでいる。


「遅い。何やってるんだ、あの馬鹿ッ!


ィエンがのろのろしてるせいで、ウナクの奴らが来てしまったじゃないか」


 砂漠を形作るのは、風である。風は岩山を削り、峡谷を作り上げる。削り粉は粗い砂となり、砂の層のうえに次々と重なるのだ。長い年月を持ってして。


 たった今、忌々しげにつぶやきを漏らした少年のいる場も、そうして出来上がっただろう、峡谷の一つである。正確に言えば、峡谷の上の、メサと呼ばれる台地となっている所に、ひれ伏すようにして下を凝視しているのである。


 彼の下には、肥沃なオアシスがあった。荒々しい砂漠の中に点在する水源のほんの一つだが、緑があるというだけで安らぎが訪れるのは、まごいようのない事実だ。


 砂漠に生きる砂の民にとって、一つのオアシスを見つけることは油田を見つけることに似ている。それ程、水の潤いは貴重であり、さらに成人前の男にとっては、手柄を立て一人前として認められる最良の方法なのだ。


 それだけは、この砂漠に数多と存在する部族の民にとって、誇り同様、共通のことがら。与する部族に富をもたらすことは、同時に自分の命を永らえさせる事にも、通じるからである。


「くそぉ、やつらめっ!そこは、そこはだなあ、わたしが先に見つけたんだ。わたしが一番にそこの水を飲んだんだよ」


 少年は、高い声を押さえがちにして一人怒りまくっていた。腹ばいになってメサの端の岩陰から下を見張っているため、酷く情けない格好ではあったが。


 布を幾重にも巻いた頭から、亜麻いろの髪がのぞく。苛立ちを宿した瞳は、蒼天を映した青。小柄な体格だ。十七、八だろう。それ以上にはみえない、未成熟な感じがまずする。 彼は、友人を待っていた。同じキハルの部族の、成人前の男である。成人前とは言え、すでに奴は二十歳のりっぱな男だったが、手柄を立てずにいたために族内から一人前と正式に認められていなかったのである。


 いとこであり、幼なじみでもある手前、彼の手助けに身を砕き、やっとあのオアシスを見つけたというのに。


「ィエン、おまえは半人前を脱しようって気がないのか。わたしがこんなにしてやってるのに、遅れるなんて」


 だから、あんな奴らに先を越されるんだ! 憤りのあまり台地に爪を立てる。少し下、葉を茂らせた樹木の陰に、三人の頭が見える。少年と同じように頭布を頭に巻いてはいるが、隙間から見える黒髪は、間違いなく少年の属する部族、キハルとは異なる、しかも敵対しているウナク部族の色。


(でも、なぜウナクがここにいる?)


 ウナクはこの岩山を挟んではるか南の部族。それなのに、この場所はキハルの集落がある北の砂漠への、入り口ではないか。


(また、なにか企んでいるのか)


 少年は気分が悪そうに顔をしかめた。キハルは誇りを第一に重んじ、他族の占するオアシスは戦いによって手に入れる。だが、ウナクは汚い手を使い、幾つもの部族を滅ぼし、水源を奪って急成長しつつある。


 力があれば。少年は青い瞳を伏せながら、そう思った。悔しいが、奴らの前に一人で出て行ったところで、何のすべも無く押さえ込まれ、返り討ちに会うのがオチだ。三対一では、弓もないのに分が悪い。情けない女たらしのィエンでも、居ないよりは居た方がいい。


「おい、見てみろよ」


 ウナクの男が、他の二人の連れに声を掛けた。オアシスに生を受け、葉を茂らせる木の前に立っていた二人は、少年の這っている高みのすぐ下に走り寄ってきた。パウテと呼ばれる、砂の上であっても速きを誇る動物は、潅木にしっかりと紐で結わえられていた。


「・・・砂の竜・・・か。こりゃあキハルの証しだぜ。俺たちはどうやら、二番目らしいなぁ」 オアシスは、早く見つけた者勝ちだ。部族の紋章を木に彫り、ウーカという実からとれる、赤い顔料を擦り込むのだ。所有地だということを簡単に示すのである。


 二番目以降の者は、おとなしくそのオアシスを諦める。それが掟なのだ。だが。


「知ったことじゃないさ。こんなチャチなのは、正式な証しなんかじゃないだろ」


 この言葉には、少年も黙っては居られない。しかし、結果を予想して踏みとどまる。ィエンが来るのを待とう。一人では無謀だ。


「そうだろ?」


「だがなぁ、レヌフ」


「かまうもんか。こうして、削っちまえばいい」


 男は腰布から抜き身のナイフを取り出し、少年がつけた証しを深く抉り取った。砂竜をかたどったキハルの証しは、木の屑となって水を吸った砂の上に落ちる。


「それから俺たちの紋章を彫る。これでいいだろ?何の問題もない。このオアシスは、けっこうな穴場だぜ。とくにこれからはな」


 男たちは、笑い合う。その馬鹿笑いが、上から見下ろす少年の堪忍袋をたやすくぶっちぎってしまった。もともと気が短いと、いとこにからかわれていた彼である。自分でも、忍耐には自信があるほうではない。考えるよりまず、先に手が出る。


 部族の証しを、例え仮のものではあろうと削るなんて。三対一で分が悪いなど、きれいに頭から消えていた。ただ、押さえられない純粋な怒りが、少年を支配していた。殴らねば気が済まない!


 少年に比べれば屈強な男どもに、拳が届くはずがないのも忘れていたのである。愛すべき単純さ、といつもいとこにからかわれるのも無理はない。たとえ後で後悔しようと、今この時だけを見つめて行動するのが彼のやり方だった。それは無鉄砲といいかえられるが、当の少年にしてみればどうでもいいことだった。


「どういうつもりだ、貴様ら!」


 開口一番、罵声が飛び出る。メサから飛び降り、突き出た岩を器用に足場にして、ウナクの者達の前にたつ。高い声は、涼やかで娘のようだが、たおやかさを打ち消す迫力がある。隈取りがしてあるかに見える目元は鋭く、青き目は怒りに輝いている。細腕はしっかりとのばされ、右手には装飾のない小太刀が握られていた。腰布の間に挟んでいたもの。間合いを随分詰めねば使えないが、無いよりはましだ。


