第1話:完璧なヒールの折れる音
はじめまして。
本作を手に取っていただき、ありがとうございます。
三十代後半、一番忙しくて、一番寂しさに気づかないふりをする世代。
そんな二人の、ゆっくりとした恋の物語を始めさせていただきます。
カツ、カツ、と深夜の住宅街に響くのは、私の虚勢の音だ。
一ノ瀬志保、三十八歳。大手広告代理店のクリエイティブディレクター。
今日も日付が変わるまで戦い抜き、タクシーを降りて自宅マンションまでのわずか数十メートル。
背筋を伸ばし、顎を引き、一歩の乱れもなく歩く。それが「有能な私」を保つための、最低限のルールだった。
「……っ」
不意に、右足の下で嫌な感触がした。
パキッ、という乾いた音。
次の瞬間、視界が大きく傾き、私は冷たいアスファルトに膝をついていた。
お気に入りの、十一センチのハイヒール。
その象徴とも言える踵が、無残に折れて転がっている。
「……嘘、でしょ」
膝を擦りむいた。ストッキングが伝線し、赤くにじむ。
痛みよりも先に、こみ上げてきたのは猛烈な情けなさだった。
仕事では何十億という予算を動かし、部下には「トラブルこそ冷静に」と説いている女が、深夜の道端で転んで立ち上がれずにいる。
必死に支えてきた何かが、このヒールと一緒に折れてしまったような気がした。
視界が、じわりと滲む。
泣くなんて、何年ぶりだろう。
折れた靴を握りしめ、動けずにいたその時だった。
「……大丈夫ですか!?」
静かな夜の空気を震わせて、柔らかな声が降ってきた。
見上げれば、マンションの一階にあるカフェ兼花屋『Lumière』のドアが開いている。
エプロン姿の青年が、驚いた顔でこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「……大丈夫、です。自分で、立てますから」
いつもの癖で、拒絶の言葉が口をついた。
けれど、彼は止まらなかった。
私の前に膝をつき、震える私の肩を、大きな手でしっかりと支える。
「無理ですよ。膝、血が出てます」
「これくらい、大したこと……」
「大したことあります。……一ノ瀬さん、僕に頼ってください」
なぜ、彼が私の名前を知っているのか。
そんな疑問さえ、今の私には考える余力がなかった。
彼——瀬尾涼介の腕に支えられ、私は生まれて初めて、自分の足以外の力で立ち上がった。
閉店後のカフェに招き入れられると、そこには焙煎したての豆の香りと、優しい花の香りが満ちていた。
「少し冷えますね。今、手当てしますから」
パイプ椅子に座らされた私の前に、彼は再び膝をつく。
温かいタオルで、汚れた私の足を丁寧に、壊れ物を扱うように拭っていく。
その大きな手の熱に触れた瞬間、私は自分が、ずっと冷え切っていたことに気がついた。
第1話をお読みいただきありがとうございました。
完璧に生きようとする志保と、それを見守る瀬尾。
二人の距離がどう変化していくのか、応援していただけると嬉しいです。
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