不屈の防波堤
「男子団体準決勝、シングルス2。星和学院、大野選手対、帝都大附属、松岡選手。コートに入ってください!」
審判のコールが、張り詰めた空気をさらに重くした。
対戦成績1勝2敗。次を落とせば、星和の全国制覇の夢はここで絶たれる。絶体絶命の崖っぷちでコートに向かったのは、星和男子テニス部をまとめ上げてきた大野部長だった。
「……大野さん。あとは、頼みます」
ベンチに戻った陽太が、アイシングを受けながら掠れた声で呟く。
大野部長は、陽太の肩を一度力強く叩くと、静かにコートへ一歩踏み出した。
「ああ。河村、お前が見せた『熱』は無駄にはしない。……ここからは、俺たち三年生の仕事だ」
対戦相手の帝都・松岡選手は、蓮さんほど華やかさはないけれど、徹底的にリスクを排除する「勝つためのテニス」を貫く実力者だ。
試合開始早々、有明のコートには昨日までの女子部の激闘を彷彿とさせるような、重厚なストロークの応酬が始まった。
「……重い」
凛ちゃんが呟く。
大野部長のテニスは、陽太のような爆発力や、湊兄さんのような圧倒的な天才性があるわけじゃない。けれど、一球一球に込められた「重み」が違った。泥臭く、地を這うような深いスライス。相手の嫌がるコースへ、精密に、確実に運び続ける。
「15-0!」
「15-15!」
松岡選手の鋭いフォアハンドがコートの隅を射抜くが、大野部長は驚異的な粘りでそれに追いつく。派手なエースはない。けれど、大野部長がボールを返すたび、観客席からは地鳴りのような拍手が沸き起こる。
「……これが、部長のテニスなんだ」
私はフェンスを握りしめ、その背中を見つめた。
華やかなエースに憧れる後輩たちのために、自分が壁となって相手を削り、泥にまみれて勝利への道筋を作る。
「ゲーム、星和! 1-0!」
最初のゲームをもぎ取ったのは大野部長だった。
でも、帝都の松岡選手は焦る様子もない。むしろ、大野部長の体力を削り取るために、わざと長いラリーを強いているようにも見えた。
「……大野部長、無理しないで。でも、負けないで……!」
莉奈の祈るような声が響く中、大野部長の額からは大粒の汗が滴り落ちる。
十一月の冷たい風の中でも、彼の周りだけは、執念という名の熱気で陽炎が立っているようだった。
第3ゲーム。大野部長の呼吸が激しくなる。
格上の帝都に対し、一歩も引かない精神の削り合い。それは、星和の「不屈の魂」を体現するような、静かで、けれど激しい戦いだった。
試合が進むにつれ、会場の空気は「帝都の圧勝」という下馬評を裏切り、異様な熱気に包まれていった。
「ゲーム、星和! 4-2!」
審判のコールに、星和の応援席が爆発したような歓喜に沸く。
大野部長のテニスは、派手な演出こそないものの、その精度は「精密機械」と称される帝都の選手たちを凌駕していた。相手の松岡選手が放つ時速200km近いサーブも、大野部長は最短の予備動作で面を合わせ、相手の足元へ深く、低く沈め返す。
「……信じられない。松岡のあの強打を、全部完璧にコントロールしてる……」
帝都のベンチで、あの蓮さんさえもが僅かに目を見開いていた。
大野部長の瞳は、驚くほど静かだ。陽太が荒れ狂う嵐なら、大野部長はすべてを受け流し、飲み込む凪の海。
「……はぁ、……はぁ……っ!」
第7ゲーム、松岡選手の顔には明らかな焦燥が浮かんでいた。どんなにコーナーを突いても、どんなに揺さぶっても、目の前の主将は「不屈の壁」として立ち塞がり、絶望的なまでに安定したショットを返し続けてくる。