「ここは、わたしが先に目をつけた。だからわたしのものだ。・・・その汚い手を引け!ウナクの阿呆ども」


 突然現れた他部族の少年に、やや呆然とした風だった男たちは、侮辱されたのを知ると笑いを浮かべた。揶揄を含んだ笑いである。「これはこれは。どこからエムシュの子がはい出てきたかと思ったよ。おまえ、キハルの子だな」


 よく番犬よろしく飼われている、小柄な生物に例えて男は少年を嗤った。あとのふたりもそれにならう。キハルの子、と呼んだのも少年が一人前でないことをあざ笑う言い方だ。彼の顔に、朱が走った。くっと唇を噛み締める。確かに、自分は幼い。


「嘗めるな、誇りを持たないウナクめ!人のものを横取りして、それを屁とも思わないゲスがっ」


「なんだ、と」


 金髪碧眼は、キハルのみがもち得る色だった。砂の民にしては、はなやかな部族と言って良い。少年は今、侮蔑に満ちた青の瞳で男達を見据えていた。


「ガキめ、言いたい放題言ってくれるじゃないか。余程痛い目に会いたいようだな」


 少年の物言いが頭に来たのだろう、男たちはキハルの少年を取り囲み、たちまち太い腕で押さえ付けた。唾を飛ばしながら、罵声を吐く。いつの世でも、悪人が吐く言葉は共通らしい。


 手の内の獲物がもがくのを、楽しそうに眺める。小太刀を振り回そうとする手を、簡単に押さえ込む。小太刀はオアシスの水の中に投げ込まれ、緩く波紋をつくった。


「くそ・・・ッどうするつもりだ、このッ、放せえッ」


 彼の細い顎を捕らえ、嘗めるような眼差しをウナクの男たちは少年にぶつける。


「威勢がいいな。顔も、ウナクの娘よりまだ良い。おい、どうする?」


 たしかに少年はきれいな顔立ちをしていた。悪口雑言の類いがなければ、少女としても十分通用する。


 健康的な琥珀色の肌と、美少女と呼んで差し支えない面の少年に、三人が魅了されているのは明らかだった。戸惑いを隠さない。


「レヌフ、おまえ男で試したことあるか?」


「いや、だが、良いらしいな。女より男が好きな奴にとってはだが」


 冴えた獣の瞳が、少年を捕らえた。


「かわいい顔してんなあ。坊主、いいか。俺らが可愛がってやるよ。おとなしく泣いてろ」「な・・・・ッ」


 むさくるしい男の顔が少年に近づき、可憐な口を覆った。だが、おとなしくされるがままになるつもりはハナから、ない。彼は、侵入してきた生臭い舌を思い切りかみ切らんとした!


「!」


 男は、痛みに少年を突き飛ばした。唾を吐く。それには血がまじっていた。しかし、すぐにねっとりとした瞳を彼に向け、口元を拭った。


「抵抗されたほうが燃えるってもんだよなぁ」「おい、足を押さえろ」


 粘り着く視線に、少年は鳥肌がたつのを押さえられない。これは間違いなく、貞操の危機だ。自覚したくはなかったが。


「ほ、ほざくな変態!!男を女みたいに抱ける貴様らみたいな類いが、わたしは反吐が出るくらい嫌いなんだ、寄るな!」


「ふん。口だけは達者だな。だがな、声が震えてるぞ」


「泣こうが喚こうが、誰も助けになんて来やしない」


 男の一人が、少年の服に手をかけた。真っ青になるキハルの少年。


 このまま馬鹿どもの慰み者になるくらいなら、舌を噛んで死んだ方がましだ。それに、肌を許して良いのは、一生を共にするただ一人のみであるからだ。


 ごつごつした男の手が、直接背に触れる。冗談でなく泣いてしまいそうだった。


(くそ・・・アーレン・シン!)


「絹みたいな肌だな、おい」


 触れられた所から、絶望が黒い水のように染み込んでいく。己のすぐ熱くなる性格を呪った後、一時も忘れたことのない者の顔を思い浮かべる。それは三年前に時のとまってしまった、ある少年の笑顔。彼は冥府で待っていてくれるだろうか。そう思いながら瞼をきつく綴じ、覚悟を決めた、その時。


「おれも、混ぜて欲しいなー」


 パウテの独特の嘶きが聞こえたかと思うと、それに続き場違いな、呑気な声がした。語尾を延ばし、やけに明るい声。少年は舌を噛むのを止めた。声の主が待ち人とわかったからだ。


「誰だ、貴様は」


 楽しみを邪魔された男は、いきり立って声の主をねめ付けた。見れば、若い男。しかも少年と同じ亜麻色の髪と、僅かに灰色の混じる青の瞳をしたキハルの男だ。


「おれ?別に、名乗るほどの者でもないけどね」


「ィエン!」


「よう、蹂躙寸前」


 少年は、身を起こしかけると、遅れてきた友人に力を得て叫んだ。笑い飛ばせない冗談は、無視した。


「貞操の危機っていうとこか、エナーリシャ?」


 笑いをたたえた男は、パウテから砂に降り立つ。背の高い、しなやかな体の男。まるで、けもののようだ。


「ば、ばか!こっちは真面目なんだ、さっさと助けないか。も、もとはと言えば、おまえが」 押さえ付けられたまま、足をばたばたして抗う少年に目配せすると、ィエンは両の手を広げ、争う気の無いことを示した。


 遅れてきたところに、黒髪のウナクの男が居るのには、正直言って驚いた。ここは、キハルの集落からそれほど離れていない場所。風が作った入り組んだ峡谷の側にたまたま見つけたオアシスだ。ィエンは、近所に出掛けるような不用意さで、幼なじみを追いかけてきたのだ。身を守る太刀も持たずに。


 彼もまた三人もの敵を、人質となった幼なじみを気にしながら黙らせることは難しい。まずは、武器を手に入れなければ。


 ウナクの男たちが腰に帯びた円月刀に、ィエンは目をつけた。


「あんたたち」


 ィエンは、得意とする人懐こい笑みを浮かべながら、男たちに近づいた。レヌフと呼ばれた男はとっさに腰の太刀に手を伸ばしたが、「そんな物騒なモン、しまってくれよ」


 ィエンはヒラヒラと両手をふった。第一に誇りを重んじるキハルの男とは思えない、軽薄さだ。男たちは拍子抜けしたらしい。顔を見合わせ、肩をすくめる。


「この子はなあ、おれにしか抱かれたことがないから、あんたたちのこと怖いんだと。気に入らない抱かれ方すると、凄い剣幕で怒鳴る。・・・どうだ、おれがはじめにこの子を抱いてみる。おれの抱き方みてれば、男とする方法もわかるよ」


