第1話 空から見れば、国境はただの線だった
空から見れば、国境はただの線に過ぎなかった。レオン・アルヴィスタ少尉は操縦桿を軽く握りながら、その事実をぼんやりと眺めていた。
北東に向かって飛ぶレオンの眼下に広がるのはゆるやかな丘陵と細く伸びる川、そして規則正しく並んだ畑。地上では今日も人間たちが暮らし、働いている。だが高度二千メートルから見下ろせば、それはただの模様でしかないのである。
アルディア大陸最南端に位置する小国ルーヴァリア王国は、東の大国ダッツ帝国と国境を接し、軍事的圧力を嫌というほど受け続けていた。国境付近で陸軍同士の小競り合いは日常茶飯事。その小競り合いでさえ、ルーヴェリア王国は、ゆうにその四倍を超える領土と軍事力を持つダッツ帝国に対してジリ貧ともいえる状況であった。最近は国境から少しずつ戦線を押し込まれる状況が続いている。さらには西の列強フラング共和国もルーヴァリア王国との国境付近に常時部隊を展開し、軍事演習という名の圧力をかけ続けていた。この状況が続けばルーヴァリア王国は、どちらかの属国になるか、併合されるかの二択に甘んじることになるだろう。その苦境を打破しようとルーヴァリア王国軍は数年前、国の存亡をかけて、王国中の精鋭技術者、研究者を集めて極秘研究を開始した。軍の予算の大半を費やしてなんとか形にした空飛ぶ武器は戦闘機と名付けられ、いくつかのテストや訓練を経て、ルーヴァリア王国空軍として配備されることになったのである。空軍とは言っても、正式採用されたパイロットはまだ片手で数えられるほどなのだが。
「レオン少尉、聞こえるか。」
耳元の受信機から、ややノイズ混じりの声が届く。
「こちらコントロール。まもなく帝国との国境だ。予定飛行地点まで高度を維持しろ。」
「こちらレオン、了解。」
管制指揮官の言葉に短く答えながら、レオンはいよいよ国境を越えることを再認識し、操縦桿を持つ手が小さく震えるのを感じる。
彼が乗っているのは、ルーヴァリア王国が多くの金と人命を犠牲にしながら開発した新型戦闘機A-3型。なぜ軍に初めて配備された戦闘機がA-1ではなくA-3なのかということは説明しなくても問題はないだろう。それだけ人類初の試みをものにするのは困難を極めたということだ。主翼は布張り、骨組みは木製という、現代の戦闘機を知る者が見ればなんともお粗末な代物ではあるが、機首には金属の塊、機関銃が据え付けられている。それも、プロペラの回転に合わせて発射を制御する”同調装置”付き。これを開発するのにどれほどの苦労があったかは想像に難くない。この研究の成果がどれほどの意味を持つのか、まだこの世界のほとんどの人間は理解していない。テストパイロットとして任務をこなしているレオン自身でさえも、だ。なにせ世界には、まだ自転車に布の羽を付けただけのような飛行機しか存在していないのだ。想像できなくともなんら不思議はない。
「あそこか…。」
予定されていた飛行目標地点だろう。この高度からでは判別しづらいが、敵補給部隊で間違いないだろう。林の陰に隠れるように隊列をなしているが、真上から見下ろすレオンにしてみれば全く意味をなしていない。
「コントロール、こちらレオン。まもなく予定地点に到達。敵影を確認。補給部隊と思われる。繰り返す。敵補給部隊を確認。指示を求む。」
わずかな沈黙。
「こちらコントロール。確認した。」
先ほどとは違った無機質な声が耳元に響く。いよいよ始まるのだと嫌でも悟ってしまう。
「現刻より敵補給部隊を急襲せよ。繰り返す。現刻より敵補給部隊を急襲せよ。」
「…了解。」
「健闘を祈る。」
短い返答。しかしその言葉の重みはこれまでの任務とは明らかに違っていた。今回はテストでもなければ偵察でもない。正真正銘、人類史上初であろう空からの攻撃だ。
レオンはゆっくりと旋回し、機首を目標へとゆっくり下げる。風が機体を大きく揺らし、布張りの翼が音を立てて軋む。それまでは機体を支えていた空気が、今度は押し上げるように翼を叩き始めたのだ。エンジンの振動が切り替わり、足元から伝わってくる震えが強くなる。
高度一八〇〇。
一六〇〇。
敵部隊を機関銃の射程に収めるべく高度を下げる。
ゆっくりと地面が形を持ちはじめる。敵部隊がより鮮明に見える。弾薬。燃料タンク。人影。どうやら補給部隊で間違いないようだ。敵はまだこちらに気が付いていない。彼らの視線は運搬中の物資に向いている。地上の敵には警戒すれども、空を警戒するという発想がまだこの世界には存在しないのだ。
「これは…。ほんとうにやるのか。」
思わず独り言が口から漏れる。空から一方的に撃つ。それは本当に戦いと呼べるのか。これから始まるであろう惨劇に葛藤を抱かざるを得なかった。だが迷っている暇はない。レオンは照準を合わせるため、僅かに機体を傾けた。視界が揺れ、狙いが大きくぶれる。
──遅い!すばやく狙え。
頭の中で訓練飛行中の上官の声が蘇る。あの時は、それならばお前がやってみろと無線機に怒鳴りそうになるのを必死にこらえたものだ。
さらに鋭く降下する。布張りの翼がばたつくように音を立てる。速度を乗せすぎたか。だが、機体を起こしはしない。照準の先に敵部隊の一角が入った。背を向け、何かを運んでいる。まだ、こちらに気づかない。
「…今だ。」
レオンは引き金に指をかけた。次の瞬間、機体全体が大きく跳ねた。
ダダダダダダダダ──!
