第6話:コーヒーの香りは、安らぎの合図
お読みいただきありがとうございます。
第6話は、志保が自分の「名前」を取り戻すお話です。
仕事の肩書きではない自分を認められる場所。その温かさを感じていただければ幸いです。
運ばれてきたのは、淡いクリーム色のポタージュだった。
湯気と共に、根菜の優しい甘さと、ほんの少しのハーブの香りが立ち上る。
「……いただきます」
スプーンですくい、口に運ぶ。
丁寧に裏ごしされた野菜の旨味が、空っぽだった胃に、そしてささくれ立っていた心に染み渡っていく。
「美味しい……」
本音が零れた。嘘偽りのない、ただ一人の「人間」としての言葉。
瀬尾さんはカウンターの向こうで、自分も小さなカップを手に、満足そうに目を細めた。
「良かった。一ノ瀬さんは毎日神経を使っているから、胃に負担をかけないものがいいと思って」
「……瀬尾さん、さっき『毎日見ていた』って言いましたよね」
私はスープを飲み込み、彼を真っ直ぐに見据えた。
「どうして、あんなに大勢の人が行き交う場所で、私だったんですか?」
彼は少しだけ考え、それから焙煎機の隣にある一輪挿しに目をやった。
「皆、スマホを見たり、下を向いて歩いたりしている中で、一ノ瀬さんだけは、戦場に向かう武士みたいな顔をしていたから」
「……武士、ですか」
「はい。でも、時々、その背中がひどく寒そうに見えたんです。だから、もしチャンスがあれば、温かいものでも淹れて差し上げたいな、と……ずっと思っていました」
武士。
その言葉は、どんな「有能なクリエイティブディレクター」という称賛よりも、私の本質を突いていた。
ずっと一人で戦ってきた。誰にも背中を見せず、凍えるような孤独に耐えることが、強さだと思っていた。
「志保さん」
「……え?」
唐突に呼ばれた名前に、心臓が跳ねた。
社内では「一ノ瀬さん」か、役職で呼ばれる。
プライベートで名前を呼んでくれる親しい友人も、今は忙しさに負けて疎遠になっている。
「あ、すみません。……嫌でしたか?」
「……いえ。ただ、あまりに久しぶりで、びっくりしただけ」
「そうですか。……志保さん。ここでは、ただのあなたでいてください」
瀬尾さんが淹れ始めた食後のコーヒーの香りが、安らぎの合図のように店内に満ちる。
私は残りのスープを飲み干し、もう一度、彼の顔を盗み見た。
四歳年下の、穏やかな目をした男性。
この場所なら、私は「一ノ瀬志保」ではなく、ただの「志保」になれるのかもしれない。
そんな、ありえないはずの期待が、コーヒーの苦味と一緒に喉の奥を滑り落ちていった。
第6話、いかがでしたでしょうか。
不意打ちの「志保さん」呼び。瀬尾の静かな攻勢にドキドキしますね。
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