「なッ」


 エナーリシャと呼ばれた少年は、腰砕けになったまま手だけで後ずさった。彼の顔には、あきらかな失望がある。それを無視してィエンは歩み寄った。エナーリシャは泡食ったように口をぱくぱくさせる。


「ィ、ィエン・・・とうとうおまえ、血迷ったのか。じょ、冗談じゃない」


 エナーリシャは、混乱して彼の目配せなど目に入らなかった。ただ、確かなのは奴が本気なことだけだ。でも、まさか。


「ほう、見せて貰おうか」


 男同士の交わりに興味が少なからず在るらしく、男たちは面白そうに、キハルの男が同族の少年を組み敷くのをみつめている。どいつもこいつも、男というのはこう、助平なのだろうか。うろたえて、いやいやをするエナーリシャの耳朶を噛むと見せかけ、ィエンは小声で呟く。


「心配するな、油断させるだけだ」


「ふざけるな、この、馬鹿、馬鹿男・・・・」


 首筋にかわききった彼の唇が這い、エナーリシャは押さえ難い悪寒を感じた。


「くそ・・・」


 口づけされながら上衣の紐を解かれ、拒むがィエンの手は止まらない。下帯を慣れた手つきでほどき、差し入ようとする手前、待ったがはいった。


「もういい。後はおれたちにその子を貸してくれ」


 待ち切れないのか、剣をも降ろしたウナクの男が、ィエンを止めた。ィエンはエナーリシャからどいたあと、にやりと笑った。砂の上に投げ出された太刀に、そろそろと手を伸ばす。


 エナーリシャは自分の姿をあらためて見て、殺意を覚えた。布を胸に幾重も巻いているため、胸は露出していないが、下帯と筒ズボンが降ろされ、足が丸見えだった。


(ィエンめ、あとで殺してやる)


 彼の青い瞳に、怒りが宿っているのを知らない風に、ィエンはすっかり油断した男たちの後ろにどいた。不用心にも剣をほうり出していたのが、男たちのアダとなった。脅える少年に打ちかかろうとする男の上に、ィエンの影が黒くうつる。


「残念だな、もうお仕舞いだ」


 ィエンは、やや低い、耳に聞き良い声で、そう宣告した。


「悪いが気がかわった。あんたたちに、おれの婚約者は勿体なくてやれないな。肌に飢えてるなら、自分の天幕に帰って、ウナクの女を抱けばいい」


 浅黒いレヌフとかいう男の首筋に、ィエンは剣先が上に反り返った円月刀を密着させた。ひやりとした感触に、黒髪の男は情けない悲鳴をあげた。ほかの二人は腰の短剣に手を伸ばし、鞘から抜き放った。エナーリシャはといえば、吐息をつく。安堵のそれである。見掛けは軽そうな男だが、ィエンの剣の腕はキハルでも一・二を争う。特に、軽い円月刀ではなおさら素早さも増す。洒落ではなしに。「貴様あッ」


 まんまとはめられたことに怒り、ふたりの男はィエンを押さえ込もうとエナーリシャからどいた。ィエンは、下袴をおろしかけていた奴の体を、足で思い切り蹴飛ばした。うぎゃっ、という悲鳴がする。


「レヌフ!」


 少しでも知恵のある者なら、人質をとってィエンの動きを封じればいいものを、彼らの目には少年が全く映っていないようだ。少年はいささか閉口した。敵ながら阿呆だ。


「ィエン、わたしが許す。どうにでもしろ、こんな愚な奴ら」


「はいよ、お姫さん」


 打てば響くような答えに、乾いた声で少年の格好をした娘は笑って、それから付け足した。


「・・・どうでもいいが、女たらしのおまえが、男も好きだなんて初耳だったな。言っておくが、わたしの夫は品行方正が第一条件だ。わたしが腹を痛めて生んだ子が、両刀使いだった日には、後悔しきれない」


 エナーリシャは、ィエンが呆気なくウナクの男を砂に沈めていくのをみながら、ぼやいた。ィエンは、最後の一人に剣の柄で鳩尾へ一撃をおみまいすると、それを聞いて、弁解をはじめた。


「あれは、こいつらがリシャを男と勘違いしてたからしょうが無く・・・」


「嘘だな。おまえは、楽しんでた」


(わたしに触れたな、戯れで)


 エナーリシャはその言葉を飲み込み、ィエンを睨んだ。


「リシャ、誤解だって・・・・」


「嘘はないか」


「・・・おまえ、しつこいよ」


「言える立場?」


 エナーリシャは、審判の老人であるようにィエンには思えた。肩をすくめる。


「ご、ごめん」「ほら、みろ」


 エナーリシャという名の少女は、正直に吐かせたのを得意げに笑った。笑うと、気丈さはなりを潜め、ただ愛らしさのみが面に現れる。それは、ィエンが最も好むものだった。気を張らない表情をするときにのみ、十八の娘らしさが覗くのである。


 このところ、彼女がこんな表情をするときは酷く少なかったから、ィエンは彼女に白眼視されようと嬉しかった。


「いい、許すよ。結局はィエンのなまくら剣技に助けられたわけだしな。ところでほら、ここがおまえのオアシスだ。これでおまえも・・・・」 なまくら剣技、とは過ぎた言い草かもしれないが、二人の関係は、そんな事を気にするような表面的なものではない。幼い頃から共に育ち、もう十年以上も数える。お互いの性格も、癖も知り尽くすほどだ。


 いとこ同士。それ以上に二人を親しくしたのは、ある少年の事がふたりのあいだに横たわっているせいでもあろう。


「一人前・・・か? ははあ、おまえはおれを、ていのいい盾にしようって言うんだな」


 彼女の行動は、確かに気遣いのみのそれではなかった。婚約者のアーレンが三年も帰ってこないため、エナーリシャの父親は、彼女に別の男を夫として結婚するのをすすめた。それは子孫を残すための、なかば女の義務でもある。だが彼女は、ィエンが正式にキハルの男と認められていないことを口実に、他の男との結婚を拒んだのだ。ィエンと結婚する気も無いのに、である。ふたりは手も握らない恋人同士だった。