「……大野さん。あんた、本当に中学生かよ。このプレッシャーの中で、一打も狂わないなんて……!」
松岡選手の悲鳴のような呟き。それに対し、大野部長はインプレースの瞬間に一度だけ、短く息を吐いた。
「……俺は、天才じゃない。だから、練習のすべてを『ミスをしないこと』に注いできた。……仲間のために、一球でも多く繋ぐためにな」
その言葉通り、第8ゲーム。大野部長の執念が結実する。
松岡選手がしびれを切らして放ったドロップショット。大野部長は予測していたかのように突進し、滑り込みながら最短距離でネット際を抜くアングルボレーを決めた。
「ゲーム、星和! 5-3!」
「あと1ゲーム! 部長、あと1ゲームですよ!!」
陽太が氷嚢を放り出して叫ぶ。
大野部長は、滴る汗をリストバンドで拭い、応援席の私たちの方をちらりと見た。その眼差しには、2回戦で涙を呑んだ私たち女子部の悔しさも、すべて背負って戦うという無言の決意が宿っていた。
マッチポイント。
大野部長の放った渾身のスライスサーブが、センターラインに突き刺さる。松岡選手のリターンが力なくネットを叩いた瞬間、審判の力強い声が有明に響き渡った。
「ゲーム、セット! 6-3、星和学院、大野!」
対戦成績、2勝2敗。
崖っぷちの状況から、部長自らがその右腕で、勝負を「大トリ」――シングルス1へと繋ぎ止めた。
女子部が果たせなかった「全国の頂」への夢。その火を消させまいとする大野部長の執念が、今、星和学院に最大の奇跡を呼び込もうとしていた。
「……湊」
コートから戻った大野部長が、震える手で湊兄さんの肩を強く叩く。
「繋いだぞ。……あとは、エースのお前の仕事だ」
「ああ。……よく繋いでくれた。十分すぎるほどだ」
湊兄さんの返答は静かだったが、その瞳の奥には青い炎のような闘志が宿っていた。
対する帝都大附属のベンチ。そこには、昨年の雪辱を誓う執念が渦巻いていた。昨年、絶対王者と呼ばれながらも星和に敗北を喫した帝都にとって、この準決勝は単なる試合ではない。奪われた王座を取り戻すための、聖戦だった。
「……神城。星和の土壇場の爆発力は、計算を超えてくる。ゆめゆめ、油断するな」
蓮さんが、低く険しい声で釘を刺す。蓮さんは誰よりも湊兄さんの恐ろしさを知っている。どれほど追い詰めても、最後には「完成」へと至る湊兄さんの底知れなさを。
「分かっているさ、北条。昨年の屈辱、ここで倍にして返してやるよ」
帝都のS1、神城が不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。
「男子団体準決勝、最終試合。シングルス1。星和学院、水瀬選手対、帝都大附属、神城選手。コートに入ってください!」
湊兄さんがゆっくりとジャージを脱ぎ、コートへと歩み出す。その途中、湊兄さんはふと足を止め、ベンチサイドで見守る蓮さんへと視線を向けた。蓮さんは無表情のまま、けれどその双眸には「来い、湊」という強烈なライバル心が宿っている。
「蓮。……お前が待つ場所まで、すぐに駆け上がる。先に行っていろ」
湊兄さんの言葉に、蓮さんは鼻で笑い、わずかに顎を引いた。
そして、湊兄さんは私の方を向き、いつものように私の頭をポンと軽く叩いた。
「みゆ。……見てろ。俺が、全部決めてくる」
不安をすべて吹き飛ばすような、自信に満ち溢れた笑み。
昨日、悔し涙を流した私に、湊兄さんは「勝利」という最高のプレゼントを届けるつもりなのだ。
コート中央。ネットを挟んで対峙した二人。
帝都の執念を背負う神城と、仲間の想いを背負う湊兄さん。