耳をつんざくような大きな破裂音。機関銃の反動が操縦桿を通じて腕に叩きつけられ、レオンは思わず歯を食いしばる。。放たれた無数の弾丸が空を縦に切り裂く。弾道は一直線だった。地面が爆ぜる。人影が倒れていく。燃料に引火したのだろうか、炎も上がっている。人影が揺れる。誰かが叫ぶ。だが、その声はプロペラ音にかき消され、レオンの耳には届かない。
「コントロール、襲撃に成功。目標へ着弾。」
「了解。続けろ。」
管制へ短い報告を入れると再び旋回し、引き金を引く。今度は左右に薙ぎ払うように連射した。パニックを起こして逃げようとする人間の列に沿って弾丸が走る。無数の人影が倒れ、動かなくなる。かろうじて直撃を免れた者たちも慌てふためき、ちりぢりに逃げ惑う。これではもう敵の補給はかなうまい。
「コントロール、目標を撃退。繰り返す、目標を撃退。」
しばらくして返ってきた声は、明らかに興奮を含んでいた。
「よくやった、レオン。損害は?」
「損害は無し。無傷だ。」
「そうか。ここで一気に断ち切ってしまいたい。」
その言葉の意味を、レオンはすぐには理解できなかった。だが次の管制からの言葉ですべてを理解させられた。
「レオン、そのまま掃討戦に入れ。弾薬が尽きるまで撃ってもかまわん。敵補給部隊を完全に掃討せよ。繰り返す、敵部隊を掃討せよ。」
「…了解。」
レオンは短く答えながら、もう一度地上を見下ろした。逃げ惑う兵士たち。混乱。崩壊。ほんの一部の勇敢な兵士たちがようやくこちらに気が付き、反撃するべく銃を構えているが、その弾はレオンには届かない。射程も威力も足りていない。そこには戦いと呼ぶのが正しい表現なのか疑わしいほどの戦力差があった。こちらはたった一機の戦闘機であるのに、だ。そしてレオンは気づく。自分は今、この戦場において誰にも止められない存在なのだと。この戦況報告が彼らの司令部に届けば、帝国軍はルーヴァリア王国に対して大きな恐怖を抱くことだろう。これまでは、すぐにでも潰せる小国と侮っていた王国に、これほどまでに叩きのめされたのである。補給線がやられれば、国境付近で陣取っている帝国陸軍の部隊も、そう長くは戦線を維持できないだろう。うまくいけば我らがルーヴァリア王国の陸軍部隊が、戦線をダッツ帝国側に押し上げることも可能かもしれない。
ひとしきり弾丸を撃ち尽くしたレオンは機体を大きく引き上げる。地上はレオンの空からの容赦ない攻撃によって炎が上がり、無数の人が転がっているのが確認できる。人類史上初めての攻撃を受けた哀れな敵部隊は少なく見積もっても半数以上を失っているのではないだろうか。それを確認し、レオンは高度を上げていく。
「コントロール、周囲の掃討を完了した。帰還許可を求む。」
「よくやった。後は地上部隊に任せる。レオン、帰還許可を出そう。」
管制と言葉をかわす間にかなり高度が上がっている。ふと地上を見下ろすが、またただの模様が広がるだけだ。しかし、立ち上がる煙だけが、その場所に起こったことを示していた。
「…空は誰のものでもない、いや、ちがうな。」
「まだ誰のものでもなかっただけだ。」
レオンはつぶやく。手の震えがもう落ち着き始めていることに少し恐れを抱きながら。