 エナーリシャは言葉につまった。後ろめたいことがあるからに違いはない。


「まだリシャはあいつのこと、諦めてないんだな」


 いつもは陽気ないとこの、何とも形容しがたい表情にエナーリシャはごまかしめいたことを口にした。


「何言ってる、わたしはおまえのために」


「嘘だね」


 アーレン・・・アーレン・シンは、エナーリシャの婚約者の名だ。アーレンとィエンは、双子の兄弟である。


 部族内の婚姻は、いとこ同士が普通であり、エナーリシャとアーレンの婚姻も、日常会話上に決定されたものだ。彼が今生きていれば、彼女はもうアーレンに嫁しているはずだった。十八ともなれば、子供三人の母親であってもけっしておかしくない年頃だ。


「エナーリシャ、おまえはまだ忘れてない。あいつのことを」


 アーレンは三年前、ウナクへ旅立った。


 ィエンとアーレンは、ある水源争いで父を殺され、アーレンはその汚名を雪ぐために自らウナクへ行くことを望んだのだ。父を殺した男を、決闘で殺すために。だが彼はいまだ帰らない。それから、もう三年が経とうとしていた。


 もっとも、あのウナクに正攻法でいこうとしたのが、間違いだったのだ。卑怯な奴らのことだ、初めから決闘などなかったのかも知れない。大人数で彼を蹂躙したかもしれないのだ。エナーリシャにはそう思えてならなかった。


 ウナクの男が、その数日後に、決闘の負けの証し、アーレンの愛用していた剣を届けにきた。凝り固まった血の飛沫が柄に染み付いたそれを。負けた者の身内には、身を裂かれるほどの苦痛をもたらす、決闘という儀式の一部である。


 それで彼の死は確実だった。だが、エナーリシャには信じられない。信じたくはなかったのだ。彼はきっと帰ってくる。


「忘れるはずない。おまえの兄さんだ」


エナーリシャは、それ以上その話題を続けることは拒んだ。オアシスの岩陰につないでおいた、己のパウテの鐙に足をかけ、またがる。澄んだ瞳のパウテの頭を巡らし、ウナクの男達の乗ってきた三頭のパウテが、木に繋いであったのを小太刀で切る。


「頭を冷やすがいい、ウナクの阿呆ども」


 折り重なって伸びている男たちに向かって、エナーリシャは言い放った。運がよければ迎えは来るだろう。


 主を無くしたパウテは、驚くべき方向感覚で寝所に、ウナクの族に帰るのだから。パウテが「砂漠の案内人」と字される由縁である。「ィエン。おまえを、わたしなんかの婚約者ということで、縛っていることは謝る。


・・・・本当にすまないな、勝手を言って」


「別に」


 ため息とともにィエンはそう口にした。エナーリシャの背中には、いつも後を追う者への拒絶がある。


「気にすることはないさ。それと、いいオアシスだな、ここは。これでおれも一人前だ。嬉しいよ、エナーリシャ。ああ、嬉しいなあ」 彼女はパウテの腹に蹴りを入れた。ィエンはそれから感情の籠もらない、明かに厭味ととれる声音で、呟いた。それが聞こえたかは知らない。すでに彼女は先にパウテを進めて行ってしまっている。


 苦笑の形に顔を歪めているのに、彼は長いあいだ気づかなかった。彼女のまなざしは、彼を通り越し、よく似た誰かを探していた。そして、その誰かとはアーレン・シンに外ならない。双眸を共有する、双子の兄弟。


「どうしておれをみようとしないんだよ」


 オアシスの揺れる水面に目を落とし、ィエンはひとり呟きを落とした。それは自嘲めいていて、わずかに嫉妬がいりまじっているかも知れなかった。


「・・・」


 アーレン・シンの面影は、いまだエナーリシャに寄りそっている。彼女は、暗に言っている。「干渉は無しだ」と。つき放す彼女の声には、三年前に死んだ婚約者に殉ずる意志が込められていた。長が、結婚を無理強いしないのはそのせいでもある。


 エナーリシャはィエンを見ない。同じ顔のィエンに心動かされるのを知っているからだ。そして、それはィエンにとっても耐え難い苦痛だった。


 ィエンは、己の顔に嫌気がさしていた。同じ顔、それこそが彼女の心を縛っているのだ。・・・頬に爪を立て、切り傷を作る。小刀で削ったばかりの爪は、やや尖っている。やがてそこから血が滲み、じわじわと痛みが広がる。 感傷に溺れる気などない。そんなことをするヒマがあったら、とうにあのいとこを手に入れている。それができないから、こんなに苦しい目にあう。


 どんな娘にも手を出す軽薄な男と罵られるのも、彼女を傷つけないため。おのれの激しい感情のせいで、彼女を傷つけないためだ。 ・・・アーレン・シンの面影が消えないうちは、エナーリシャを抱く気はなかったから。「盾でもいいかなあ、このさい」


 口許から押し出した言葉は、らしくなく掠れていた。


「・・・それができればね」


 どうしてこんなに欲しいのか。無くしたものと思い切れないのだろう。もっとも、それができれば、自らすすんでこんなみじめな役回りなんてしない。彼には思い切れない理由があったのである。


 ィエンはパウテの尻を思い切りぶつと、エナーリシャを追いかけた。



「なあ、なんであんなとこに、ウナクの奴らがいたんだろうなあ?奴らの集落は、ここからずっと南に散らばってる筈なのに」


 パウテを全速力で走らせ、ィエンはエナーリシャのそれに追いついた。彼女が振り返ったのを見、笑顔をしながらそう言ったが、彼女は笑わなかった。


 見渡す限り熱砂が続くこの大地には、幾つかの部族と、それに与する人々がオアシスに生活をしている。だが、日を年を追うごとに、人は殖え住む地は狭くなっていく。 オアシスを手に入れることは、そのまま部族の明日の生活を得ることに繋がるのだ。一つの水源で作れる食糧にも限界はある。


「・・・さあな。意地汚いウナクだ。南の砂漠のオアシスを食いつぶしたんじゃないのか? ただ確かなのはだな、おまえがもう少し早く来れば、わたしが奴らに辱められずにすんだってことだ」


「貞操は無事だったじゃないか」


「そ、そういう問題じゃない」


 蚊の鳴くように言うエナーリシャ。その頬に朱が差しているのを認め、ィエンはおや、と思った。さっきの演技でしたことを、怒っているのか。ィエンは、どんなに彼女に袖にされようと決してめげない人間である。


「もう一回、今度は二人きりでするか?」


 殴られるのを覚悟でにこやかに告げようとした男は、そのまま凍りついたように遥か前方を見詰めた。パウテの足が、止まる。手綱を急に強く引き過ぎて、パウテが哀れに鳴いた。


「・・・ィエン?」


 不思議そうに問う少女に、彼は打って変わって堅い声音で吐き出すように言った。その声は、掠れていただろう。どっと吹き出した汗が、額をすっ、と滑り降りた。パウテの手綱を握る手が、一瞬にして汗ばむ。


「キハルの集落が・・・」


「え?」


 疲れたようにパウテの長い首に身を預けていたエナーリシャはそれに反応し、跳び起きた。


 前方、緑地帯と水源が認められる。そこは、間違いなくキハルの集落。いつもはこの時刻なら、昼時の煙りがのどかにたなびいている筈・・・なのに!


