第16話:合鍵と、深夜の密室
お読みいただきありがとうございます。
第2部のスタートです。
合鍵。それは二人の関係が「店主と客」から「男と女」へと変わる決定的な証。
深夜の密室で、志保の心がどう解けていくのかをお楽しみください。
指先で、小さな金属の鍵を転がす。
深夜零時過ぎ。仕事終わりの私が立っているのは、誰にも邪魔されないはずのマンションの自室前ではなく、一階の、暗がりに沈む『Lumière』のドアの前だった。
瀬尾さんから預かった、合鍵。
これを使うということは、彼のプライベートな領域に、土足で踏み込むということだ。
三十八歳にもなって、ドアノブを回す手が微かに震えているなんて。
カチリ、と小さな音がして、鍵が開いた。
店内に入ると、昼間の喧騒が嘘のような静寂と、冷えた花の香りに包まれた。
奥のキッチンから、微かな明かりが漏れている。
「……瀬尾さん?」
「あ、志保さん。本当に、来てくれたんですね」
エプロンを外した、ラフなシャツ姿の瀬尾さんが顔を出した。
営業中には見せない、少しだけ崩れた髪と、柔らかな眼差し。
「……迷惑、じゃなかったかしら。こんな時間に」
「まさか。むしろ、いつ鍵が開く音がするか、ずっと落ち着かなくて……コーヒー、淹れすぎちゃいました」
彼は少し照れくさそうに、カウンターに並んだ二つのカップを指差した。
私は促されるままに、いつものカウンターの端ではなく、彼に近い真ん中の席に座る。
閉店後の密室。
外の通りを走る車の音さえ、遠い世界の出来事のように感じる。
瀬尾さんが私の前に立ち、コーヒーを置く。その時、ふと彼の手が、私の手に重なった。
「志保さん。……ここはもう、誰の目も気にしなくていい場所です。だから」
彼はゆっくりと、けれど拒絶を許さない力強さで、私の指を絡めとった。
「一ノ瀬ディレクターじゃなく、ただの僕の恋人として、僕に甘えてくれませんか」
恋人。
その言葉の甘さに、心臓が跳ね上がる。
私は何も言えず、ただ彼に引かれるまま、自分でも驚くほど素直に、その胸の中へと身を預けていた。
深夜のルミエール。
それは、大人の私たちがようやく手に入れた、剥き出しの心が溶け合うための聖域だった。
第16話、いかがでしたでしょうか。
ついに「恋人」という言葉が飛び出しました。
第2部では、第1部よりも少し踏み込んだ、二人の親密な時間をお届けします。
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