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プロローグ「記録されなかった者の話」

その図書館には、アーサー王の記録が眠っていた。


分厚い羊皮紙の束。褪せたインク。何百年もかけて書き継がれてきた、伝説の記録。円卓の騎士たちの武勲、魔法使いマーリンの知恵、そして王の栄光——すべてが丁寧に、克明に記されていた。


ただ一行を除いて。


「アーサーは時に、少女として涙を流す夜もあった」


それだけだった。なぜ泣いていたのか。誰のために泣いていたのか。記録はそこで終わっている。書いた者も知らなかったのか、あるいは知っていて書かなかったのか——今となってはわからない。


アーサーがアヴァロンに渡らなかった理由も、記録にはない。


伝説では、深手を負った王は妖精の島へ送られるはずだった。しかし実際のアーサーは天寿を全うした。戦場で何があったのか。誰が王を救ったのか。騎士たちの記録には「鞘が風で動き、槍が逸れた」とだけある。


風で、動いた。


そういうことにしておいた方が、都合がよかったのかもしれない。


あるいは——本当のことを書ける者が、もうどこにもいなかったのかもしれない。


俺の話をしよう。


といっても、記録には残っていない話だ。図書館のどこを探しても、俺の名前はない。当たり前だ。俺はエクスカリバーの鞘だったのだから。


でも確かに、そこにいた。


アーサーのそばに、ずっと。


生前の俺は、二十三歳の看護師だった。正確には「看護師になった瞬間に死んだ男」だ。


看護師になりたかった理由は、たいしたものじゃない。華やかな志望動機なんて何もなかった。ただ——誰かのそばにいることが、自分には向いている気がしていた。それだけだった。人を治す才能があるとか、命を救いたいとか、そういう話じゃない。ただそこにいて、話を聞いて、手を握って——そういうことなら、俺にもできる気がしていた。


だから看護師になった。


国家試験に合格して、翌朝初出勤に向かう途中でトラックに轢かれた。走馬灯もなかった。神様も出てこなかった。「まだ誰も看護していない」という後悔だけが、意識の最後に残った。


次に気づいたときには——何かが、変わっていた。


目がない。口がない。手も足もない。


あるのは細長い「感覚」だけだった。自分がどういう形をしているのか、どこにいるのか、何なのか——何もわからないまま、ただ「存在している」という感覚だけがあった。


石造りの床の冷たさが、なんとなく伝わってくる。どこかから橙色の光が差し込んでいる。空気はひんやりしていて、どこか埃っぽい。


そこまで把握したところで——


何かが、俺の中に差し込まれた。


硬い。重い。冷たい金属の感触が、内側から俺を満たしていく。肌に触れるような、でも肌とは違う感覚で——剣だ、と思った。剣が、俺の中に収まっていく感触だった。


(……鞘?)


俺は、鞘なのか。


剣を収める、鞘。


それが今の俺だと気づくまでに、少し時間がかかった。気づいてからも、しばらく何も考えられなかった。鞘とは何か。俺はなぜ鞘なのか。これは夢なのか現実なのか。何もかもが曖昧なまま、ただ石の冷たさと剣の重さだけが、確かにそこにあった。


どの剣なのかは、まだわからなかった。


どのくらい時間が経ったかわからない。


石の床の冷たさに慣れ始めた頃、扉が開く音がした。


軽い足音だった。迷いがない。でも、どこか疲れている。そういう足音だった。


足音が近づいてくる。


俺のそばで、止まった。


「……今日も、お疲れ様」


声だった。若い、女の子の声。少し掠れていて、疲れていて、でも誰にも聞かせるつもりのない、ひどく小さな声だった。


細い指が俺に触れた。


剣ごと、持ち上げられる。


「重いね、エクスカリバー」


(エクスカリバー)


その言葉が、止まっていた俺の思考を一気に動かした。


エクスカリバー。あの、アーサー王伝説の。岩から抜いた聖剣の。俺は子供の頃からアーサー王の伝説が好きで、関連する本を読み漁っていた。その知識が今、一気に頭の中を走った。


エクスカリバーの鞘には——不死を与える力がある。


つまり俺は。


「早く寝ないと、マーリンにまた怒られる」


少女が小さく呟いた。


(マーリン)


確定した。


ここはアーサー王伝説の世界で、この子はアーサーで、俺は——エクスカリバーの鞘だ。


その後しばらく心の中で色々と叫んだが、届く相手がいないので割愛する。要約すると「なんで鞘なんだ」「せめて本体にしてくれ」「いや待て不死を与える力があるはずなのに与える手段が一切ないんだが」という内容だった。


その声とともに、俺はやわらかいものに包まれた。布の感触。温かい体温。


抱きしめられていた。鞘の俺が。


(え、抱きしめられてる? 抱きしめられてる!?)


混乱の中で、俺はぼんやりと思った。


誰かのそばにいたかった。


なれなかった。間に合わなかった。


声も届かなくても、動けなくても、革製であっても——俺は確かに、誰かのそばにいる。


目を閉じた。いや、目はないんだが。


これが始まりだ。


記録には残らなかった話の。


誰も書かなかった、エクスカリバーの鞘の話の。


夢だったのかもしれない。


でも俺は今日も、あの子の話を読んでいる。


【プロローグ・了】

皆月葵です。初投稿です、よろしくお願いします!よければ次の話をお待ちください!

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