「ィエン」


 エナーリシャは、悲鳴に似た声で叫んだ。


 彼女の瞳に映るのは、殺伐とした砂漠のなかでもいつも心安らぐような風景では、あり得なかった。今、集落には火が放たれ家である天幕を焼き、黒い煙りをだすことを許していた。空は灰色に曇り、彼女の耳には残してきた父や姉、キハルの民の悲鳴までもが耳の奥に木霊した。


 幻影と解っていても、吐き気が募る。かつて心に刻まれた恐れが、また蘇ったに違いなかった。アーレン・シンを失ったと思ったときの恐れが。


 彼の、血染めの剣を手にしたときと、その感情は酷く似ていた。


「ィエン、どうしよう!・・・とうさまが、姉さまが!」


「落ち着け、エナーリシャ。いいか、あれはきっと、ただの火事だ」


 パウテを走らせようとするエナーリシャを止め、手綱を代わりに取る。ィエンは彼女のすぐ横に、自らのパウテを着けた。自らにも言い含めるように、ィエンは言った。


「心配いらないさ」


 だが、内心では肌を焦がすほどの焦燥で、今にも叫びだしそうだった。今行けば危険だと、砂漠にも慣れたキハルの男は悟っていたのだ。火事が、起きるはずが無いからだ。


 今日は朝から、風がない。風がないなら、昼の用意で火事が起こったとしても、飛び火する事も無く火はすぐにでも消し止められるだろう。水源も間近であるから。


 だとしたら、あれは誰かが放った火に、違いは無い。だから、火はいまだに集落を燃やしているのだ。


 恐らくは、ウナクの仕業。先程の黒髪のウナクのにやけた顔が不意に脳裏に浮かび、戦慄が走った。


 なぜすぐに、キハルの猛者たちはウナクの襲来に気づくことができなかったのか。


(あ!)


 三月に一度、東方から商隊がやってくる。東方の砂漠は「砂漠の果て」。果ての果てからは豊かな物資が届く。砂漠で彼らを歓迎しないものはなかった。商隊は見知らぬ土地を渡り歩き、詩を吟じ、踊りを見せることを商売よりも好む。そして危険な砂漠を渡るからには、腕に覚えのある屈強なものたちばかりだった。


 ィエンが思い当たったのはそのことだった。彼がエナーリシャを追ってあの小さなオアシスにやってきたとき、ィエンが出て行くのとほぼ同時にキハルの集落にはいったのは、何十騎かの商隊の連なりであった。キハルの民たちは、商隊に化けたウナクと知らず、何の警戒もなしに敵を迎え入れてしまったのではないだろうか。・・・それは確信だった。


 そうでなければ、キハルが、それも長のいる集落がこんなにもたやすく焼き払われることもあるまい。


(それにしても、性急すぎる)


 二人が集落を離れていたのは、運が良かったとしか言いようがない。ウナクの男たちがあの峡谷に居たのも、見張り役ということなら説明がつく。あそこは、ここ北の砂漠とウナクののさばる、南の砂漠を繋ぐ場所だ。それに、辺りを見渡せる高みでもある。あの三人が見張りをさぼっていたと考えれば、ウナクの男が何故あそこにいたかも容易く見当がつくのだ。


(アムナを潰してから、何日も経っていないのに)


「落ち着け、心配ない」


 内心は、まるで砂嵐が吹き荒れているかのよう。だが、それをおくびにも出さず、取り乱したエナーリシャを、ィエンは宥めようとする。


 黒髪の猛者ウナクは、南で対立していた部族アムナと、数少ない緑地を巡り、争っていた。北のキハルと対立があるとは言え、それはアムナがある意味、盾となり表立った争いは少なかったのだ。


 部族が襲われるということも、キハルがウナクを敵と目する限り、遅かれ早かれ免れないことだったが、ウナクの早すぎる襲来は、まるで背中から斬られたような衝撃だった。


 内心の動揺は押さえ難かった。しかしィエンは偽りを口にした。いま出て行っても、おめおめ捕まりに行くようなものだ。その髪の色から、黒き悪魔とも呼ばれるウナクに捕らえられた者がどうなるかは、想像に難くない。男は他への見せしめとして殺され、女は美しいほど哀れだ。仲間たちのそうした姿を、彼は今まで幾度かみてきたのだ。


(黒き悪魔・・・!)


 遠く、灰色の煙を出すキハルの集落を凝視しながら、ィエンは乾ききった喉を鳴らした。灰がかった青の瞳に、怒りが灯される。


 三年前の、あの日。あの日まで、戦いと血の雨の果てにもたらされる平安に、彼は何の疑問も抱かない少年だった。それなりに幸せで、双子の兄弟と、幼なじみの少女がィエンの近くでいつも笑っていた。あまりの親しさに三人は、部族の大人たちに事あるごとにからかわれた。


 例えば、このように。


   かわいいむすめ


 「シュリムシュ、お前はアーレンとィエン、どちらを夫に決めるんだ」


 彼女の父親、キハルの長がそう問うと、


 「二人とも夫にする」


 エナーリシャはそう言い張る。その度にほほえましい笑いが起こるものだった。だが、アーレンがやがて彼女の婚約者に決められると、エナーリシャはアーレンを違った目で見るようになった。男として意識しだしたのだ。


 それは、仕様がない。ただ、それですませられないのがエナーリシャから笑みを奪ったウナク。屈託ない笑いをし、明るい物言いをするあの少女を、黒き悪魔がころしてしまったのだ。アーレンを殺すことによって。