有明に吹き抜ける冷たい風さえも、二人が放つ熱気で消し飛ばされたかのようだった。
「試合開始! 1セットマッチ、神城サービス!」
審判のコールとともに、神城の放った「昨年の雪辱」を込めた超速フラットサーブが爆発した。
「……っ、見えない……!」
観客席の誰かが悲鳴のような声を上げた。
神城さんのサーブは、ただ速いだけではない。ベースライン際で急激に加速し、ホップするような特殊な回転がかけられている。湊兄さんは序盤、その「帝都の秘密兵器」とも言える打球にタイミングを狂わされ、立て続けにポイントを許した。
「ゲーム、帝都! 2-0!」
帝都ベンチからは「雪辱」を確信する怒号のような声援が響く。蓮さんは腕を組み、微動だにせず湊兄さんの一挙手一投足を見つめていた。その瞳は、「湊、お前の本気はこんなものではないはずだ」と問いかけているように見えた。
湊兄さんは、静かに目を閉じて呼吸を整える。
そして第3ゲーム。湊兄さんが目を開いた瞬間、コートの空気が一変した。
「……そろそろ、慣れたぞ」
湊兄さんの放ったリターンは、神城さんの超速サーブを正面から捉え、さらに倍の速度で足元に突き刺さった。
「なっ……!?」
神城さんの驚愕。そこから始まったのは、もはや中学生の域を遥かに超越した、光速のラリーだった。
「15-15!」
「30-15!」
湊兄さんの動きは、まるで未来を予見しているかのように無駄がない。神城さんがどんなに鋭いコースを突いても、湊兄さんは最短距離でそこに現れ、重く、鋭いカウンターを叩き込む。
「ゲーム、星和! 2-2!」
追いついた。けれど、帝都の意地も凄まじい。神城さんは体力の限界を度外視した猛攻を仕掛け、湊兄さんの守備を力ずくでこじ開けようとする。
スコアは5-4。湊兄さんのリードで迎えた、第10ゲーム。
「水瀬湊……お前は、いつもそうだ! いつだって僕たちの前に立ちはだかり、希望を奪っていく……!」
神城さんが魂を削るような咆哮とともに、渾身のスマッシュを放つ。
しかし、湊兄さんはその打球を恐れることなく一歩前へ踏み込み、右腕を大きく振り抜いた。湊兄さんが本来の力を解放した時にだけ見せる、地を裂くような重低音を響かせるフォアハンド。
「これで、終わりだ」
打球は神城さんのラケットを弾き飛ばし、後方のフェンスに突き刺さった。
「ゲームセット! 6-4、星和学院、水瀬!」
その瞬間、有明の森に、星和学院の勝利を告げる歓喜の嵐が巻き起こった。
湊兄さんは天を仰ぐことなく、ただ静かにラケットを下げ、ネット際へ歩み寄った。神城さんと無言で握手を交わし、それから帝都ベンチの蓮さんへと真っ直ぐに視線を向けた。
蓮さんはゆっくりと立ち上がり、悔しさを押し殺したような、けれどどこか誇らしげな微笑みを浮かべて湊兄さんに頷いた。
「みゆ、やったな……!」
陽太が私の隣で、子供のように泣きながら笑っている。大野部長も、その目に熱いものを浮かべて湊兄さんの元へ駆け寄った。
湊兄さんはコートを出ると、真っ直ぐに私の元へ歩み寄った。
「……待たせたな、みゆ。約束通り、勝ってきたぞ」
その手は少し震えていたけれど、私に向けられた笑顔は、世界中の誰よりも頼もしく、温かかった。
女子部が果たせなかった夢。その続きを、男子部が、湊兄さんが、最高の形で繋いでくれた。
星和学院、決勝進出。
私たちの「全国」は、まだ終わらない。
おはようございます。
作者のFERILUです。
『神様の身代わりー光の兄と罪の妹ー』
を読んでくださりありがとうございます。
準決勝無事通過です。