 彼女の外見すら、少女のものから、いつしか女になることを拒むように、少年の姿と男の言葉をするようになった。


 そして今、追い打ちを掛けるように、彼女の父が、姉たちが手に掛けられようとしている。あの黒き悪魔に。


「火事、小火・・・・?」


 エナーリシャは、彼の方便で落ち着きを取り戻したようだった。苦しい嘘だったが、存外彼女はあっさりと信じた。


「すまないな、ィエン。馬鹿みたいに慌てて」


 彼女には恨まれるかもしれないが、彼はこの幼なじみの少女を安全圏に置く方を、迷わず選んだ。


「でももう、嫌なんだ・・・大事な人を亡くすのは」


 息を吐き、少女は細い首をゆるゆると振った。・・・大事な人。彼女が言うのは、アーレン・シンしかいない。彼女は、彼の死により極めて臆病になっていた。今の様子も、普通ではない。


「当たり前だ」


 ィエンは短く言うと、灰色がかった青き瞳を細めた。エナーリシャに手綱を渡すと、彼はパウテの方向を変え、左方向に歩ませだした。


「火事のことを西のカリアに伝えに行くぞ。飛び火したみたいだから、人手を借りなければ」


「ィエン、様子を見に行ってはだめか」


「ばか、それが努めだろうが」


 口唇を噛み締め、ィエンは虚しい空言を言った。一瞥を投げただけで、蹂躙されたであろう集落の跡を、彼は二度と振り返らなかった。


 そこから八シェオ(八キロメートル)位西に離れた場所、草原地帯に、キハルの部族の一つの集落があった。


 キハルの長であるエナーリシャの父、ハルマの甥が纏め役をしている。カリアは最近父に代わり纏め役についたばかりの、三十を二つか三つほど過ぎただけの若い男だが、責任感と包容力には一目置かれている。それ故キハルの次の長に目されている男だ。族長は世襲されるのではない。あくまでその人柄と能力が決め手だった。


「どうした、ィエン。血相を変えて」


 突然の二人の訪れに、やはり亜麻の髪と青い目の、カリアは言った。弟とも思っている親しい男は、珍しく青ざめて無口だった。額には、汗が浮かんでいる。かなりパウテを飛ばしてきたであろう事が知れた。エナーリシャは部族の女に水をもらっている。別の天幕で休んでいるだろう。


 ィエンは、二人だけの天幕の中、喘ぎに似た声音で呟いた。


「俺たちの・・・いや、長の集落が、襲われた。ウナクの奴等の仕業に違いない」 それからィエンは自分の憶測を語った。一瞬、カリアは身を強ばらせたが、動揺はしていなかった。彼のことだ、驚くよりもまず冷静さを纏うことができるのだ。


「とうとう手を出してきたか。商隊に変装して、か。それしかないな。・・・人数は。長はどうなった?お前達、よく逃げ出せたな」


 カリアの冷静さに、ィエンは舌を巻いていた。年はそれ程違わないが、ひとを射るような目をするこの男の、凛とした気迫とまむかうと、ィエンは敬意を抱かずにはいられなかった。


「俺とあいつは、たまたま集落を離れてたんだ。どんな様子かは、知らない。燃えてる集落をみつけても、近づけなかった。・・・火事だといっておいたが、ウナクの奴等の仕業だと知れたら、リシャが飛び出して行きかねなかったから」 言いながら、ィエンは口唇だけを吊り上げた。皮肉な笑いになる。エナーリシャを安全圏に置くためについた嘘が、実は己を守るためについたものでもあるとその時気づいたからであった。


 誇りを重んじるキハルの男であるなら、単身でも仲間を助けに行くべきだったのかも知れない。カリアの侮蔑を覚悟で、ィエンは正直にそう言った。


「お前は正しいよ、ィエン。もしお前がエナーリシャを連れてそこに乗り込んでいたら、わたしは間違いなくお前を見限っていた。よくエナーリシャを引き留めたな」


 エナーリシャの性格からいって、彼女があの場面で黙って見過ごすことはできないと、カリアは言った。


 ィエンの予想に反して、そういうカリアの表情は静かだ。既に彼の頭にはどのように守りを敷くべきかがあるのだろう。長の集落が襲われたなら、ここに奴等の手が下るのも時間の問題だ。キハルの現長ハルマの命は、絶望的だと思っていい。ほかの者の命にはまだ望みがあるものの、いずれも無事ではいないだろう。


「さあ、どうする」


 カリアは、涼しげな瞳に思案を浮かべ、誰に言うでも無く呟いた。


 やや沈黙が続き、ィエンは呟きに似た、だが揺るぎない声音で告げた。


「俺が行く。長の集落がどの程度の状況か、見てくる者が要るんじゃないのか。人数は、天幕の数を見れば大体わかる。そうだろ?」


 カリアが、軽く頷く。ィエンのその言葉を待ってはいたが、それに気乗りしたわけではない。自分のこんな気分は、半ば諦めから来るものであるかも知れなかった。


(ウナクを敵に回す時が来た)


 ウナクは、ありとあらゆる手を使い、多くの部族を手に入れてきた。もはや、数のうえでは太刀打ちできない。その事実から目を背ける訳にはいかなかった。「行ってくる」


「気をつけろ」


 ィエンが天幕から出て行った後、カリアは重い息を吐き出した。


 ウナクの支配を逃れる術は、侵略される前に自らの命を終わらせるか、ウナクに和議を取り付け、ご機嫌を伺うか。それともウナクに相反する部族を味方につけ、真っ向から戦をしかけるか、である。


 まず、誇りを重んじるキハルの民には、支配を受けるなど耐え難い者が、過半数だろう。キハルの証しである砂の竜は、雄々しい砂の民を好んで加護をする神竜。それへの信仰はそのまま、誰にも膝を屈しない、キハルの意志そのものだ。


 ならば、他部族と同盟を結ぶのが最良、ということになる。例え、ウナクを倒すための、ほんの僅かな間であろうと。


 だが、それすらも今は難しかった。他部族との長い間の水源を巡る争いは、流された血が多いだけ、拭い切れない憎しみを育てていた。同盟を求めようと、一笑に伏されるのがオチだ。


 つまりは、孤独な戦いをするしかないということ。


 強力な侵略者、黒き悪魔と、誇りのみに執着するキハル。


 勝敗は、決まったようなものだ。


「皆に恨まれようと・・・あれしか手はないのだな」


長、ハルマの集落が襲われたとなれば、まず確実に彼の命はないだろう。だとして、次の長はカリアに違いなかった。正式に決定していないとは言え、長としてするべきことは、ひとつ。


 民の命を優先することだ。負け戦を仕掛けるのは、カリアの本意ではなかった。たとえハルマがそれを望んでいたとしても。ここは、ウナクの申し入れを聞き入れるしかない。


「ィエン。お前には悪いが、頼みの綱はエナーリシャしかいない」


 ウナクは、エナーリシャを欲していたのである。和議の証し、はっきり言うと「人質」として価値のある、キハル族長の未婚の娘を。


「血を流し、オアシスを奪い合う時は、終わりなのかも知れない」


 そう呟くカリアが思うのは、アーレンを亡くしてから、笑いも稀になった娘のことであった。


「ィエンが今いないのは、好都合だな」


 戯れ言を呟く気安い口調。だが、彼の目は少しも笑っていなかった。



黒き悪魔、ウナク。


 その名は、ある男がウナクの長の座に座ったとき、砂の大地にもたらされたものである。


 もともと、ウナクはどこにでもあるような、弱小に属する部族でしかなかった。ただ異なるのは、弱者が強者の襲撃に脅えるように、彼の部族は臆する事をせず、むしろ自ら滅びを招こうとするように、他部族に戦を仕掛け、南で水源を拡大してきたということである。


 ウナクは、負けるという言葉を知らなかった。


 それは一重に、ウナクを率いる長の類い稀なる機知と戦略によってもたらされるものであり、族の者たちが彼を「戦の神」と誉め称えた時も多きを数えたという。


 彼は、ウナクを砂漠の王として君臨させることを夢見ていた。


 いつの世になるかは知る由もない。存命のうちに成し遂げられるとも、思わない。だが、小賢しい戦を繰り返し、互いの血を求めることだけに目を光らせているままではならないと、彼はそういう考えの持ち主であった。しかし、勇猛さで知られる彼、ヤエフアも、すでに八十の齢を迎えようとしていた。


 彼は「黒き悪魔」と言う呼称の、人に与える効果を利用はした。だが、その言葉そのものは彼にとって心外であったのかも知れない。


「レノ・ランセ。お前はどう思う」


 燃えた天幕の残骸と、燻り続ける煙の、そして濃い血の匂い。僅かに緑が萌えた地のうえに、幾つもの屍が転がっている。辺りに満ちる悲鳴は涸れることが無く、それは耳を塞いだとしてもどこまでも追ってくるように思えた。


 何度、こういう場面を目にしたか。


「どうとは?」


 老いた老人の嗄れた問いに、それとは対照的に若々しい男の問う声が続いた。老人は、しわで埋め尽くされたような顔を、向かいに座した若い男のほうに傾けた。


 ここは、滅びたひとつの集落。砂の竜を神として崇めていた部族である。燃え残った天幕の布地に、ウーカの実で染めた赤糸で刺繍した砂の竜を、レノ・ランセは見つけていた。それにも増して、北方で金髪碧眼といえばキハルしかいない。


 死体が無造作に転がる場所から、少し距離を置いた場所に、新しい天幕を組み立て、老人とレノ・ランセは二人きりでここにいた。ほかのウナクの男たちは、燃え残った天幕で、水源の木の茂った場所で、女達を抱いているだろう。勿論、キハルの女を。


 敗れた部族に残された道は、従うことしかない。そうでなければ、死があるのみ。誇り高いキハルの民は、レノ・ランセがキハルの長の首を刎ねたとき、その屍が地に沈んだとき、狂ったように自害した。あるものは自らの喉を、動きを制するためウナクの男が手にしていた剣で突き、またあるものは舌を噛んだ。


 キハルの柱たる男の死は、計り知れなく大きいことだろう。部族の長を失うことは、部族の命も終わる時。そこにいたのは、キハルの女のみ。長の娘は人質として生かしてある。キハルの男は、子供を除いて皆死んでいた。


 これはウナクの作戦勝ちだった。キハルにしてみれば卑怯な行為とされるだろうが、使える手は使ったものが勝つ。


 ウナクの戦士は、東から定期的に集落に訪れる商人隊に変装し、キハルの油断を招いたのだ。何の愉しみもない砂の大地のこと、緑豊かだという東方の果てからやって来て、歌や踊りを披露したりもする商隊の存在を、歓迎しないものは一人とてない。


 これを提案したのはレノ・ランセだった。作戦は予想以上に功を成し、武器を求めて走るキハルの男を背中から切りつけるだけで事はすんだ。こちらの損害は実に少ない。


 「キハルの長、ハルマは我らウナクの申し出た和議を蹴った。それは即ち、  我らに戦を仕掛けると同じこと。少しは警戒すべきだったな。


  たった一人の娘を寄越すことさえ拒んだ、その愚かな男も、最早死の床についた。  賢いものは、今すぐウナクの男に身を預けろ。ウナクの子を宿せば、ウナクの民として迎えよう」


 レノ・ランセは何度吐いたか知れない言葉を、ただ機械的に口から押し出した。女達の眼には、畏怖が覗く。忌まわしい者を見るときの、もしくは憎悪の込められた眼が、レノ・ランセを貫く。


 彼がその場を去ったすぐ、高い悲鳴と泣き叫ぶ声が滅びた集落にこだました。死ぬこと適わなかった女たちが、ウナクの男たちに足を、髪を掴んで天幕やら木陰やらにひきずりこまれるのである。


 レノ・ランセの思考を、嗄れた声が不意に遮った。


「儂のすることが正しいとは、誰も言わぬ。間違っているともな。儂は老いた。昔のように、澄んだ頭に考えが巡るということも、今ではもう稀だ。


 レノ・ランセ。お前のような機知ある男の考えが聞きたい」


「戦のヤエフア


 レノ・ランセは赤茶けた黒髪と青き眼の男だった。ヤエフアの末の息子で、彼が略奪した南方の部族の娘に産ませた子だ。まだ二十歳をいくつか過ぎて間もない齢であろうか。


 ウナクのみの血の交わりでは決して生まれない、青き眼は澄んでいて、俊敏な動物のそれのようだった。


「あなたのような賢い者が、わたしのような何も知らぬ愚か者に、考えを求めるのですか」


 レノ・ランセの整った口許からは、澱みなく言葉が流れ出てくる。青い眼は真っすぐにヤエフアを見て、その視線にさえ、父に対する敬意はあっても、親しみは無かった。


「・・・愚かなわけではあるまい。息子よ、お前は儂を略奪者と呼ぶか。途方もない夢を見る、呆けた老人だと」


「どうしました。いやに弱気ですね」


 レノ・ランセは答えに窮した。父が、レノを他の何人もの異母兄弟よりも一際、慈しんでいるのは自覚している。だが、それは誇りであっても時には重荷になる。


 ヤエフアはレノにとって理想を具現できうる、偉大な男だった。この広大な砂漠を一つにし、そのために今敢えて行っているこの行為を、正当化してくれているのが父、ヤエフアだ。


 他の問いかけには的確に答える自信はある。だが、その質問だけは、答えられない。この略奪行為が正しいと、レノは言い切ることができない。しかし、間違っていると言えば畏敬する父を否定することになる。


 ヤエフアは、物を見ることも難しくなった、老人らしい水色の眼で、息子を見つめていた。ややあって、言葉を噛み締めるようにゆっくりと紡ぐ。


「儂の若いときは、ただ前のみを見つめて後ろを振り返ることなど考えなかった。・・・だが、この齢にもなるとそうはいかなくなった。昔殺した人間の悲鳴が、奪った女の哀願が、耳にこびりつく。毎夜、儂をさいなむ」


「・・・ヤエフア」


レノは、青き眼に複雑な表情をちらつかせた。老いた父親に、どのような言葉を掛けるべきか、彼には検討もつかない。というより、レノにはヤエフアが父親であるとは、どうしても思えない。父のような身近な存在というより、ヤエフアはレノの教師であった。生きる道を示唆する教師というほうが、ある意味正しい。


「あなたの決断は、ウナクの決断です。


 兄をこの手で殺したわたしの命を永らえさせ、このようにお側においてくださるあなたの寛大さは、このレノだけではなく、部族の者なら皆が承知しています。


 ヤエフアの決断はいつも正しいのではないのですか。兄殺しをしたわたしに、そうおっしゃってくれたのはあなただ。あなたがわたしを生かせと言わなれば、わたしはとうに死んでいたでしょう。


 あなたは、わたしにおっしゃった。前を見よ、後ろを向くなと。それはそう昔のことではありません。それとも、本当にヤエフアはそれを忘れてしまわれたのか」


 知らずのうちに、己の右手が左の脇腹をまさぐるのを、レノは苦々しく思った。衣服で隠れているとは言えど、そこには完治はしたものの、深い太刀傷があるのだ。今でも、その時のことを思い出そうとすると、古傷が痛む。そして、いつもその傷の痛みと戦ううち、思い出すことを止めてしまうのだった。


 青い眼に若さと機知をみなぎらせ、そう言うレノは、ヤエフアに一人の女を思い起こさせた。


「レノ・ランセ。・・・お前は本当にあれに似ているな」


 やはり青き眼をし、栗色の髪も艶やかだった女。


 黒き悪魔を率いる男として、惧れられるヤエフアにさえ、物怖じせずに時には罵声さえ吐いた、その薄い唇。ヤエフアは息子を見るたび、その面影をまざまざと思い出すことができた。


「兄殺しなど、責めてはおらぬ。むしろ、決闘に負けたフムの方を恥にさえ思う。お前の剣は、無駄がなく舞のようでさえあるよ。儂の息子にはお前が一番相応しい」


「ありがとうございます、ヤエフア」


 恐縮して頭をたれる男を、「戦の神」は満足そうに見詰めた。


「ただし、儂が生きている限り、お前が儂の側を離れることは許さぬ。


 お前も、もういい年だ。妻を求め、腰を落ち着かせる気はないのか?」


 日に一度はもたらされる問いに、レノは困ったように目を伏せる。


「要りません。わたしには、欲しい女などいないのです」


「何を言うか。女はあって悪いということはないのだ。それとも、誰でも良いというか。なら、儂が適当なのを選んでやろう。・・・キハルの娘はどうだ?」


「・・・」


「誇り高く美しいキハルの娘とお前なら、さぞかし雄々しい男が産まれることだろう」


 確かにキハルは、男も女も美しいという噂は間違っていなかった。南を大方占し、北への出口にはキハルが欲しいところだった。とにかく、南の水源は乏しい。それに厳しい岩壁にやや四方を囲まれているため、水源と緑地豊かな北の砂漠に出るには、キハルがどうしても必要なのだ。


 苦戦して南砂漠の北東に位置するアムナを倒し、やっとキハルへと至ったときは、その緑地の美しさと水の豊富さに狂喜した。同時に、懐かしささえ湧き起こったのだ。やはり、水のある風景というものは安らぎをもたらすのだと実感した。


「あまり興味はありません」


 だが、それとこれとは話が別だ。キハルの女が美しかろうと、そうでなかろうと、レノには女への強い興味というものがもともと無い。勿論、女より男が好きなどということは無いのだが。


「・・・儂の息子にしては、随分と淡泊なことだな。


 お前がいつまでもその調子なら、やはり儂が取り計らってやろう。お前にはキハルの族長の未婚の娘を妻とする。それでいいか」


「それは、あなたが欲しがっていた女ではないのですか」


「・・・この齢にもなると、美しい女を見ても、眺めているだけで満足なのだよ」 ヤエフアは、実は初めからキハルの娘を息子の妻にしようと、手を回していたのである。膝を屈することを厭う、誇り高いキハルの部族とは、出来ることなら友族となりたかったのだが、どこまでもかたくなな族長の前に何度も断られた。業を煮やしてここに攻め入った訳だが、呆気なく敵長の首を取った後では、これ以上戦いを仕掛けるのは無意味なことだった。だが、向こうから戦いを仕掛けてきたときは別。


 長の首が取られたことを知れば、砂漠の数ある緑地帯に点在する、残された部族の者は、形はどうあれ、こちらからの和議を受け入れるだろう。数のうえではウナクが勝っている。それに、「黒き悪魔」と聞いただけで震え上がるものは少なくない。


 あくまで刃向かうのなら、キハルは誇りのみに執着する愚か者だ。ヤエフアは買いかぶり過ぎていたということになる。


「あなたの決定は絶対です、ヤエフア。


 あなたがそうする事を望まれるなら、レノは喜んで悪魔でも妻にしましょう」 

 顔色ひとつも変えず、そう答えるレノ・ランセだったが、その青き眼だけには、彼自身気づかぬほどの狼狽があった。


(キハル族長の娘)


 それが、レノの心に言い知れぬ不安をもたらしたのだ。古傷が痛みだすことも、少しだけ意外であった。


 しかし、理由はまだ、分かりそうもなかった。

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